ネタ切れ人民共和国統合不定期更新日記へようこそ。管理人のs19171107と申します。(自己紹介)
当ブログは、ネタ切れ人民共和国の一コンテンツであり、建前上は「世界10カ国以上、70以上のメディアと30近くのメルマガ、20以上のブログから厳選したニュースをなるべく毎日紹介することを中心とした日記」となっております。また、運営方針も一応定めてありますが、正直なところ、なんでもありのメモ帳です。
現在、このウェブスペースでは、下記の企画を運営しております。
1.「報道紹介」(個人ニュースサイトみたいなもの)
2.「突撃取材記録」(要するに野次馬の記録)
3.「4様(四宮正貴)ファンクラブ時評」(詳細)
4.「スレッド保管」(詳細)
5.「朝鮮音楽」(朝鮮民主主義人民共和国音楽関連の雑記)
6.「サイト運営に関する報告」
なお、1番の「報道紹介」の、チュチェ95(2006)年1月以前の過去ログは旧日記トップページからご覧いただけます。
また、6番の「サイト運営に関する報告」に関しては、大きな更新は逐一記事を書きますが、小さなものに関しては、この直下のインラインフレームに掲示いたしますので、そちらをご覧ください。
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細かい「お願い」や、当方の記事の書き方、リンクやコメント投稿に関する規約は、基本的にサイトの方と同じなのでこちらをご覧ください。
それでは、ごゆるりと。
(チュチェ96年3月2日改訂)
※この投稿の投稿時間が2030年12月31日23時59分になっているのは、常に画面の一番上に表示させるためです。
※この投稿へのコメント・トラックバックは、情報提供(宣伝)や、当方がまだ記事にしていない問題についての提起・提案投稿のためにお使いください。
2030年12月31日
2008年07月17日
無意識によってもたらされる子供じみた擁護論
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20080717k0000m040019000c.html
毎日新聞以外も報じているんですが、、、
ふたつ。批判の主体が誰であろうと、職務中に抜け出して公用車でジムに行くことが悪いことには変わりありません。
もちろん、4月4日づけ労働に対する信仰においても書いたように、その日の仕事が全部終わって、もうやること無いから行ったというのなら、それは構いません。しかし、臨時議会で委員会審議をしている時期に、知事の仕事が13時に終わるなんてことありますか?
このように、意図的に無視しているのか、すっとぼけているのか分かりませんが、「真昼間に抜け出した」という点について言及せずに擁護している人が思いのほか多いです。以下も同様の一例。
それに帰りはタクシーですよ。どうするんですか、タクシーの運転手が中○派だったら!
そういえばこの論理、「共産貴族」正当化と大差ないように思うんですがね、、、そして、こういう論理を平気で口にするところ、かつての既存社会主義国盲信分子の苦しい擁護論と、どことなく共通性を感じます。
反論できないからか、ブチギレた方もいらっしゃいます。
いかがだったでしょうか。私が見つけた中でも、かなり苦しい擁護論を集中的にご紹介いたしました。
もし、今回の行為が橋下知事ではなく、たとえば福田首相、あるいは舛添厚労相、坂野社会保険庁長官だったら、果たしてこのような擁護論は見られたでしょうか。まず無いと思います。
では、この違いは何処にあるのでしょうか。私としては、ちょっと漠然しているかもしれませんが「日本人だからこそ」だと思います。5月8日づけ政治問題における日本人の単純思考では、私は以下のように書きました。
しかし当たり前ですが、実際の人間は完全な存在ではないので、人それぞれ長所もあれば短所もあり、ある人物の一時の過失や誤謬を批判することは、その人物を否定することでは決してありません。
もちろんこんなこと、私が言うまでも無いことであり、今回ご紹介した擁護論を展開されている方々だって「分かっている」はずです。しかし、この傾向は恐らく無意識です。無意識を意識することは難しく、それを矯正することは更に難しい。
無意識によってもたらされる、このような子供じみた擁護論は一朝一夕には解決できないでしょうが、見ているこっちが恥ずかしくなってくるので、なんとかしたいものです。
橋下知事:公用車使い昼間にジム通い 「府民に判断を」例によって「世論」を集めると、思いのほか擁護が多くて驚きました。ご紹介します。
橋下徹・大阪知事 大阪府の橋下徹知事が臨時議会開会中、公用車を使って大阪市北区のジムに行ったことが分かった。公表される知事日程でこの時間帯は「庁内執務」とされていた。橋下知事は16日、報道陣に「自分で時間を管理するのが特別職。ジムで思いを巡らすこともある」と釈明し、昼間のジム通いや公用車使用の是非について「府民のみなさんに判断してもらいたい」と話した。
府秘書課や橋下知事によると、14日午後1時ごろ府庁を出発。市内の法律事務所に寄り、同2時ごろジムに向かった。5時前に府庁に戻る際はタクシーを使ったという。公用車の使用について橋下知事は「プライベートだが、警備上必要で問題ない」と話している。この日は臨時議会で委員会審議中だった。
ジムは、6月中旬以降、帰宅途中などに今回も含め公用車で5回行ったが、昼間は初めてという。知事就任後、外出もままならず、不規則な生活で7キロ太ったという橋下知事は「知事職は意思決定の職業。体調管理や判断できる環境作りも必要」と語った。
また毒日新聞か>また毒日新聞か
国会議員共が公用車を乗り回して、国民の税金で料亭の高い食事を食べ、その場で賄賂を受け取ったり悪事を相談したりするよりよっぽど健康的だと思うわけですが
殆ど休み無く働いていらっしゃるようなのでこれくらいの息抜きは良いんじゃないかな。
東京の日本を牛耳っていると勘違いしているチンパンジーみたいな顔の夏休みを取っている役立たずも身を削って頑張っている知事を少しは見習いましょう
毎日新聞以外も報じているんですが、、、
どうせ、他の既存大阪市職員や幹部らが、居心地悪くなった腹いせに揚げ足取りしてるだけでしょ?ひとつ。「どうせ、他の既存大阪市職員や幹部らが、居心地悪くなった腹いせに揚げ足取りしてるだけ」というのはあなたの憶測に過ぎません。
まともに取り合うだけ馬鹿馬鹿しい。
まだ仕事してる分、否定するしか能が無い肩書きだけの給料泥棒よりはマシじゃないですかね。
片っ端から否定するなら、代替案を出すくらいのことをしてみろっての。
否定するだけは、ガキでもできる。
結局、新たな裏金が出たことからも判る通り、自浄しようなんて気が無いとしか思えません。
公務時間中(行っていた時間は議会中だった)に公用車で、ジムに行ったことは決して誉められません。
号令を掛ける人間が襟を正すことは、どこの場においても必要なことです。
しかし、やることさえやらずに権利だけを主張するような…
例えば例の「30万(だっけ?)でどうやって生活しろと言うの」とか言った女性職員とか、明らかな医療報酬違反があってもチェックする気の無い(これは他に法外な権利主張をする輩など、諸々の理由がある場合も否定できないが)某担当職員とかに比べたら、まだ職務をこなそうとするだけ良いかと思います。
ふたつ。批判の主体が誰であろうと、職務中に抜け出して公用車でジムに行くことが悪いことには変わりありません。
健康管理をしてなにが悪いのか。「帰り道に寄った」ってくらいなら私だって大目に見ますけどね、昼間の職務時間中に公用車使って抜け出したんですよ。つまり「プライベート」であるべきではない時間にプライベートタイムを満喫しやがったから問題になっているんです。
むしろ健康管理費くらいつけたほうがいいんじゃないの?
立場的に病気とかで倒られたほうがよほど迷惑がかかる。
あとプライベートといっても知事は知事だろう。
ただでさえ敵をつくることをしてるのに、無防備にあちこちいくわけにもいかない。
なんかみんな政治家を軽く見すぎじゃない?
実際殺されてる政治家も大勢いるんだから、身を守ることに金を使うのは当然でしょ。
もちろん、4月4日づけ労働に対する信仰においても書いたように、その日の仕事が全部終わって、もうやること無いから行ったというのなら、それは構いません。しかし、臨時議会で委員会審議をしている時期に、知事の仕事が13時に終わるなんてことありますか?
このように、意図的に無視しているのか、すっとぼけているのか分かりませんが、「真昼間に抜け出した」という点について言及せずに擁護している人が思いのほか多いです。以下も同様の一例。
健康管理も知事の大切な仕事の一つ。ましてや時間のない特別職なんだから尚更のこと。公用車と警備の問題も『殺害予告』まで受けてる知事なんだからしかたない。だから、昼間に抜け出したことが(ry
雇われの一般職員と同じ物差しで今回の事をごちゃごちゃ言う事自体がナンセンス。
ごちゃごちゃ言ってる連中は『経営者的視点』から物を見て発言して欲しい。
それに帰りはタクシーですよ。どうするんですか、タクシーの運転手が中○派だったら!
