第5回は質疑応答です。Q&A方式で報告します。
最初に浦安市から来たという「サトウ」氏から質問がありました。
Q1―1
2人の死因について鑑定書ではどうなっているのか、もう少し詳しく知りたい
A1―1.
二人とも窒息死となっている。
Q1―2.
被害者女性については、頚部への攻撃によるものか
A1―2.
そうである。頚部圧迫による窒息死であると特定されている。しかし、被害女児については法医学的見地から行くと、窒息の原因は分かっていない。
自白では頚部を強く絞めたとなっているが、その痕跡は無く、ただ弱い「ちょうちょむすび」の跡しか無い。上野氏の分析によると、赤ん坊の首はむくむので、弱い「ちょうちょむすび」が二次的に頚部を圧迫したのではないかとしている。しかし、それであっても、呼吸不全による窒息死なのか、血流不全による窒息死なのかまでは、やはり分からない。
Q1―3.
スリーパーホールドの痕跡はあるのか
A1―3.
ある。しかし、スリーパーホールドで死亡したわけではないことは、重ねて申し上げる。
「サトウ」氏からの質問はここでおわりました。
続いて、50代くらいの青い服を着た男性が、司会担当の綿井氏から指名されたのちに、名乗りもせずにケンカ腰で質問をはじめました。
Q2―1.
先ほど話題に上った「ちょうちょむすび」について、「ちょうちょむすび」であると分かる痕跡はあるのか。すなわち、普通に絞めたときと「ちょうちょむすび」で絞めたときの違いというのは分かるのか。
A2―1.
「ちょうちょむすび」の状態で死体が発見された。
Q2―2.
別の殺し方をして、そのあと「ちょうちょむすび」をしただけではないのか。
A2―2.
法医学的には、首を10分ほど絞めないと絞殺できないのだが、10分も絞めれば当然、表皮剥奪や皮下出血がおきるのだが、そのような痕跡は無く、ただ「ちょうちょむすび」の痕跡しかなかった。
Q2―3.
たとえば、手で口を覆って殺した可能性は?
A2―3.
そのような痕跡は無い。
つづいて、「チョウ」さんからの質問。
Q3―1.
原告(原文ママ)の男性は死刑を求めているが、弁護団の「ゴール」はどこなのか。本件は少年に対する裁きとして活動しているのか、死刑問題として活動しているのか。
A3―1.
まず、「原告」ではないことを指摘する。
弁護団は、明確に少年事件としており、過去の少年事件の判例から、死刑ではなく無期懲役を求めて活動している。
Q3―2.
綿井氏が光市裁判の取材をしようと思ったのは何故か。
A3―2.
所謂「最高裁ドタキャン問題」以降、
1.何故「ドタキャン」したのか
2.最高裁以降の弁護活動を見て、それまで認定されてきた「事実」が客観的証拠と異なるのではないか
3.2人の人を殺した経緯を差し戻し審を追うことによって知りたい
4.「被害者遺族の男性vs弁護団」の構図の中で、被害者遺族男性側の情報が過多であり、場外乱闘が激しい一方で、裁判そのものの中身がいまいち分からない
以上の4点から、本件に関わることにした。
男性。
Q4―1.
結果的にふたりを殺めたのだから、そんな奴は裁判なんてなくても死刑で良いとする世論が大きいが、それについては?
