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2008年02月22日

沖縄少女強姦事件に対する世論と福岡3児死亡事故に対する世論の類似性

 沖縄駐留海兵隊による女子中学生強姦事件については、その後も沖縄駐留米兵による犯罪が相次いだ関係もあり、なおも世論は沸騰し、各地で色々な意見が飛び交っておりますが、その中には相変わらず「被害者自業自得論」が繰り返されていることが多々あり、そのたびに自業自得論に対する被害者側の立場を自称する人々による激しい反発が展開され、泥沼の合戦になっています。

 これらの事件に対する世論、特に被害者側を自称する人たちの主張を注視すると、私としては、どうも福岡3児死亡事故における被害者遺族側を自称する人々による世論との類似性を感じます。

 その最大の要因は、とにかく被害者の落ち度に関して、検証することすら封殺しようとする人が、被害者側を自称する人たちの極一部ではありますが、存在することにあります。

 当ブログを以前からご覧になっている方ならお分かりいただけるでしょうし、今回この記事が初めてという方については、特に、福岡3児死亡事故裁判において、弁護側が被害者側の居眠り運転について指摘した際の世論の反発の激しさを記録したチュチェ96年10月3日づけの日記をご覧戴きたいのですが、この記事において当方が記録した「世論」は、どれも弁護側がこのような可能性を指摘すること自体を批判し、封殺しようとしています。
 以前から申し上げているように、裁判の目的は、ただ被告を処罰するだけではなく、被告に裁判を受ける権利を保障し、法廷において持論を言わせる権利を保障することによって、なぜこういう事件がおきたのかを本人の言い分を含めて分析し、真相を明らかにし、後の社会構築に役立てるものであります。その点、チュチェ96年10月3日づけの日記に収録した弁護側に対する批判言説は、今述べた裁判の目的には馴染まないものであるといわざるを得ません。

 私としては、今回の強姦事件について、「米兵にホイホイついていった被害者の落ち度」を以って免罪符とし、幕引きを図らんとする言説については、2月17日の日記において、産経新聞花岡のコラムを「鬼畜コラム」と呼んだり、あるいは週刊新潮の被害者批判記事について「お得意の「被害者の人権」はどうされたんですか」と書いたり、あるいは、被疑者の米兵以外の誰かの落ち度を指摘したいなら、被害者の少女本人ではなく、適切で十分な性教育を怠った教育現場と家庭の落ち度を責めるべき、と本日づけ女子中学生強姦事件から見る性教育の重要性に書きました。このように、「被害者の落ち度」を強姦事件の「構造」を洗い出すために取り上げるのではなく、「事件の幕引き」を図らんとするために取り上げる言説に対しては、極めて批判的な立場をとっています。しかし、こういう「落ち度は無かったか」という可能性を探す言説そのものを封殺しようという動きについては、事件の真相を明らかにし、今後、このような事件がおきないための社会的な枠組みを作るためには、「被害者の落ち度の可能性」について考えることは不可避であるため、反対する立場を明確にしておきたいと思います。

 また、被害者の落ち度に関して検証することすら封殺するというのは、「落ち度のあるものは自分の責任外のものも一緒に負うべきだ」という日本人的美学と「悪い奴を少しでも擁護する奴は無条件に悪い奴」という日本人的単純思考と合わさることによって、被害者遺族が、ちょっと変なことを口走った場合、その言説に対する批判をしにくくする土壌を生み、結果として「プロ被害者」「プロ遺族」を生む土壌となります。更に、必要によっては被害者の落ち度も含めて、こまめに情報を整理し、新情報が出て来次第、自論を微調整してくればよかったものを、「被害者擁護・加害者絶対悪」の図式を早くから確立し、被害者の落ち度に関して検証すらしない場合、もし、もはや無視出来ず、且つ、今までの「常識」が覆るくらい重要な事実が明らかになった場合において、それまでの言説を転換することを難しくします。この現象は光市事件において顕著に現れていることは、皆様ご存知だと思います。

 この点からも、「落ち度は無かったか」という可能性を探す言説そのものを封殺しようという動きについては、重ねて反対する立場を明確にするものです。
posted by s19171107 at 06:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

女子中学生強姦事件から見る性教育の重要性

 沖縄における海兵隊による女子中学生強姦事件は、性教育の重要性についても教訓を残しました。

 今回の事件の被害者はまだ14歳です。つまり、被害者本人としては、大人の性欲ドロドロな世界についての知識はありません。性情報についても、セックスをファッション程度にしか考えてない、くだらねー雑誌が関の山でしょう。
 一方で、男の立場から考えると、女子中学生というのは「そそる」年齢であります。もちろん、男によるし、相手にもよりますが。 
 つまり、女子中学生というのは、肉体的には既に性的対象に成長しているにもかかわらず、心理的にはまだ自身が性的対象になっているという意識が低い。このギャップが性犯罪の原因となりうるわけです。
 本来は、このギャップを埋めて性犯罪を予防するためには、適切で十分な性教育が必要であります。しかし、日本の教育現場や家庭においては、驚くほど性教育がなされていない。今回の事件にしても、適切で十分な性教育がなされていたとしたら、あるいは防げた事件だったのかもしれません。
 そういう意味で、今回の強姦事件からは性教育の重要性についても教訓を残しました。
 また、産経あたりは、米兵ではない誰かの落ち度を必死になって探していますが、強いてあげるとするならば、適切で十分な性教育を怠った教育現場と家庭の落ち度を責めるべきかと思いますが、産経には無理でしょうな。

 はっきり言って、連中が掲げる「純潔教育」なんていうのは、純粋性を保つべき対象が違うだけで、本質的な面においては、共和国の「思想性」を保つための情報統制となんら変わりありません。たしか、共和国当局が長いこと改革開放に慎重な姿勢をとってきたのは、改革開放による外国資本の参入によって「資本主義のキンバエが入り込む」ことを警戒していたからです。しかし、ご存知の通り、共和国においても体制の緩み・疲弊から資本主義世界の情報が流入し、特に社会主義にとって最大の敵である利己的思想が蔓延りつつあり、思想純粋性は失われつつあります。

 性的なものへの関心というのも、利己的思想とともに、どの人間にも多かれ少なかれ必ずある人間の本性です。性悪説の立場をとるものとしては、適切で十分な性教育が必要であると思う次第です。

 余談ですが、以前、白人ロリコン野郎が撮ったロリセックス写真の一式を見たんですが、奴ら病んでますな。7歳程度の女の子に自分のサオを挿入しているのはあたりまえ。乳房の膨らみ始めた女の子の写真が殆ど無かったことから、連中の性の対象は、第二次性徴の始まる、大体10歳前後よりも下(白人って早熟人種だっけ?そうだとすると、もっと低年齢だね)であるようでしたし、極めつけは2歳くらいにしか見えない女の子の陰部に自分のアレを擦りつけて(流石に挿入はできんらしい)、マジで射精していたりしているんですから。

 何処だか忘れましたが、5歳くらいの子どもに性教育をしている国が欧州のほうにあって、統一教会系や産経系の連中に散々、ボロクソに言われていた覚えがありますが、あちらのロリコン共は本当に病的にヤヴァいことを考えると、私としては決して早すぎる性教育でも無い気がします。
posted by s19171107 at 06:33| Comment(6) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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