そういえばこの論理、「共産貴族」正当化と大差ないように思うんですがね、、、そして、こういう論理を平気で口にするところ、かつての既存社会主義国盲信分子の苦しい擁護論と、どことなく共通性を感じます。
反論できないからか、ブチギレた方もいらっしゃいます。
問題あると思う奴等、まず、土日祝日、朝晩、365日24時間関係無しに働いてから、言え。で、この記事に寄せられたコメントに藁田w
んっとに・・・。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ ウルサイなぁ。
マスコミも叩きやすい所しか、叩かなくなって・・・終わりだな。
マスコミも、関西エリアの部落問題、取り上げて見ろよ。
ニュースからです。働いてねえじゃんwwwwwwwwww
本当に素晴らしい意見ですね。まったくもってその通りでしょう。
グチグチ文句言うなら自分の給料を減らして毎日朝から晩まで働いてから言えと。
失礼しましたm(__)m
いかがだったでしょうか。私が見つけた中でも、かなり苦しい擁護論を集中的にご紹介いたしました。
もし、今回の行為が橋下知事ではなく、たとえば福田首相、あるいは舛添厚労相、坂野社会保険庁長官だったら、果たしてこのような擁護論は見られたでしょうか。まず無いと思います。
では、この違いは何処にあるのでしょうか。私としては、ちょっと漠然しているかもしれませんが「日本人だからこそ」だと思います。5月8日づけ政治問題における日本人の単純思考では、私は以下のように書きました。
日本人の、ある人物や集団に対する認識・評価が「全体的すぎる」という特徴についても何度か書いてきました。すなわち、ある人物の人格や集団の特徴の一面だけを取り上げて、あたかもそれが全てであるかのように喧伝し、その人格や集団の良い面や関係ない面までも否定するといったものです。自分が応援しているものを擁護したくなるのは、人間として自然な感情です。しかし、殊、日本人の場合、「善か悪か」といったように、ある人物に対する評価が全体的・一面的過ぎるがために、ある人物の一時の過失や誤謬を批判することが、すなわち、その人の全てを否定することに繋がるという思い違いが根底にあるがゆえに、このような子供じみた無茶な擁護論を平気で口にするのではないかと思います。
さらにいえば、日本人はある問題について他人から批判されると、自身の行動の再点検より前に、その批判者の身辺のあら捜しを始め、「おまえに言われたくない」などという、大の大人にとっては、極めて見苦しい、小学校低学年児童レベルの「反論」を始めることも指摘しておかなければなりません。
しかし当たり前ですが、実際の人間は完全な存在ではないので、人それぞれ長所もあれば短所もあり、ある人物の一時の過失や誤謬を批判することは、その人物を否定することでは決してありません。
もちろんこんなこと、私が言うまでも無いことであり、今回ご紹介した擁護論を展開されている方々だって「分かっている」はずです。しかし、この傾向は恐らく無意識です。無意識を意識することは難しく、それを矯正することは更に難しい。
無意識によってもたらされる、このような子供じみた擁護論は一朝一夕には解決できないでしょうが、見ているこっちが恥ずかしくなってくるので、なんとかしたいものです。
2008年07月16日
こうくると思った【追記あり】
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080715-OYT1T00304.htm
内容自体は、まあ以前からこの手の事件がおきれば、きっとこういう「世論」が出てくるんだろうなあ、とは思ってはいましたが、いざ現実に直面すると、なんというか、、、
ところで、「捕鯨反対派」もこういう感覚で「くじらヲ殺スノハ、カワイソウダヨ!」って言っているんでしょうなあ。最近はすっかりと静かになった捕鯨問題ですが、根底には実に根深いものがあると思います。
【追記】7月16日1時37分
余力を振り絞って、そのほか何件か巡回したところ、以下のようなものがありました。
ところで、被疑者男性を「かみ殺す」となると、それは応報にすらならず、以前にも書いたとおり、「新たな犯罪」となる(もちろん、この場合は実行者が「土佐犬」なので、刑事責任は問えませんがね)わけですが、その辺はいかがお考えなんでしょうね。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
4か月のチワワ「怖い」とけり殺す、44歳男を逮捕某所より。
散歩中の他人の愛犬をけり殺したとして、愛知県警は15日、名古屋市千種区清住町、会社員田中善行容疑者(44)を器物損壊の疑いで現行犯逮捕し、名古屋地検に送検したと発表した。
発表によると、田中容疑者は今月13日午後4時45分ごろ、同区覚王山通の歩道で、男性会社員(40)が連れていた飼い犬を右足でけり、死亡させた疑い。犬は生後4か月の雄のチワワで、動物病院に運ばれたが、内臓破裂のため間もなく死亡が確認された。
田中容疑者は右足で思い切りけった後、歩いて立ち去ろうとしたが、目撃していた男性会社員(47)に取り押さえられた。調べに対し、「犬が怖かった」などと話しているという。
ニュース記事を見て、本当にこの犯人が許せないです。今日はちょっと体調がよろしくないので、上記一件しかを見ていないのですが、こういう感情主体の世論は、1件見つかれば100件はある(鼠より酷いw)ので、ちゃんと探せば相当数見つかると思います。
この子犬の命、それは家族の命。
飼い主さんの悲しむ顔が頭に浮かんで、いたたまれない気分です。
名古屋地裁はどのような判決を下すのでしょう。
人の家族を殺した罪が軽い罪ですまされるのでしょうか。
僕と同じような意見をお持ちの方がいらっしゃると思います。
判決によっては行動を起こしたほうがいいと思います。
このわんちゃんの為にも、私たちの愛犬の為にも。
この事件は簡単に済ましていい問題ではないです。
僕たちはこれからの動向を追っていく義務があります。
動物を飼ったことのある方ならこの気持ち分かってもらえると思います。
動物を保護し、残された家族に対する法律が整ってはいません。
僕は動物なら犬でも蛇でもハムスターでも人に対する法と同じに裁いてもいいとさえ思います。
怖いと思うこと、それ自体は問題はない。
しかし、怖いから、蹴り殺す。
しかも子犬を。大型犬なら蹴れたのですかね。
弱い者虐めもいいとこです。
それこそ道徳の問題ですが、子供を殺すことと子犬を殺すことは同じに扱ってはダメですか?
内容自体は、まあ以前からこの手の事件がおきれば、きっとこういう「世論」が出てくるんだろうなあ、とは思ってはいましたが、いざ現実に直面すると、なんというか、、、
ところで、「捕鯨反対派」もこういう感覚で「くじらヲ殺スノハ、カワイソウダヨ!」って言っているんでしょうなあ。最近はすっかりと静かになった捕鯨問題ですが、根底には実に根深いものがあると思います。
【追記】7月16日1時37分
余力を振り絞って、そのほか何件か巡回したところ、以下のようなものがありました。
蹴り殺されたチワワ。ついに被害"犬"の代弁ですか。
自分の身体とほぼ同サイズの巨人の足で蹴り上げられ絶命。
即死とは言え、怖かったと思う。
こないだ土佐犬に飼い主が噛み殺されたけど。
その土佐犬をこの野郎の前に持って来て、「ホントに怖いってのはこういうことだ」と噛み殺させてやりたい。
ところで、被疑者男性を「かみ殺す」となると、それは応報にすらならず、以前にも書いたとおり、「新たな犯罪」となる(もちろん、この場合は実行者が「土佐犬」なので、刑事責任は問えませんがね)わけですが、その辺はいかがお考えなんでしょうね。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
2008年07月14日
迎合
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080714-00000037-mai-soci
<大阪地裁所長襲撃>少年の「無罪」確定 再抗告審の最高裁太字部分。あえて何も言わない。
7月14日13時36分配信 毎日新聞
大阪市住吉区の路上で04年2月、大阪地裁所長(当時)が襲われ重傷を負った事件で、強盗傷害の非行事実に問われた当時14歳の少年(19)について、最高裁第3小法廷(田原睦夫裁判長)は11日付の決定で、刑事裁判の「無罪」に当たる不処分とした大阪家裁決定を支持した。大阪高裁が家裁決定を取り消していたが、小法廷は少年側の再抗告を認め、高裁の判断を覆した。これで、少年の不処分が確定した。
少年に対しては(1)大阪家裁が少年審判で中等少年院送致を決定(2)大阪高裁が「自白の信用性に疑問がある」と取り消し(3)差し戻し審で家裁が不処分を決定(4)高裁が再び家裁決定を取り消し−−という異例の展開をたどった。
1回目の高裁決定は、逃走する犯人グループとみられる防犯カメラの映像に、グループの一員とされた大柄の人物がいないことを少年院送致取り消しの理由の一つに挙げたため、差し戻し審で検察側は逃走を再現したDVDの証拠調べを求めた。家裁は認めなかったが、高裁は「DVDを調べれば結論が覆る可能性があった」と再び審理を差し戻す決定をしていた。
小法廷は「覆る可能性は認められず、早期・迅速な処理が要請される少年事件の特質を考慮すると、差し戻し審の家裁の措置は合理的な裁量の範囲内」と指摘し、不処分決定を支持した。田原裁判長は補足意見で「少年事件では、捜査機関の意向に迎合し、客観的証拠と矛盾した自白をする危険性が高いことを如実に示す一事例」と指摘した。
事件では、逮捕・補導された5人のうち成人男性2人の無罪が確定。少年の兄(当時16歳)は少年院収容後、大阪家裁で「再審無罪」に当たる保護処分の取り消し決定を受け、検察側が抗告した。当時13歳の少年は児童自立支援施設に送致されたが、「自白を強要された」と国などに賠償を求め提訴している。
2008年07月13日
「緊急性」
http://netallica.yahoo.co.jp/news/41150
http://blog.watanabepro.co.jp/nishiokasumiko/archives/2008/07/12_23_post_37.html
以前にも書きましたが、何を以って「緊急」とみなすかというのは、その人によるのではないかと思います。たとえば今回のように、「声」を資本にして活動している人にとっては、「声」が出なくなるというのは資本を失うことと等しく、その不安は並大抵のものではないでしょうが、私みたいに、ペンを握ることが出来、キーボードを打つことが出来れば、声が出なくても筆談でなんとかなる程度の人にしてみれば「まあそのうち病院にいけばいいかな」くらいにしか思いません。そうこうしているうちに、大体直っちゃうんですけどねwww
また、緊急搬送についても、「全緊急搬送のうちのx割は軽症だった」という言説が昨今、メディア報道などで良く聞きますが、それは医療知識のある人が見て「軽症」なのであって、医療知識の無い人にしてみれば、軽症かどうかなんて分かりません(もちろん、中には如何見ても軽症もいるでしょうが)。