A4―1.河井
裁判は事実を確定させる。何があったのか確定させるのは人を裁く大前提である。Q4―1のような言説は裁判ではない。民主法治国家において、人一人を処刑台に送るかというときに、Q4―1のような発想は裁判では許されない。
また、永山事件判決は総合的判断の下で、なお死刑が止むを得ない場合のみに死刑を認めるとしている。つまり、死刑を選択するか否かのときは、被告がどういう経緯、どういう対応、どういう心境で犯行に及んだのかについて分析することが不可欠である。法改正するならまだしも、現状においての手順はこうであるのだから、これに従わなくてはならぬ。弁護団は法律実務家なのだから、手順に従わなくてはならない。
綿井
今の質問は本件に対する典型的反応である。たとえば、公判の日の広島高裁前での大騒ぎのとき、通行人は私(=綿井氏)に「これ何ですか」と聞く。「光市事件裁判です」と答えると、通行人は「判決は?」とか「死刑?」とか、結論ばかりを聞いてくる。傍観者は結果・判決にしか興味が無いが、これは裁判なのだから、死刑か否かという量刑の前に、事実関係の検査が先ではないのか。
死刑か否かという量刑にばかり目が行く問題について、綿井氏が以下のように、河井氏に話を振りました。
以前、会見で記者が弁護団に対して、弁護団は遺族の男性に対してどういう気持ちかと問うたことがある。そのとき、弁護団は事実を解明したいだけだと答えた。弁護団に対して遺族について問うというのは、立場上どうなのか。
対して河井氏は、以下のように答えました。
本村さんが死刑を求めるのは自然の感情としては良く分かる。「もしあなたが、こういう犯罪にあったらどうするか(想像してみろ)」という問いは、今まで何度もされてきた。
もし自分なら、本村さんと同じく死刑を求めるかもしれない。しかし、やはり民主法治国家においては、被害者がそういっているからといって、決めてよいわけではない。
また、「もし自分が」というのならば、もっと想像力を働かせて、自分が逆に心ならずも2人の人を殺めたときに、どうするのか。それも想像すべきだ。そのときには、きちんと自分の言っていることを伝えてほしいと思うはずである。
自然の感情としての本村氏の主張は理解できるが、だからとって、弁護しなくても良いということにはならない。
いやはや、感服しました。感情や思想と実務を峻別する。以前、安田弁護士も「法廷で思想闘争したら弁護士失格」と言明されていた東京新聞記事をご紹介しましたが、やはり弁護士というのは、こうでなくちゃいけません。
私は、
第1回の記事において、以下のように書きました。
氏の死刑制度への賛否については、このトークショーにおいては明確に立場表明をしませんでした。今回の言動を聞く限り、私見では廃止論者ではないようなんですが、確実なことはいえません。
この根拠というのが、上記太字部分です。
といいますのも、ガチの死刑廃止論者というのは、「もしあなたが、こういう犯罪にあったらどうするか(想像してみろ)」という問いに対して、かなりの確率で、「死刑は誰も救わない」とか「たとえ凶悪犯でも、殺してよいわけではない」などのような、妙な人道主義に基づくお説教を始めるんですよ。で、明確に答えようとしないんです。
しかし、今回のトークショーにおいて、河井氏はそういう死刑廃止論者的なお説教は一切せず、むしろ被害者遺族の男性の気持ちは理解できるし、自身もそういう境遇に陥れば、被害者遺族の男性と同じ行動をとるかもしれないと自らの口で仰いました。私には、河井氏が死刑廃止論者であるとは思えません。
さて、ここからがリアル感情屋の発狂のお時間です。
この発言について、先の「サトウ」氏が、「自分が加害者ならどうするのか」、名乗らない青服の中年男性が「心ならずもでなかったらどうするのか」と同時に、手も挙げずに発言しました。
まず後者については、自分の言い分をきちんと主張したい、明らかにしたいと思うはずだと答えました。
これに対して、「サトウ」氏が、自身に科されるべき量刑については如何思うかと問い、河井氏は、同じく、自分の主張に基づいて判断してほしいと思うはずであるとしました。
「サトウ」氏しつこい。「それは自分に死刑を求めないということか」と食い下がります。河井氏は、死刑は嫌だという気持ちはあるだろうと答えました。
さーまだまだ行きますよー「サトウ」氏。死刑になるべき犯罪を犯した場合、事件の重大性について「まともな倫理観」があれば「更生したのならば」、食事も喉を通らないだろうし、自分なら壁に頭をぶつけて自殺を図るかくらいのことは当然するはずだ、と自身の美学をご披露なさいました。つまり「サトウ」氏は自身に「まともな倫理観」があると思っているみたいです。
えー、私から突っ込ませていただきますと、被告は
検察官から再三の「生きての償い」の重要性を吹き込まれており、事件以前からの自殺願望や、逮捕直後の自殺計画については凍結したということは、当シリーズでご紹介しました。また、更生とかそういうのは、実際に禁固刑や懲役刑になって、更生プログラムを受けて初めてはじまるものです。このトークショーにおいても指摘されたように、被告は9年間も刑務所ではなく拘置所にいるため、更生プログラムは一切受けておらず、現に例の「不謹慎な手紙」を出した。しかし、差し戻し審弁護団との共闘によって「事実と向き合う」という
