これらの事件に対する世論、特に被害者側を自称する人たちの主張を注視すると、私としては、どうも福岡3児死亡事故における被害者遺族側を自称する人々による世論との類似性を感じます。
その最大の要因は、とにかく被害者の落ち度に関して、検証することすら封殺しようとする人が、被害者側を自称する人たちの極一部ではありますが、存在することにあります。
当ブログを以前からご覧になっている方ならお分かりいただけるでしょうし、今回この記事が初めてという方については、特に、福岡3児死亡事故裁判において、弁護側が被害者側の居眠り運転について指摘した際の世論の反発の激しさを記録したチュチェ96年10月3日づけの日記をご覧戴きたいのですが、この記事において当方が記録した「世論」は、どれも弁護側がこのような可能性を指摘すること自体を批判し、封殺しようとしています。
以前から申し上げているように、裁判の目的は、ただ被告を処罰するだけではなく、被告に裁判を受ける権利を保障し、法廷において持論を言わせる権利を保障することによって、なぜこういう事件がおきたのかを本人の言い分を含めて分析し、真相を明らかにし、後の社会構築に役立てるものであります。その点、チュチェ96年10月3日づけの日記に収録した弁護側に対する批判言説は、今述べた裁判の目的には馴染まないものであるといわざるを得ません。
私としては、今回の強姦事件について、「米兵にホイホイついていった被害者の落ち度」を以って免罪符とし、幕引きを図らんとする言説については、2月17日の日記において、産経新聞花岡のコラムを「鬼畜コラム」と呼んだり、あるいは週刊新潮の被害者批判記事について「お得意の「被害者の人権」はどうされたんですか」と書いたり、あるいは、被疑者の米兵以外の誰かの落ち度を指摘したいなら、被害者の少女本人ではなく、適切で十分な性教育を怠った教育現場と家庭の落ち度を責めるべき、と本日づけ女子中学生強姦事件から見る性教育の重要性に書きました。このように、「被害者の落ち度」を強姦事件の「構造」を洗い出すために取り上げるのではなく、「事件の幕引き」を図らんとするために取り上げる言説に対しては、極めて批判的な立場をとっています。しかし、こういう「落ち度は無かったか」という可能性を探す言説そのものを封殺しようという動きについては、事件の真相を明らかにし、今後、このような事件がおきないための社会的な枠組みを作るためには、「被害者の落ち度の可能性」について考えることは不可避であるため、反対する立場を明確にしておきたいと思います。
また、被害者の落ち度に関して検証することすら封殺するというのは、「落ち度のあるものは自分の責任外のものも一緒に負うべきだ」という日本人的美学と「悪い奴を少しでも擁護する奴は無条件に悪い奴」という日本人的単純思考と合わさることによって、被害者遺族が、ちょっと変なことを口走った場合、その言説に対する批判をしにくくする土壌を生み、結果として「プロ被害者」「プロ遺族」を生む土壌となります。更に、必要によっては被害者の落ち度も含めて、こまめに情報を整理し、新情報が出て来次第、自論を微調整してくればよかったものを、「被害者擁護・加害者絶対悪」の図式を早くから確立し、被害者の落ち度に関して検証すらしない場合、もし、もはや無視出来ず、且つ、今までの「常識」が覆るくらい重要な事実が明らかになった場合において、それまでの言説を転換することを難しくします。この現象は光市事件において顕著に現れていることは、皆様ご存知だと思います。
この点からも、「落ち度は無かったか」という可能性を探す言説そのものを封殺しようという動きについては、重ねて反対する立場を明確にするものです。