更に、殊に彼女の場合、症状が夜に出たというのは大きいと思います。夜に考え事をすると昼間以上に深刻に考えてしまうという経験がある方なら、「夜の不安」の恐ろしさというものは良くご存知かと思います。
かといって、「本人にとって緊急」ならば何でも許してよいかといえば、それは「医療崩壊」を早めるだけであり、何らかの手を打たなくてはなりません。
その点、私としましては、どういう症状を以って救急車を呼ぶべきか、緊急病院に駆け込むべきか、という点に関しての指針を、もっと広報することが必要なのではないかと考えます。少なくとも、昨今の「医療崩壊」関係報道に良く見られる「マナー」などという言葉によって道徳的に批判し、緊急搬送要請を抑止しようする工作については、本人にとっては緊急であり、且つ、素人にしてみれば軽症かどうかなんて分からないのですから、おそらくそういう人たちは、自身の、結果的に軽症であり緊急搬送されるほどではなかった件について「マナー違反」だなんて思っていないですよ。「だって緊急だと思ったんだもん。しょうがないじゃない、素人には分からないんだから。」と切り返されるのがオチです。
SMの女王様キャラでブレイクしたお笑いタレント・にしおかすみこが、12日(土)付の自身のブログで「「あ”−」と叫びすぎて。のどに、おできができてしまい。声がでなくなり。深夜、救急病院に行ってきました」と明かした。医者から“絶叫禁止令”を勧告されていることから、これを機に彼女の芸風がどのように変化するのか気になるところだ。某所では、太字部分について以下のようなコメントが寄せられています。
初のエッセイ『化けの皮』(ゴマブックス)を発売し、全国各地を回ってサイン会ツアーを行っているにしおかだが、絶叫がたたったのか、のどを痛めてしまい、深夜に救急病院に駆け込んだ。なんとか治療を受けるが鼻からカメラを入れることになり、「パッと見、鼻から極太めん出してる人みたい」になったそう。
診断の結果、入院の必要はなかったようだが、医者から「良くなるまでは、あんまりしゃべったらダメですよ」と警告されてしまったにしおか。「元気なんですが、なかなか声がもどらず。みなさんにご迷惑おかけしています」ともどかしい気持ちを吐露している。
昨年ブレイクしたにしおかだが、実は94年ごろから活動しており、“ドS”の女王様キャラを演じるようになったのは最近のこと。実生活では“ドM”だと過去に『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)などで泣きながら告白したことも。最近、イベントなどの公の場に登場する際は、女王様キャラを封印し、女性らしい格好で、徐々にキャラチェンジを図っていた彼女。
今回の“絶叫禁止令”によって、キャラチェンジに更に拍車が掛かる可能性が帯びてきたにしおか。今後の彼女が芸人として引き続き過激なパフォーマンスを行なっていくのか、もしくは本来の姿である女性らしい、おしとやかな部分を全面に出していくのか、その去就に注目したい。
芸風を禁じられるほどノドを痛めたのは気の毒だけど、これって救急じゃないじゃん。単なる夜間診療。これはイカンだろ。たしかに傍から見れば、この程度のことで緊急病院に駆け込むことは、「コンビニ受診」と言われても仕方ないことです。しかしながら、以下、本人のブログ記事を見る限り、私としては、そう激しく非難できません。
救急医療がコンビニ受診のせいで崩壊を始めてる昨今、これを指摘しないわけにはいかない。
「普段働いてるから」なんて言い訳は通用しない。
社会人はみな仕事を休んで病院に行くんだから。芸能人であろうと関係ない。
仕事や日常生活に支障がでるほどならなおのこと。何を考えているのか。
まあ、まさかいないとは思うけど、もしこの件で噛みつく人がいるとすれば、それはその人自身がモンスターペイシャントだからなんだよね。
http://blog.watanabepro.co.jp/nishiokasumiko/archives/2008/07/12_23_post_37.html
どうやら、「あ”−」と叫びすぎて。芸人にとって「声」は資本であります。にもかかわらず、彼女はその資本たる「声」が出なくなってしまったそうです。
のどに、おできができてしまい。
声がでなくなり。深夜、救急病院に行ってきました。
窓口で。
私「すみません。」と。
。。。。。。。言ってるつもりなんですが。なんせ、声が出てないので。
誰にも気づかれず。
なんとか気づいてもらおうと。
「すみません!すみません!」
。。。。。。。。届かず。
しばらくすると、他の対応に追われていた係の人が出てきて。
「どうしました?呼んでください。」と。
。。。。。。呼んだ。。。。。何度も。。。。
「もしくは、手元のブザーを押してください。」と。
見ると、横にブザーが。。。。。
。。。。あ。。。。。
耳鼻科に通され。診察。
若い男のお医者さんが。
「とりあえず、鼻からカメラ入れますね。」と。
え!?
鼻にカメラ?。。。。。。。とりあえず入れるもんじゃないでしょ。。。。
そんな。。。とりあえずビールみたいな言い方で。。。。
医者「入れたことあります?」
ないですよ。。。。
医者「じゃあ、ツーンとしますよ。」と言いながら、
意図も簡単に
先端にカメラがついた管のようなものを、
片方の鼻の穴に入れた。
ツーン?
そんな、かわいいもんじゃない!ツーン?ちがう!カキーン?いや!
パーン!バッカーン!
ちがう。ぴったりの音がない。。。。。痛い。。。。。
医者「そのまま、しばらく楽にしてて下さい。」
。。。。。。どうやって。。。。。。。楽に?。。。。。。。
鼻から白い管ぶら下げて、楽に?。。。。。。
パッと見、鼻から極太めん出してる人みたいだ。。。。。
先生が、カメラを覗きながら。
「おでき、腫れてますね。」と。
薬をもらい。
医者「良くなるまでは、あんまりしゃべったらダメですよ。」と。
。。。。はい。。。。。でも、鼻からカメラ入れたこと。。。誰かに
しゃべりたい。。。。ムズムズする。。。。。。よし。
ブログに書こう。
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元気なんですが、なかなか声がもどらず。
みなさんにご迷惑おかけしています。
ライブに来てくださったお客さんも、すみません。
また是非遊びに来てください。
早く治します。
以前にも書きましたが、何を以って「緊急」とみなすかというのは、その人によるのではないかと思います。たとえば今回のように、「声」を資本にして活動している人にとっては、「声」が出なくなるというのは資本を失うことと等しく、その不安は並大抵のものではないでしょうが、私みたいに、ペンを握ることが出来、キーボードを打つことが出来れば、声が出なくても筆談でなんとかなる程度の人にしてみれば「まあそのうち病院にいけばいいかな」くらいにしか思いません。そうこうしているうちに、大体直っちゃうんですけどねwww
また、緊急搬送についても、「全緊急搬送のうちのx割は軽症だった」という言説が昨今、メディア報道などで良く聞きますが、それは医療知識のある人が見て「軽症」なのであって、医療知識の無い人にしてみれば、軽症かどうかなんて分かりません(もちろん、中には如何見ても軽症もいるでしょうが)。
更に、殊に彼女の場合、症状が夜に出たというのは大きいと思います。夜に考え事をすると昼間以上に深刻に考えてしまうという経験がある方なら、「夜の不安」の恐ろしさというものは良くご存知かと思います。
かといって、「本人にとって緊急」ならば何でも許してよいかといえば、それは「医療崩壊」を早めるだけであり、何らかの手を打たなくてはなりません。
その点、私としましては、どういう症状を以って救急車を呼ぶべきか、緊急病院に駆け込むべきか、という点に関しての指針を、もっと広報することが必要なのではないかと考えます。少なくとも、昨今の「医療崩壊」関係報道に良く見られる「マナー」などという言葉によって道徳的に批判し、緊急搬送要請を抑止しようする工作については、本人にとっては緊急であり、且つ、素人にしてみれば軽症かどうかなんて分からないのですから、おそらくそういう人たちは、自身の、結果的に軽症であり緊急搬送されるほどではなかった件について「マナー違反」だなんて思っていないですよ。「だって緊急だと思ったんだもん。しょうがないじゃない、素人には分からないんだから。」と切り返されるのがオチです。
信濃町に行ってきた
「光市事件報道を検証する会」主催のシンポジウムに参加したついでに、信濃町に行ってきました。
当「ネタ切れ人民共和国」では、毎年3月下旬〜4月上旬頃に信濃町定点観察をしていたんですが、今年は、3月下旬は「いろいろあった」ため、4月上旬は光市事件関係の資料整理と記事編集で忙しかったためにやっておりませんでした。というわけで、今回の報告は、ちょっと遅いですが、今年分の定点観察ということで。
では、報告を、、、と思ったんですが、正直報告することが無いんですよね。全く変っていなかったもんで。
強いて言うならば、「造花しきみ」と「生しきみ」が堂々と並んで販売されていたくらいでしょうか。創価の皆さんって自分が過去に言っていたことも忘れてしまうんですね。
http://www.geocities.jp/s19171107/KIKAKU/KUTABARE-CULT/JUCHE97Ver/shikimi.html
昨年の定点観察記事では、「生しきみ」が一切おいておらず、かわりに造花だけがあったので、あるいは「しきみ」が生育不良で出荷できない間の暫定措置かと思っていたのですが、今回、「生しきみ」と「造花しきみ」が堂々と並んでおいているのを見ると、自分達の前言をすっかり忘れきっているようです。いやあ、「柔軟な信仰」なんですね、創価学会さんってw
アニメ『人間革命』のDVDも出たそうです。今までVHS形式で1巻2800円していたものを、2巻あわせてたものを1枚のDVDにして2000円と、大変お求め安くなっておりますwwとりあえず、VHS版の1巻〜6巻までを3枚分けにして売っているみたい。信心深い学会の皆さん、どうせ内容なんて同じでしょうけど、この際、買い換えてはいかがですか?
そのほか、定点観察ではないのですが、創価の土産屋での出来事。ブックコーナーで『ガンジー・キング・イケダ』に苦笑したり、松本サリン事件被害者である河野義行氏の著書『命あるかぎり〜松本サリン事件を超えて』を立ち読みして、「第三文明社出版じゃなければ買うんだけどなあー」と惜しい思いをしたり、あるいは、ゴルバチョフ氏と池田の対談本のうち、池田の戯言を読み飛ばして立ち読みしていると、気がつくと隣に20代の女性グループが。別に聞き耳立てていたわけじゃないんですが、まだ大学生の気分が抜けていないのか、リアル大学生なのかは知りませんが、なんか声が大きいんですよ。次の瞬間、私はとんでもないことを耳にしてしまいました。
「折伏したい人に買おうっと」
( ゚д゚ )
この発想はありませんでした。
皆様におかれましては、他人に本を贈ったことがある方もいらっしゃるかと思います。私も以前、好きな人の誕生日に本を贈ったことがありますし、逆に、私の誕生日に贈られたこともありましたが、それって殆どの場合、相手が自分の子供で無い限り、つまり、相手と自分が対等の関係である限りは、両者の間には共通の趣味や関心分野があり、その分野の書籍の中で、自分がオススメだと思うものを贈りますよね?