更生の前提・スタートラインに今やっとついたばかりです。
人間の更生や矯正というのは生半可なもんじゃありません。一種の思想改造であり、ある意味での「洗脳」なんですから。ゆえに「まともな倫理観」とかそういうの以前に、更生のプロたる刑務所の指導員の援助無しに、自力で更生できるなんてことはまず無いと考えたほうが良いです。
それに、そもそも拘置所内で壁に頭なんてぶつけていたら巡回員にすぐに見つかるでしょう。刑務所・拘置所の自殺なんて脱走と同じくらいの大恥なんですから、そうそうさせませんよ。あんたアホじゃないですか。
これに対して、ある参加者が「今法律の話をしているんだろう」と口を挟んだところ、「サトウ」氏火病。「あんたは司会じゃないんだから黙ってろ!」と怒鳴り始めました。また、仲介者が論点整理を試みると、それに対しても「勝手に整理すんなオラァ」と火病。質疑応答の時間に火病起こすような奴に「まともな倫理観」を語ってほしくねーなーw
このやりとりについて、河井氏は「どちらの方が話されているんですか、、、」とかなり困惑気味。答えようとしても、答えきる前に「サトウ」氏がドンドンまくし立てて、それに対して仲介しようとした人に対して怒鳴るんですから。
会場のしらけた雰囲気にちょっと気がついたのか「サトウ」氏、ちょっと冷静な口調で、以下のように続けました。
曰く、マスメディアの演出については、今回のトークショーで良く分かった。事実関係についても綿密に審査すれば、傷害致死になるということは分かった(←今回のトークショーではそんなこと言っていない)。しかし、この犯人は死刑にすべきだ。傷害致死では10年程度で出てきてしまうが、何の罪の無い女子供を殺しておいて10年そこらの小便刑で出てくるというのは、市民社会的・一般的常識(←でました)から考えておかしいだろうと思うので、もし被告が死刑にならなかった場合、それは裁判所と弁護団が道徳的に間違っていると思う。(←道徳根拠の処罰は俺様正義の典型例で、歴史上、さまざまな恣意的処罰がなされました。だから法律ができたのを知らないんですか。)
弁護団は事実関係どうこう言っているが、安田弁護士は「手段を選ばない死刑廃止論なのは周知」なので、安田氏の言う「事実関係の重要性」は方便にしか聞こえない(←はいはいわろすわろす)
復活の儀式のよな、セクハラオヤジの言い訳みたいなことを公言することは性差別である。それについて綿井氏も問題にしないのは男としての性差別意識に無自覚なんじゃないか(←「女子供」という言葉も文脈次第では性差別ですよ。一方的な弱者認定はある意味の逆差別だって知らない?)。
当裁判は死刑か否かの構図で世間を通っており、「良識ある」(本文ママ)マスコミ人は、死刑にしようということで活動している。確かに誇張はあるが、こいつは死ぬべき人間なのだから、結果的に正しい。自分は被告死刑の側に加担する。こいつが殺されることこそ正しい。
私から一言。「ポル・ポト乙」。
「故意」と「未必の故意」(あるいは「過失」)の区別を敢えてつけず、民主法治国家の論理で動いている弁護団の主張をよく踏まえながらも、やはり死刑にすべきだという、狂信的な考え方、安田氏について「手段を選ばない死刑廃止論なのは周知」と、肝心なところを妄想で穴埋めして自論を正当化する、その独特の思考回路、そして何よりも邪魔者を殺すことには手段を選ばない、その反民主主義・反法治主義の考え方こそ、カンボジア200万人民を3年8ヶ月という短期間で虐殺した、稀代の凶悪殺人鬼集団ポル・ポト一味の思考回路と全く同一です。
当ブログでは、私が「感情屋」と呼ばせていただいている、この手の方々の主張は、稀代の凶悪殺人鬼集団ポル・ポト一味の大虐殺の原動力となった極めて攻撃的な思想と類似していると再三、指摘してきましたが、今回もその現象がよく見えました。この方は、被告を処刑台に送るべきだと主張していますが、私に言わせれば、鏡に向かって「死刑だ死刑だ」と叫んでいるように見えます。
さて、河井氏は時間がなくなってきたので手短に答えるとして、以下の返答をしました。
そもそも、弁護団は政治活動ではなく、実際の法律に基づいて、判例に基づいて活動しているに過ぎない。傷害致死ならば、最高で無期懲役刑なので死刑は回避されることになるのは確かである。仮に傷害致死でなかったとしても、未必の故意ならば、永山判例基準から言うと、死刑にはならないと指摘しました。
対して「サトウ」氏が割り込む。曰く、それはやはりあなたの政治判断であり、あなたは弁護団に入らないという選択肢もあったはずだ、とのこと。
本当にこのひと狂信的ですね。河井氏が弁護団に入ったのは、前提となる事実の異なる状況において人一人を処刑台に送ることは民主法治国家においては許されない・看過できないからだと言ったじゃありませんか。
河井氏、「サトウ」氏がホンマモンの