しかし、この女性の「折伏したい人に買おうっと」という発言から分かるように、この女性が本を贈ろうとしている相手は非学会員です。つまり、学会なんかには興味ない人です。これほどの迷惑がありましょうか。
まあ、この女性には悪気はないんだと思うんですよ。「創価の教義は正しい」という確信をもとにした、ひたすらの善意だと思います。しかし、この「勘違いの善意」「思い込みの善意」ほど迷惑で厄介なものはないことは、ポル・ポトの3年8ヶ月が証明しています。
いやはや、やっぱ創価は創価なんですねー。
そういう意味では、やはり「変化」のない定点観察でした。早くくたばれ糞カルト。
過去3年の信濃町見聞録
http://www.geocities.jp/s19171107/KIKAKU/KUTABARE-CULT/index.html
当「ネタ切れ人民共和国」では、毎年3月下旬〜4月上旬頃に信濃町定点観察をしていたんですが、今年は、3月下旬は「いろいろあった」ため、4月上旬は光市事件関係の資料整理と記事編集で忙しかったためにやっておりませんでした。というわけで、今回の報告は、ちょっと遅いですが、今年分の定点観察ということで。
では、報告を、、、と思ったんですが、正直報告することが無いんですよね。全く変っていなかったもんで。
強いて言うならば、「造花しきみ」と「生しきみ」が堂々と並んで販売されていたくらいでしょうか。創価の皆さんって自分が過去に言っていたことも忘れてしまうんですね。
http://www.geocities.jp/s19171107/KIKAKU/KUTABARE-CULT/JUCHE97Ver/shikimi.html
昨年の定点観察記事では、「生しきみ」が一切おいておらず、かわりに造花だけがあったので、あるいは「しきみ」が生育不良で出荷できない間の暫定措置かと思っていたのですが、今回、「生しきみ」と「造花しきみ」が堂々と並んでおいているのを見ると、自分達の前言をすっかり忘れきっているようです。いやあ、「柔軟な信仰」なんですね、創価学会さんってw
アニメ『人間革命』のDVDも出たそうです。今までVHS形式で1巻2800円していたものを、2巻あわせてたものを1枚のDVDにして2000円と、大変お求め安くなっておりますwwとりあえず、VHS版の1巻〜6巻までを3枚分けにして売っているみたい。信心深い学会の皆さん、どうせ内容なんて同じでしょうけど、この際、買い換えてはいかがですか?
そのほか、定点観察ではないのですが、創価の土産屋での出来事。ブックコーナーで『ガンジー・キング・イケダ』に苦笑したり、松本サリン事件被害者である河野義行氏の著書『命あるかぎり〜松本サリン事件を超えて』を立ち読みして、「第三文明社出版じゃなければ買うんだけどなあー」と惜しい思いをしたり、あるいは、ゴルバチョフ氏と池田の対談本のうち、池田の戯言を読み飛ばして立ち読みしていると、気がつくと隣に20代の女性グループが。別に聞き耳立てていたわけじゃないんですが、まだ大学生の気分が抜けていないのか、リアル大学生なのかは知りませんが、なんか声が大きいんですよ。次の瞬間、私はとんでもないことを耳にしてしまいました。
「折伏したい人に買おうっと」
( ゚д゚ )
この発想はありませんでした。
皆様におかれましては、他人に本を贈ったことがある方もいらっしゃるかと思います。私も以前、好きな人の誕生日に本を贈ったことがありますし、逆に、私の誕生日に贈られたこともありましたが、それって殆どの場合、相手が自分の子供で無い限り、つまり、相手と自分が対等の関係である限りは、両者の間には共通の趣味や関心分野があり、その分野の書籍の中で、自分がオススメだと思うものを贈りますよね?
しかし、この女性の「折伏したい人に買おうっと」という発言から分かるように、この女性が本を贈ろうとしている相手は非学会員です。つまり、学会なんかには興味ない人です。これほどの迷惑がありましょうか。
まあ、この女性には悪気はないんだと思うんですよ。「創価の教義は正しい」という確信をもとにした、ひたすらの善意だと思います。しかし、この「勘違いの善意」「思い込みの善意」ほど迷惑で厄介なものはないことは、ポル・ポトの3年8ヶ月が証明しています。
いやはや、やっぱ創価は創価なんですねー。
そういう意味では、やはり「変化」のない定点観察でした。早くくたばれ糞カルト。
過去3年の信濃町見聞録
http://www.geocities.jp/s19171107/KIKAKU/KUTABARE-CULT/index.html
2008年07月09日
"命の価値の格差社会"
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080709-00000051-jij-soci
2月ごろだったかな、暴力団員が暴力団員を射殺した強盗殺人事件の最高裁判決において、5人中3人が「一般人巻き込んでないし無期でいいんじゃね?」というような判断をしたことについて、「暴力団員だろうと一般人だろうと同じ人間なんだから、被害者の加入組織を以って"命の格差"をつけるべきではない。素直に死刑にすべきだ。」という意見がニュー速に書き込まれていた記憶があります。昨今の死刑要求世論というと、専ら感情的で、「それをいうなら、、、」と言うツッコミがごまんとできるモノがかなりありますが、あれに限っては、(制度の是非は別として)死刑制度を現実として存置している国が取るべき方策の一つとしては珍しく筋の通った論立てであり、私としてましては、今まで当ブログの編集活動を通して分析してきた死刑を要求する世論は、確かに脊髄反射的なのが多かったですが、決してそれだけではないことを改めて認識しました。いや、「感情屋習性研究」記事編集のときだって、頭の片隅では「まあ、こういうのばかりじゃないだろうけどさ」とは思っていましたが、現実として目の前にある「世論」の多くはアレな意見が多かったので、なんか自信がもてないというかそんな感じがしていたんですよ。(←なんか上手く表現できないけど、皆様お分かりいただけますよね?「分かっているけど分からない」って感覚)
しかし今回取り上げた書き込み―被害者の加入組織によって「命の格差」をつける―は、「いつもどおり」のアレなものでした。昨今は「(経済的)格差社会」が社会問題とされており、各方面で様々な論議を呼んでいます。確かに「(経済的)格差社会」も深刻ですが、上記コメントが示す、被害者の加入組織、つまり「被害者の日ごろの行い」を以って、その生命の価値をランク分けしようとする「命の価値の格差社会」とも言えるような風潮は、それ以上に深刻ではないかと思う次第です。
もちろん、下のほうに埋もれてはいましたが、良識的意見もありますよ。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
組員ら乱闘、2人死傷=傷害致死容疑で4人逮捕へ−警視庁コメント欄。
9日午前2時50分ごろ、東京都豊島区池袋の路上で、男性のグループ同士がけんかをしていると110番があった。警視庁池袋署が調べたところ、指定暴力団極東会系の組員1人が搬送先の病院で死亡し、一緒にいた男性(30)も顔面骨折の重傷を負った。
同署は現場にいた指定暴力団住吉会系組員(25)ら男4人から事情を聴いており、容疑が固まり次第、傷害致死容疑で逮捕する。
調べによると、組員らは路上で出会った際に「どこの組のもんじゃ」などと因縁を付け合ったという。
ご冥福をお祈りしません。
暴力団には救急車の派遣はしないでよろしい!あれ、刑事事件に対する「世論」を見ていると、「加害者側にどんな事情があっても人を殺しちゃだめだし、被害者がどんなに道徳的にクズでも、やっぱり殺されるほどではない」みたいなのが主流だったと思うんですけど。
人に迷惑掛けている人に税金を使うな!
指定暴力団に対して公的サービスの停止を通達するべきだ!
2月ごろだったかな、暴力団員が暴力団員を射殺した強盗殺人事件の最高裁判決において、5人中3人が「一般人巻き込んでないし無期でいいんじゃね?」というような判断をしたことについて、「暴力団員だろうと一般人だろうと同じ人間なんだから、被害者の加入組織を以って"命の格差"をつけるべきではない。素直に死刑にすべきだ。」という意見がニュー速に書き込まれていた記憶があります。昨今の死刑要求世論というと、専ら感情的で、「それをいうなら、、、」と言うツッコミがごまんとできるモノがかなりありますが、あれに限っては、(制度の是非は別として)死刑制度を現実として存置している国が取るべき方策の一つとしては珍しく筋の通った論立てであり、私としてましては、今まで当ブログの編集活動を通して分析してきた死刑を要求する世論は、確かに脊髄反射的なのが多かったですが、決してそれだけではないことを改めて認識しました。いや、「感情屋習性研究」記事編集のときだって、頭の片隅では「まあ、こういうのばかりじゃないだろうけどさ」とは思っていましたが、現実として目の前にある「世論」の多くはアレな意見が多かったので、なんか自信がもてないというかそんな感じがしていたんですよ。(←なんか上手く表現できないけど、皆様お分かりいただけますよね?「分かっているけど分からない」って感覚)
しかし今回取り上げた書き込み―被害者の加入組織によって「命の格差」をつける―は、「いつもどおり」のアレなものでした。昨今は「(経済的)格差社会」が社会問題とされており、各方面で様々な論議を呼んでいます。確かに「(経済的)格差社会」も深刻ですが、上記コメントが示す、被害者の加入組織、つまり「被害者の日ごろの行い」を以って、その生命の価値をランク分けしようとする「命の価値の格差社会」とも言えるような風潮は、それ以上に深刻ではないかと思う次第です。
もちろん、下のほうに埋もれてはいましたが、良識的意見もありますよ。
暴力団員だろうと一応人間なんだが、死ねと平気で言えるお前らも人間じゃないよ。
法がこいつらを裁いて死刑するとかなら異論はないがな。
お前らの方が、暴力団員より下等な存在なことに気づいてないんだよな。
残酷で身勝手なことを平気で言える人間として不適格。
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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
2008年07月08日
2008年07月06日
ドキュメンタリー「光と影」
http://tokai-tv.com/news/fnn-tokai/ondemand/20080704/index.html
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連盟賞、東海テレビ番組2本が受賞 07/04(金) 19:24更新残念ながら、東京には東海テレビの電波は入ってこないので、件の番組は鑑賞できなかったのですが、同番組特設ページに掲載されているコメント欄は、良い意味・悪い意味の両方の意味で興味深いコメントが寄せられており、その中には、どちらかというと、番組そのものの「感想」というより、この事件そのものに対する「演説」っぽいものが結構ありますので、「演説」を中心に幾つかピックアップします。(というか、番組見ていない身としては、番組内容に深入りしたコメントについては批評できない)
東海テレビが制作したドキュメンタリー2本が、日本民間放送連盟賞中部・北陸地区審査会の報道部門と教養部門で最も優れた番組に選ばれた。報道部門で1位となったのは、「光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300日〜」。光市母子殺害事件の弁護団の密着取材を通して刑事事件の弁護活動や弁護士の職責などを描いた。また、教養部門で1位となったのは、「黒と白〜自白・名張毒ぶどう酒事件の闇〜」。「黒と白」は事件から47年が経ったいまも無罪を主張し裁判のやり直しを求めている名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚の当時の自白とその矛盾点に焦点を絞り自白に依存する日本の司法について疑問を投げかけた。ドキュメンタリー「光と影」と「黒と白」は、今年8月に東京で開かれる中央審査会に出品される。
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2008年07月05日
高橋氏ブログのコメント欄が閉鎖された件について
7月3日付類似構造においてご紹介した、「地下鉄サリン事件被害者」代表世話人の高橋氏のブログのコメント欄が閉鎖されました。およよ?
私が昨晩11時50分ごろかな?最後に訪問したときには、以下のようなコメントと、それに対する高橋氏の返答がありましたが、そのあと何かあったのでしょうか?
「地下鉄サリン事件被害者の会」の意思決定プロセスがどういう構造になっているのかは分かりませんし、本件についても情報が少なすぎるので、実は合理的な理由があるのかもしれませんが、少なくとも今、我々部外者が分かる範囲内で検討すると、「良く考えずに送りつけたんだろうなあ 無責任な話だ」と思わざるを得ませんし、さらにひっそりとコメント欄が閉鎖されたのを見ると、「勢いでやっちゃった」感を強く感じます。
追記
そういえばここ最近、戴いたコメントに対する返答を全然しておりませんでした。目下、たまりにたまったコメントに対する返答を準備しているところですが、7月3日付類似構造に対する「けら」さんから戴いたコメントに対する返答は、この記事を以ってかえさせていただきます。仰るとおり、「あわてて便乗した」したようにしか見えませんよねwww
私が昨晩11時50分ごろかな?最後に訪問したときには、以下のようなコメントと、それに対する高橋氏の返答がありましたが、そのあと何かあったのでしょうか?
高橋さんは、実際に朝日新聞の回答を見てもいないのに抗議文を出されたのですね?エスパーですかw
私は出していません。しかしまあ、これは酷い返答ですね。確かに「私個人の意見としてではなく、地下鉄サリン事件被害者の会として」と最初から断り書きをしていますが、高橋氏は一応、「地下鉄サリン事件被害者の会」の「代表世話人」のはず。昨今の大問題である大手新聞の一面コラムの表現について、個人名義ではなく 会 の 名 義 で抗議文を送付するという大仕事に際して、 代 表 世 話 人 ともあろう人が関係資料を一切見ず、更に「私は出していません」と言ってのけるのはいかがなものでしょうかね。
「地下鉄サリン事件被害者の会」の意思決定プロセスがどういう構造になっているのかは分かりませんし、本件についても情報が少なすぎるので、実は合理的な理由があるのかもしれませんが、少なくとも今、我々部外者が分かる範囲内で検討すると、「良く考えずに送りつけたんだろうなあ 無責任な話だ」と思わざるを得ませんし、さらにひっそりとコメント欄が閉鎖されたのを見ると、「勢いでやっちゃった」感を強く感じます。
追記
そういえばここ最近、戴いたコメントに対する返答を全然しておりませんでした。目下、たまりにたまったコメントに対する返答を準備しているところですが、7月3日付類似構造に対する「けら」さんから戴いたコメントに対する返答は、この記事を以ってかえさせていただきます。仰るとおり、「あわてて便乗した」したようにしか見えませんよねwww
2008年07月03日
類似構造
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080702/trl0807021542009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080703/trl0807031752005-n1.htm
http://blogs.yahoo.co.jp/whitecat12browncat12/24247733.html
しかしまあ、「犯罪被害者」という肩書きがあると、気分の重さを理由にした抗議もでき、そしてそれが大々的に報じられて、賛同意見もつくんですね。さらに、「犯罪被害者」という肩書きを持つ人の主張に対して疑問や批判を加えると、一部のアレな人たちが「当事者」を盾にその疑問・批判を封殺しようとするんですよね(ちなみに、封殺行為者は大体の場合、「被害者」「遺族」本人ではないところが、なんともまた)。
同和利権と同じ構造ができつつあるように思えてなりません。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
朝日新聞が夕刊1面コラム「素粒子」で、計13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を「死に神」と表記した問題で、朝日新聞社は2日までに、全国犯罪被害者の会(あすの会)が同社に送付した質問書に対し、「気持ちに思いが至らなかった」と回答した。あすの会は先月25日、「被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか」など4点について質問していた。そもそもこの抗議自体がなんだかズレているような気がしてならないのですが、「戦線」は更に拡大の様相を呈しています。
回答は6月30日付。「法相に対する侮辱中傷になると思わないか」との質問には、「中傷する意図は全くなかった。侮辱、中傷と取られたとすれば、残念だ」と答えた。
回答について、あすの会は「満足させるものではない」として、再び抗議と質問をする予定という。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080703/trl0807031752005-n1.htm
朝日新聞夕刊1面コラム「素粒子」で、計13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を「死に神」と表記したことに抗議、質問した「全国犯罪被害者の会」(あすの会)への朝日新聞社の回答を不満として、「地下鉄サリン事件被害者の会」代表世話人の高橋シズヱさん(61)が3日、同社に抗議文を送付した。以下、本人のブログより。
抗議文では、あすの会の「被害者遺族にどんな気持ちを起こさせるか考えなかったのか」との質問に同社が「気持ちに思いが至らなかった」と回答したことに触れ、「犯罪被害者へのさまざまな二次被害防止の取り組みがなされている中、(朝日新聞社は)旧態依然と言わざるを得ない」と批判している。
鳩山法相については「現行法に従って粛々と(死刑執行を)実行した。何ら非難、中傷を受けるようなことではない」と擁護した。
朝日新聞社広報部の話「抗議には誠実に対応させていただきます」
http://blogs.yahoo.co.jp/whitecat12browncat12/24247733.html
私個人の意見としてではなく、地下鉄サリン事件被害者の会として、「御社6月18日付夕刊『素粒子』の“死に神”表現に対する回答についての抗議」という文章を朝日新聞社宛に出しました.なにこれ、朝日新聞社が「あすの会」へ送った回答書を見ずに、イメージで抗議したってことですか?
今日の午後に投函したので、朝日新聞社にはまだ届いていないのですが、東京地裁司法記者クラブに、「こういう抗議文を出しました」というお知らせはしました.
私の個人的な意見としては、この問題に関して、「素粒子」筆者はものすごく軽く考えているような気がします.
「風刺なんだからさぁ、わかるでしょうw、笑って受け流してよ」って.
これまでに抗議と質問の文章を突き付けていた全国犯罪被害者の会(あすの会)に、昨日、朝日新聞社から回答があったことが報道されていました.
私が抗議したわけではないので、その回答書を見ることはできなませんが、私たち遺族の気分の重さに反して、「何だってそんなに気にするの?」と言わんばかりの気軽さがまだそのまま感じられるのです.
それまで抗議表明していたのは、あすの会だけでしたが、地下鉄サリン事件を始めオウム事件の被害者や遺族、その他の犯罪被害者や遺族、一般の人たち、そういった多くの人々が関心をもち、朝日はどうでするつもりなのか? どう対応するんだろう?と注視していました.
ですから、「あすの会への回答書」を、紙面に掲載すれば良かったのに.
それくらいしてほしかったですよ.
今日の地下鉄サリン事件被害者の会からの抗議書は、もっといろいろ書きました。
来週にでも、その文章を載せることにします.
今夜はこれで.