アレであることにやっと気がついたらしく、「えー、分かりました。そういう風に受け取られるということは理解いたしました。よろしいですかね。」と打ち切りました。「サトウ」氏のほうは、「あたりまえでしょ」という、もう突っ込む気力すらなくなるような発言をしたものの、なんか納得したようです。もしかして、勝った気でいるのかな?悪いけど、「感情屋」を飛び越して、
アレとしか思えないんですがね。
さて、ここで綿井氏が来年から始まる裁判員制度について話題を振りました。このトークショー(2月2日)の直前、1月31日に『光市事件裁判を考える』という本が発売され、このトークショー会場でも何冊か売られていたのですが、その帯には「光市母子殺害事件裁判は裁判員裁判の実施前の大試練である」という風に書いてあります。
さっきの
アレを見る限り、「大試練」どころの騒ぎじゃないのですが、まあ正しい認識だと思われます。
今回の裁判の法廷は、広島高裁ひとつのはずなのに、各地で私的裁判がなされている。しかし、公式の裁判の法廷である限り、双方の主張を公平にジャッジしてほしく思う。だから、被害者遺族の声だけが基準になることは果たしてよいのだろうか、と如何しても思う、とのこと。
ここで時間、、、と思ったら、、暫く静かだった例の、名乗らない青服の中年男性が最後に質問とか言い始めました。
曰く、アベック事件の元被告に対して、償いの仕方を教示してもらうために文通をしているということは、このトークショーのなかでもふれられましたが、それについて、どの段階から始めたのか、すなわち、死刑が見えてからなのか、それ以前からなのか、とのこと。
河井氏返答。最高裁弁論開催決定前(=「死刑公算」についてまだ分からない時期)からとこたえました。
男性、「あぶなくなってからってことですよね」。違いますよー最高裁で弁論が開かれることを以って、この事件の無期判決破棄が見えてきたのだから、それ以前ということは、まだ分からない状況ですよ。
最後に、判決をどう受け止めるべきかという点について。
既に法廷における活動は終了しており、弁護団としては判決を待つだけ。その前段階として、集会などに呼ばれれば参加してゆきたいと考えている。被害者遺族の男性は、殺害行為などについて議論すること自体に相当に不快感を示されていたので、河井氏としても、遺族男性の気持ちは理解するよう努めてきた。この事件が痛ましい事件であるということは、弁護活動をやってきた中で、よく分かっているつもりであるが、だからこそ、事実に真面目に取り組んできたつもりである。遺族の男性におかれては、こういう話をすること自体が不快感を与えているとしたら、それについては申し訳ないのだが、報道が余りに事実を伝えていない、誤った前提の下で議論されているがゆえに、こういう形で事実関係について話をすることについて、お許しいただければと思う。こういう形でしか、弁護団は遺族の方に向き合うことはできないと考えているそうです。
おわり、、、と思ったらまた質問だよ、おっかさんwwwww
1・2審の弁護方針について、今の弁護団の中で議論はあるのか、とのこと。
河井氏は、当時の弁護人から話を聞いたことが無いので良く分からないので、コメントする立場に無いのだが、結論から言うと無期懲役ということで来ており、下手に争って批判を浴びるより、情状一本に絞ったのではないかと思うが、それが良いかどうかはクライアントたる被告人次第なので、やはり河井氏にとっては答えづらく、コメントする立場にないようです。
綿井氏によると、1審当時の弁護人は父親がつけた私選弁護人で、事実関係について争わず早く終わらせるために情状弁護とするとように依頼されており、また、遺族から民事告訴されたないようにしてほしいとの要望だったそうです。
別の男性から。
この裁判の問題は、1.最高裁以前の弁護 2.検察がストーリーを作り上げた 3.被害者感情に便乗するメディア の3つがあると指摘した上で、もし裁判員になったときに、被害者感情に便乗するメディアの暴走を、裁判員が負う羽目になるのではないか、すなわち、メディアの恣意的報道によって形作られた「世論」の批判が、正しい判断を下に過ぎない裁判員に集中するのではないか、という危惧が述べられました。
それに対して綿井氏は、被害者感情と処罰感情が一体化しうることは事実で、被害者にそれを区別しろというのは酷な話であるが、伝える側としては、これを一緒にして果たして良いのか。そして、事件がおきてから裁判が始まるまで相当期間があり、裁判員は裁判が始まるまで、自身が裁判員になることが分からないシステムなので、この間に犯罪報道を目にすることは当然ありうる。果たしてどのようにすごせばよいのか、という重大な問題があると指摘しました。
以上、今度こそ、トークショーは終了しました。
2月2日のトークショーの報告記事完成が3月30日。。。本当に申し訳ありませんでした。改めて謝罪すると共に、深く自己批判します。
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