しかしまあ、「犯罪被害者」という肩書きがあると、気分の重さを理由にした抗議もでき、そしてそれが大々的に報じられて、賛同意見もつくんですね。さらに、「犯罪被害者」という肩書きを持つ人の主張に対して疑問や批判を加えると、一部のアレな人たちが「当事者」を盾にその疑問・批判を封殺しようとするんですよね(ちなみに、封殺行為者は大体の場合、「被害者」「遺族」本人ではないところが、なんともまた)。
同和利権と同じ構造ができつつあるように思えてなりません。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
2008年07月02日
「恥の文化」?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080701-00000158-mai-soci&kz=soci
というわけで、一生使える山川出版社の倫理用語集を参照しましたところ、以下のようにありました。
<落書き>伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分にコメント欄より。
7月1日22時12分配信 毎日新聞
【ローマ藤原章生】「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」−−。イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。
イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。
フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。
一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
イタリアの町には落書があふれている。だから、日本人が落書をしてもかまわない、と思ってはならない。欧州人にあまり縁のない日本人の「恥の文化」を、誇りをもって彼らに知らしめたほうがいい。「厳罰は当然である」と。日本文化が「恥の文化」であるところまでは良いですが、「"恥の文化"だから厳罰が当然」という展開は本来的な意味における「恥の文化」とはちょっと違う気がするのは気のせいでしょうか。
というわけで、一生使える山川出版社の倫理用語集を参照しましたところ、以下のようにありました。
恥の文化つづいて掲載されている、ベネディクト氏の著書『菊と刀―日本文化の型』の説明文
他人にどのように見られているかを気づかい、他人に恥をさらすことを嫌う日本文化の特色の一つ。文化人類学者のベネディクト(R.Benedict 1887-1948)が主張した。それによれば、西洋文化がキリスト教に基づく倫理観を確立し、神の教えにそむくことを罪と考える文化であるのに対して、日本文化は集団の和合を重んじ、他人から非難を受ける行為をさけようとする恥の文化である。
『菊と刀―日本文化の型』以上2点を見るに、「恥の文化」なるものは個人の内面における自主的な営み・内的な圧力であるようです。一方で「厳罰」というのは、社会が個人に対して、社会的な善悪基準にもとづいて科す外的な圧力です。とすると、「"恥の文化"だから厳罰が当然」という展開はどうも直結していないように思うんですが、いかがでしょうか。
アメリカの文化人類学者ベネディクトの著作。キリスト教に基づく西洋文化を「罪の文化」、共同体の調和を重んじる日本文化を「恥の文化」と特徴づけた。集団との和合を重んじる日本人は、みずからの行為の内容の善悪よりも、それが他人にどのように見られるかを気づかい、恥をかかないように行動する傾向がある。
2008年06月30日
誰でも「殺人犯」になりうる
http://mainichi.jp/select/world/news/20080626k0000e030019000c.html
・児童レイプ犯に死刑はやりすぎ
・でも殺人犯に対する死刑はおk
・国家反逆罪も直接的に殺人はしていないけど死刑でおk
以上です。
つづいて、本判断に対する私の見解。私としては、米連邦最高裁の本判決について、以下4点より支持します。
第一に、刑罰というのは本質的には国家権力による人権の制限であります。本来、人権の制限というのはいかなる場合でも許されるべきものではありませんが、「犯罪者」に限って言えば、制限されるに見合う罪を犯したからこそ『国家権力による正当な人権制限』と認識されるのです。しかしこれは、逆に言えば、罰しすぎは『国家権力による不当な人権制限』となります。
つまり刑罰というものは、常に「罪と罰の均衡」を図らなければならず、「罪と罰の均衡」が成り立っていない場合、それは「新たな犯罪」(罰が軽すぎる場合も含む)であります。その点、私としては、「レイプ」という犯罪と「死刑」という刑罰の間には、ちょっと溝が広すぎ、これは「新たな犯罪」であるように思えてなりません。
第二に、既に問題を起こしたにもかかわらず、その落とし前をつけていない人が好き勝手されるのは社会秩序を維持する上で大きな問題です。その点、社会の秩序維持という観点から、刑罰、すなわち「その人の人権を制限すること」は必要です。しかし、先にも述べたとおり、刑罰というのは本質的には国家権力による人権の制限であり、本来、人権の制限というのはいかなる場合でも許されるべきものではない以上、刑罰は「必要悪」、必要最低限であるべきだと考えます。
その点、やはり「レイプ」という犯罪に対する「死刑」という刑罰は、必要最低限を逸脱するものだと思えてなりません。
第三に、死刑というのは、ある人物を抹殺することです。つまり、その人に対してそれまで行ってきた、義務教育をはじめとする社会的投資が完全に無駄になることを意味しています。その点、強姦犯は性的な志向には問題あるかもしれませんが、その他の点においては問題があるとは限りません。
あらゆる「犯罪」に対して「現行犯逮捕・即時処刑」を科してきたポル・ポト派の末路を今一度、思い起こさねばなりません。安易な処刑は長期的に見れば社会にとっての不利益です。
第四に、刑務所も暇じゃないんですよ。無意味に重い刑を科すことは、刑務所に必要以上の負担をかけさせることであり、それは刑務所全体の機能低下をもたらします。
それではドウゾ。
死刑制度賛成派といえば「受刑者の生活費が勿体無いから死刑にしろ」が合言葉となっているくらいですから、さぞ、社会的損得計算に明るいもんだと思っていたんですが、案外、目先のことしか考えていないんですね。
また、被害者の気持ち云々と、この手の主張では良く見られる記述がありますが、「かわいそうな被害者」だからといって何でも許されるべきでしょうか?よく、刑事裁判における「被告人の不幸な生い立ち」を理由にした弁護に対して「不幸なら何やってもいいのか!」という非難が、それこそこの手の方々の口から聞かれますが、その点との関係についてはいかがお考えなんでしょうか。
また、「スッキリするような拷問」とありますが、まともな人間に拷問はできませんよ。どうせ誰かにやらせて、自分は離れたところから「あいつは今頃、苦しんでいる頃だウシシ」と黒い欲望を満たしているのが関の山でしょうね。自らの手で被害者をボコボコにする、所謂「快楽殺人犯」のほうが、よっぽど堂々しているのは気のせいですか?
上記記事コメント欄に投稿された以下の書き込みはもっと酷い。
さて、いかがだったでしょうか。当ブログでは今まで、数多くの「感情屋」の言説を収集してきました。それらの多くは、感情的になりすぎたがゆえに社会的必要性を完全に無視した、一時的な報復感情を満たすだけの「その場しのぎ」ともいえるような主張ばかりでしたが、それらの殆どは、自論の根拠として「応報」という考え方を基盤としていたため、ある程度の説得力があり、私としても、反論を書くのにちょっと苦労しました。
しかし、今回収集した言説は、もはや応報の域すら大きく逸脱しており、道徳的にも認められるものではない「新たな犯罪」です。私としましては、もうちょっと感情屋の方々はマトモだと思っていたのですが、どうやら想像以上にアレなようです。
昨今、「犯罪者」の中でも特に「殺人犯」を、あたかも異質な「人間の形をしているが人間ではないモノ」のように扱う風潮が根強くあります。しかし今回ご紹介した、最早「応報」の域を大きく逸脱し、単に気に入らない奴を痛めつけたいがための軽々しい「死刑」を求める言説を聞いていると、決して「殺人犯」というのは、異質な存在というわけでは無いように思えてなりません。
誰でも「殺人犯」の素質はある。誰でも「殺人犯」になりうる。「一般人」と「殺人犯」の差は、単に黒い欲望が表に出てきたか否かなだけ。だからこそ、刑事裁判の場においては、どうして被告席に座っている人物だけがその黒い欲望を表に出してしまったのかについて、あらゆる角度から検証が必要なのです。そして、その検証のためには、被告人の利益を第一に考えるサポーターとしての「刑事弁護人」が不可欠。
刑事裁判に関する理解を深めるためには、そもそも「刑事被告人」が異質な存在ではなく、もしかしたら自分が被告席に座っているかもしれないということについて理解を深めることが第一歩なのかもしれません。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
米国:「児童レイプに死刑」の州法は違憲 連邦最高裁判決例によって「世論」を幾つか。その前に、以下のご紹介する「世論」の中には、この程度の記事内容すら正確に把握できていないアレな人がいらっしゃるので、今一度、記事の核心を押さえておきます。
【ニューヨーク草野和彦】米連邦最高裁は25日、児童レイプ罪に死刑の適用を認めているルイジアナ州法について、違憲とする判決を出した。「人に対する罪では殺人以外に死刑を適用すべきではない」との判断からだ。最高裁は近年、死刑の対象を限定する傾向にあり、今回もこれを踏襲する形になった。
判決は、同州で98年にパトリック・ケネディ被告(43)が義理の娘(当時8歳)をレイプした事件を巡るもの。1審で死刑判決を受けた被告は「残虐で異常な刑罰」を禁じた憲法修正8条に州法が違反するとして控訴。州最高裁が昨年、1審を支持したため、被告は上訴していた。
児童レイプ罪に死刑の適用を認めていないのは全米50州中40州以上に上る。連邦最高裁判決は5対4の多数で「児童レイプ罪に死刑を認めないのが、国民的合意」と判断した。ただ、この日の決定は「国家反逆などの罪への死刑適用には影響しない」とした。
72年に死刑を違憲とした連邦最高裁は76年に一転、合憲と判断。一方で05年までに、知的障害者や未成年を被告とする事件については「いかなる犯罪でも死刑は違憲」とした。レイプ罪の場合は77年、被害者が大人であれば死刑は違憲としたが、児童については判断していなかった。
米国内で殺人罪以外で死刑が執行されたのは、64年の強盗罪の被告が最後。また、現在収監中の死刑囚約3300人のうち、殺人罪以外はケネディ被告と、同様に児童レイプ罪の男の2人のみだった。
毎日新聞 2008年6月26日 10時41分(最終更新 6月26日 12時06分)
・児童レイプ犯に死刑はやりすぎ
・でも殺人犯に対する死刑はおk
・国家反逆罪も直接的に殺人はしていないけど死刑でおk
以上です。
つづいて、本判断に対する私の見解。私としては、米連邦最高裁の本判決について、以下4点より支持します。
第一に、刑罰というのは本質的には国家権力による人権の制限であります。本来、人権の制限というのはいかなる場合でも許されるべきものではありませんが、「犯罪者」に限って言えば、制限されるに見合う罪を犯したからこそ『国家権力による正当な人権制限』と認識されるのです。しかしこれは、逆に言えば、罰しすぎは『国家権力による不当な人権制限』となります。
つまり刑罰というものは、常に「罪と罰の均衡」を図らなければならず、「罪と罰の均衡」が成り立っていない場合、それは「新たな犯罪」(罰が軽すぎる場合も含む)であります。その点、私としては、「レイプ」という犯罪と「死刑」という刑罰の間には、ちょっと溝が広すぎ、これは「新たな犯罪」であるように思えてなりません。
第二に、既に問題を起こしたにもかかわらず、その落とし前をつけていない人が好き勝手されるのは社会秩序を維持する上で大きな問題です。その点、社会の秩序維持という観点から、刑罰、すなわち「その人の人権を制限すること」は必要です。しかし、先にも述べたとおり、刑罰というのは本質的には国家権力による人権の制限であり、本来、人権の制限というのはいかなる場合でも許されるべきものではない以上、刑罰は「必要悪」、必要最低限であるべきだと考えます。
その点、やはり「レイプ」という犯罪に対する「死刑」という刑罰は、必要最低限を逸脱するものだと思えてなりません。
第三に、死刑というのは、ある人物を抹殺することです。つまり、その人に対してそれまで行ってきた、義務教育をはじめとする社会的投資が完全に無駄になることを意味しています。その点、強姦犯は性的な志向には問題あるかもしれませんが、その他の点においては問題があるとは限りません。
あらゆる「犯罪」に対して「現行犯逮捕・即時処刑」を科してきたポル・ポト派の末路を今一度、思い起こさねばなりません。安易な処刑は長期的に見れば社会にとっての不利益です。
第四に、刑務所も暇じゃないんですよ。無意味に重い刑を科すことは、刑務所に必要以上の負担をかけさせることであり、それは刑務所全体の機能低下をもたらします。
それではドウゾ。
性犯罪は再犯率高いので、死刑が妥当だろっ!!性犯罪が再犯率が高いのは事実なようですが、それならば去勢で事足りるのでは?必要以上に重い罰を科すことについての問題点については、先にも述べたとおりです。
被害者の気持ちを考えたら尚更ね。
代案があるとしたら
【自我崩壊するまでアッー】の計とかかな。
死刑制度賛成派といえば「受刑者の生活費が勿体無いから死刑にしろ」が合言葉となっているくらいですから、さぞ、社会的損得計算に明るいもんだと思っていたんですが、案外、目先のことしか考えていないんですね。
また、被害者の気持ち云々と、この手の主張では良く見られる記述がありますが、「かわいそうな被害者」だからといって何でも許されるべきでしょうか?よく、刑事裁判における「被告人の不幸な生い立ち」を理由にした弁護に対して「不幸なら何やってもいいのか!」という非難が、それこそこの手の方々の口から聞かれますが、その点との関係についてはいかがお考えなんでしょうか。
私はずっと以前からレイプ犯には極刑をと言い続けている人間なので、違憲というのはちょっと納得できない気持ち。純粋な疑問ですが、では、強姦行為者を死刑という形で抹殺して、「心の傷」というのは消えるんでしょうかね?
まぁ、なにがなんでも死刑にしろという法律は行き過ぎなのかもしれないが、死刑という選択肢をなくしてしまうことはないと思う。
被害にあった側からすれば、いっそ殺してくれた方がよかったという気持ちすらある人もいると思う。レイプとはそれほどの恐怖であり、消えない心の傷であると思う。まして幼児であった場合・・・。
いくら人を殺めていないからといって、じゃあそれ以上の犯罪はないのか?といえば、そんなことは決してないのである。
(死刑は)抑止力にもなりますよね?法律云々の以前に、レイプ犯を殺すことは最早、応報の域すら越しており、ただの殺人です。「かわいそう」な人の「気を治める」ためには応報すらも無視できるって、これを認めたら、もうやりたい放題だと思うんですがね。
犯罪者の人権?
うるさいってば
もし私の愛すべき妹達がレイプされたら
私は相手に極刑を望みます
てより殺したいかも
死刑廃止するなら遺族がスッキリするような拷問をさせてくれるのかな?
まぁ何をしても気は治まらないと思いますが…
死ぬより怖い目に合わせてやりたいよね
また、「スッキリするような拷問」とありますが、まともな人間に拷問はできませんよ。どうせ誰かにやらせて、自分は離れたところから「あいつは今頃、苦しんでいる頃だウシシ」と黒い欲望を満たしているのが関の山でしょうね。自らの手で被害者をボコボコにする、所謂「快楽殺人犯」のほうが、よっぽど堂々しているのは気のせいですか?
上記記事コメント欄に投稿された以下の書き込みはもっと酷い。
私も死刑賛成です。近頃反対派が喧しいですが、あの連中はこんな事例でも反対するのでしょうね。ちょっとまて、「こんな事例」というが、強姦事件に対する死刑適用が違憲だって話であって、強姦致死とは書かれておらんぞお前。
一度家族を殺されれば考えも改めるでしょうがね。
さて、いかがだったでしょうか。当ブログでは今まで、数多くの「感情屋」の言説を収集してきました。それらの多くは、感情的になりすぎたがゆえに社会的必要性を完全に無視した、一時的な報復感情を満たすだけの「その場しのぎ」ともいえるような主張ばかりでしたが、それらの殆どは、自論の根拠として「応報」という考え方を基盤としていたため、ある程度の説得力があり、私としても、反論を書くのにちょっと苦労しました。
しかし、今回収集した言説は、もはや応報の域すら大きく逸脱しており、道徳的にも認められるものではない「新たな犯罪」です。私としましては、もうちょっと感情屋の方々はマトモだと思っていたのですが、どうやら想像以上にアレなようです。
昨今、「犯罪者」の中でも特に「殺人犯」を、あたかも異質な「人間の形をしているが人間ではないモノ」のように扱う風潮が根強くあります。しかし今回ご紹介した、最早「応報」の域を大きく逸脱し、単に気に入らない奴を痛めつけたいがための軽々しい「死刑」を求める言説を聞いていると、決して「殺人犯」というのは、異質な存在というわけでは無いように思えてなりません。
誰でも「殺人犯」の素質はある。誰でも「殺人犯」になりうる。「一般人」と「殺人犯」の差は、単に黒い欲望が表に出てきたか否かなだけ。だからこそ、刑事裁判の場においては、どうして被告席に座っている人物だけがその黒い欲望を表に出してしまったのかについて、あらゆる角度から検証が必要なのです。そして、その検証のためには、被告人の利益を第一に考えるサポーターとしての「刑事弁護人」が不可欠。
刑事裁判に関する理解を深めるためには、そもそも「刑事被告人」が異質な存在ではなく、もしかしたら自分が被告席に座っているかもしれないということについて理解を深めることが第一歩なのかもしれません。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
2008年06月25日
「法律に従って」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080625-00000099-jij-soci
以下のようなコメント欄書き込みに6500点もついている割には、各刑事裁判における刑事弁護人に対するバッシングが酷いのは何で?
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。正論。ついでに言えば、同様に、刑事弁護人も法律に従って被告人を弁護したにすぎないので、その弁護士を非難することは法治国家を否定することです。
抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。
以下のようなコメント欄書き込みに6500点もついている割には、各刑事裁判における刑事弁護人に対するバッシングが酷いのは何で?
朝日新聞は抗議されて当然!
マスコミの割には空気が読めてませんな・・・。
鳩山邦夫法相は法に従い、執行しただけです。
朝日新聞は、今まで執行しなかった
へたれ歴代法相を責めるべきでしょう。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
2008年06月20日
極論と極論
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=523693&media_id=10
いやはや、さすがゲンダイ。世の流れに中途半端に乗っかっているがゆえに、こんな極論を書いてしまったようですな。
そして、例によって「世論」を採取していると、「派遣を全廃」という部分に噛み付いている人がいます。多くは、「全廃したらしたで、そのあとどうすればいいの」という、至極妥当なものが多いのですが、しかし一方で、昨今流行の「自己責任」論を振りかざして眼をそむけようとしているのもあります。
ええとですね。チュチェ思想は、マルクス・レーニン主義の唯物史観を母体としています。その上でチュチェ思想は、歴史発展の原動力を、自主的に生きようとする意識性をもち、目的意識的発展志向で世界を改造・創造する「人間」に求めています。しかし、人間は現実に物質世界で生活している以上は、物質世界における客観的環境条件に左右されることも同時に指摘してます。
ゆえに私としては、人間には「自主性」という本質がある以上は、全てを「客観的環境条件」にせいにすることは誤っていると考えますが、一方で、その「自主性」は物質世界における客観的環境条件に左右される以上は、全てを「自己責任」に帰することも重大な誤りであると考えます。
その点、全ての原因を「自主性」に還元する「最初から派遣の仕事を選ばなければいい」というこの言説、すなわち、全てを「自己責任」に還元するにこの言説については、果たしてそのように認識することは正しいことであろうか、と疑念を感じざるを得ません。
もうひとつ、類似の記事と、それに対する反論コメントの一セット。
ところで、>>2のような「自己責任」論を振りかざす以上は、選択に際しては、社会的情報提供はしているんですよね?何、そこからして「自己責任」?それは「責任放棄」って言うんですよwwwwwww大体、大学進学するかどうかってときはまだ未成年ですよwwwwwwwwwwwwwww
それ以外に、いくつか眼に留まったものも記録します。
高校の政治経済の授業の記憶によると、憲法に定められた結社の自由は直接的には私人間には適用されなかったはずなんですけどね。いつの間にか変ったんですか?それとも私のひがおぼえ?
しかし、私が「資本主義」ではなく、「チュチェ思想」の方に傾いているのは、昨今の「資本主義」においては、「より良い生活へ突撃する」過程で他人を踏み台にしていないか、もっと言えば、「他人の自主化への願望を踏みにじっていないか」という点において、どうも良くない方向にあるのではないか、と考えるからであります。
その点、チュチェ思想においては、「集団主義」という概念を掲げています。ここで注意しなくてはならないのは、「全体主義」との違いでありますが、これについては以前の記事で書きました。要するに「個人の利己的利益よりも、社会全体の利益を優先させるが、それは個人の基本的人権に不利益が及ばない範囲内においてである」といったところでしょうか。チュチェ思想においては、我々日本に住む者が普段「利己主義」と呼ぶものを「個人主義」と語句定義している関係上、日本的文脈におけるそれと言葉のニュアンスがズレることには注意が必要です。
まあ私自身、まだまだチュチェ思想についての勉強が進んでいませんし、チュチェ思想に共感するところが「ある」といっているだけで、「チュチェ思想マンセー」ではないので、今後はチュチェ思想への「批判」も含めて、チュチェ思想の認識を中心にブログ編集をしてまいる所存であります。
派遣労働者の“反乱”が始まった!世の中には時期ごとの労働需要に大きな差がある企業がある以上は、「派遣を全廃」するというのは極論であると言わざるを得ず、そもそも、派遣労働者関係の問題における主要な問題点は、低賃金と雇用の不安定にあるのですから、同一労働同一賃金保障や、あるいは、派遣先から解雇されることはあっても派遣元からは滅多には解雇されず、次の派遣紹介があるまでの派遣労働者の生活は派遣元が責任を持たせることが必要であり、それが現実的な解決策なのではないかというのは、以前の記事においても書いたとおりです。
●もう小手先改善ではダマされない
東京・秋葉原の無差別殺傷事件をきっかけに派遣労働が注目されている。派遣だから犯罪を起こすワケではないが、確かに彼らの生活は悲惨で、派遣労働者の犯罪も目立つからだ。労組系団体などは国や企業に待遇改善を求める要望書を提出。静かな派遣労働者の“反乱”が始まっている。
トヨタなどの下請け会社の労働問題に取り組む愛知県の「非正規労働者共同センター・名古屋駅前グループ」ら5団体は13日、派遣法の規制、セーフティーネット確立などを求める文書を舛添要一厚労相に提出した。
「今回の事件で特に問題視しているのは、犯人が『住み込み付き』の派遣労働者だったことです。多くの企業は『社員寮は管理、維持コストがかさむ』として、派遣会社に人材と住む場所をセットで求めている。そのため、派遣労働者はクビになると職だけでなく、住居も失ってしまうのです。全国のネットカフェには職を失った派遣労働者が寝泊まりしている。国は企業に、労働者が次の職を見つけるまで住居保証させるべきで、そうした要求を考えています」(愛知連帯ユニオン・元座委員長)
同グループ以外でも、ガテン系連帯(東京)が20日、加藤智大の派遣先「関東自動車工業」に問題点改善を申し入れるという。
こうした現場の声を受け、自民、公明両党の「与党新雇用対策に関するプロジェクトチーム」は10日の初会合で、労働者派遣制度の見直しを議論。町村信孝官房長官も11日の会見で、派遣制度の在り方を見直す必要があるとの認識を示した。「今ごろ、遅いよ」だが、人材派遣大手のグッドウィルグループのデタラメも発覚し、政府も重い腰を上げざるを得なくなったのである。蟹工船のような労働派遣は改善されるのか。
「派遣法は小泉内閣で大幅に規制が緩和され、今日の事態を招いている。同じ穴のムジナである福田内閣に抜本的対策ができるかどうか。一部見直しなどの小手先でなく、抜本対策を急がないと形だけの改善でお茶を濁されてしまう懸念があります」(労働問題に詳しい国立大教授)
この際、派遣を全廃するくらいやらなければダメだ。
いやはや、さすがゲンダイ。世の流れに中途半端に乗っかっているがゆえに、こんな極論を書いてしまったようですな。
そして、例によって「世論」を採取していると、「派遣を全廃」という部分に噛み付いている人がいます。多くは、「全廃したらしたで、そのあとどうすればいいの」という、至極妥当なものが多いのですが、しかし一方で、昨今流行の「自己責任」論を振りかざして眼をそむけようとしているのもあります。
最初から派遣の仕事を選ばなければいい。またも勉強中の身でありながら、僭越ながらチュチェ思想的発想を援用して。。。
なぜ、派遣の仕事を選んだか、その場所にたどり着く過程をもう一度見つめなおせばいいと思う。
派遣の仕事を楽しんでる人だっているわけだし、なぜ、派遣が悪いという結論にいくのかが理解できません。
派遣会社で働いていた人間の犯罪が多い?
笑わせるなって感じです。
ゆとり教育世代の犯罪が多発したときは、ゆとり教育が悪いとかいってなかったっけ?
これで、派遣会社がなくなったら、今派遣会社で働いている人はどうするつもりなんでしょうかね?
もし、この事件が原因で派遣会社がなくなって、働く場所がなくなった人が同じような事件を起こしたら、次はどこに矛先が向くのでしょうかね?
実際酷いところだってあるわけだから、派遣会社を擁護する気はありませんけどね。
この、“反乱”の結果はどうなるのでしょうかね・・・
ええとですね。チュチェ思想は、マルクス・レーニン主義の唯物史観を母体としています。その上でチュチェ思想は、歴史発展の原動力を、自主的に生きようとする意識性をもち、目的意識的発展志向で世界を改造・創造する「人間」に求めています。しかし、人間は現実に物質世界で生活している以上は、物質世界における客観的環境条件に左右されることも同時に指摘してます。
ゆえに私としては、人間には「自主性」という本質がある以上は、全てを「客観的環境条件」にせいにすることは誤っていると考えますが、一方で、その「自主性」は物質世界における客観的環境条件に左右される以上は、全てを「自己責任」に帰することも重大な誤りであると考えます。
その点、全ての原因を「自主性」に還元する「最初から派遣の仕事を選ばなければいい」というこの言説、すなわち、全てを「自己責任」に還元するにこの言説については、果たしてそのように認識することは正しいことであろうか、と疑念を感じざるを得ません。
もうひとつ、類似の記事と、それに対する反論コメントの一セット。
だったらなぜ派遣会社に就職したのか、と思うわけよ。
そういうリスクがあるのを知って就職するんではないのですかね?
知らずに就職するならば、勉強不足と言われても仕方ないだろうし
知ってて文句をいうのはお門違いだと思う。
他に道がなかったと言うならば、今までのことを振り返ってみたらいい。
働けて、お金が入ればどこでもいいっていう安直な気持ちで就職活動をやったならばその報いは受けなければならない。
さらにいうならばフリーターとかは派遣より状況がきびしいですよな。
派遣で福利厚生まで安定するなんてよほどの大手でもないと難しいのではないかね?。
通常の正社員ですら怪しいし。
1
ニュースから来ました。
失礼ながらあまりにも現実を知らないのではないかと。大学新卒でも底辺校だと日雇い派遣しか就職先がないという学生が多数います。正規雇用が控えられる中で他に選択肢がないから非正規雇用を選ばざるを得ないのです。
誰もが非正規雇用の不安定さは知っています。なりたくて派遣社員になる人がいるでしょうか?
2
↑
入学できればどこでもいいっていう安直な気持ちで大学受験をやった報いを受けているんでしょうね。
ニュースから失礼しました。
3
>>1さん
いらっしゃい。
だからね、派遣しか選択肢がない状態にしちゃった原因って何さ?って話ですよ。
底辺校ならば派遣しかないのが当たり前といいますが、だったらなんでそんなとこ入ったの?と言いたい。
大学入試の段階で将来設計とか難しいのでしょうかね?
4
>2さん
いらっしゃい。コメント付けてる間にわたしの言いたいことを言っていただいたようで。
そういうことなんよねぇ。
就職に限らず人生の岐路ではちゃんと考えなきゃならんよってこと。
5
ニュースから来ましたよこんにちは。
つまり、人生にやりなおしなんてありえないと言うわけだ?
派遣やフリーターの人には若い人も多いと思うんだけど、大学の選択や初めての就職先を間違えた段階で二度と這い上がれない人生が確定してしまっていいと、そういう事なわけだ?
もし、そこは一流だと思って就職した会社が潰れたら、人生も潰れてしまっていいと。
6ここまで来ると逆に爽快感すら感じます。一度レールに乗ったらもう後戻りできない。「自主性」もクソもあったもんじゃありませんね。
いらっしゃい。
イエスかノーかで言うならばイエスです。
もちろん、リトライのチャンスはあるに越したことはないけどね。
選択を誤ったことに対するペナルティはあって当然だと思います。
でも、取り返しのつかないミスってのは一発ではなかなか起きないもの。
是正できるときに是正すればある程度はなんとかなるもの。
転ぶのは当たり前にあるけど、転んだときに自分で起き上がれるような備えはしないとならんとは思います。
社会が悪い、制度が悪いというのは簡単だけど、やるべきことはやってからいわないと。
ところで、>>2のような「自己責任」論を振りかざす以上は、選択に際しては、社会的情報提供はしているんですよね?何、そこからして「自己責任」?それは「責任放棄」って言うんですよwwwwwww大体、大学進学するかどうかってときはまだ未成年ですよwwwwwwwwwwwwwww
それ以外に、いくつか眼に留まったものも記録します。
負け組は自己責任そしてモノをいった挙句に左遷・解雇というお決まりのコースをまっしぐらというわけですね!
なぜか。
負け組にだって日本国憲法で保障された様々な権利があるし、選挙権・被選挙権も平等にある。偽装請負でも、実態から判断して労働者なら、労働者として様々な権利を有する。
小林多喜二の時代であれば、文庫本『蟹工船』をポケットに入れて歩いているだけでも逮捕された。
しかし、今は自由にモノが言える。結社の自由もある。
負け組自らがこれら権利を行使せず、エネルギーを社会変革へ向けようとしていない以上、やはり全て己の責任とも言えるのではないか。
高校の政治経済の授業の記憶によると、憲法に定められた結社の自由は直接的には私人間には適用されなかったはずなんですけどね。いつの間にか変ったんですか?それとも私のひがおぼえ?
秋葉原の事件について、こういう観点からの報道が全くされなかった事は、各報道機関が如何に視聴者の興味を引くかを優先しいて、社会問題の解決には無関心である事の証明だと思う。私はチュチェ思想をガチで勉強している身であるため、やはりそっちに共感ある人間であります。その私としましては、ここ数百年の資本主義社会発展の原動力であった、「より良い生活へ突撃する向上心」については否定しません。それはチュチェ思想において、「人間の根本」と定義されている「自主化」への願望と、そう大きくは違わないと考えるからです。そして、「より良い生活へ突撃する」過程において自然発生する「競争」についても、これそのものについては否定しません。だって自然発生するんですから。
加藤容疑者を『25歳、塗装工』ではなく『25歳、派遣社員』と表現する機関ばかりだった事からも、派遣社員という立場を容疑者の言う『負け組』の一つとして認めている事が伺えるし、又、あのような犯罪に至る原因を容疑者自身の欠陥・問題に求めようとする報道ばかりだった。
その様な見方をする事が、容疑者の様な立場の人達を追い詰めてるのに。
マスコミが揃いも揃って、そういう価値観を撒き散らすというのはどうなの?
確かに、社会的地位を競う勝負に負けたからそこに居るのだけど、何人かに一人という確率で誰かが負けるんでしょ?
それだって、社会の一端を担っている事には変わりは無いはず。
いくら資本主義社会と言っても、そういう人達も努力すれば生きて行ける様な社会にしないといけないと思います。
じゃなければ資本主義なんて勝者が弱者から色々な物を奪い取る為のルールにしか過ぎないし、そんな社会で弱者が生きて行く意味なんて、なくなって当然とも言えるんじゃないかな。
しかし、私が「資本主義」ではなく、「チュチェ思想」の方に傾いているのは、昨今の「資本主義」においては、「より良い生活へ突撃する」過程で他人を踏み台にしていないか、もっと言えば、「他人の自主化への願望を踏みにじっていないか」という点において、どうも良くない方向にあるのではないか、と考えるからであります。
その点、チュチェ思想においては、「集団主義」という概念を掲げています。ここで注意しなくてはならないのは、「全体主義」との違いでありますが、これについては以前の記事で書きました。要するに「個人の利己的利益よりも、社会全体の利益を優先させるが、それは個人の基本的人権に不利益が及ばない範囲内においてである」といったところでしょうか。チュチェ思想においては、我々日本に住む者が普段「利己主義」と呼ぶものを「個人主義」と語句定義している関係上、日本的文脈におけるそれと言葉のニュアンスがズレることには注意が必要です。
まあ私自身、まだまだチュチェ思想についての勉強が進んでいませんし、チュチェ思想に共感するところが「ある」といっているだけで、「チュチェ思想マンセー」ではないので、今後はチュチェ思想への「批判」も含めて、チュチェ思想の認識を中心にブログ編集をしてまいる所存であります。



