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2008年04月21日

明日の判決を前に

 さて、光市事件差し戻し控訴審判決が明日に迫りました。

 当方は本件に関しては、昨年7月ごろから本格的に取り上げるようになりましたが、実はそれ以前は本件に関して余り興味はありませんでした。強いて言えば、「屍姦って、変わった性癖の人もいるんだなぁ」程度。良くも悪くも、数多ある殺人事件の一つとしてしか見ていませんでした。

 しかし、7月の集中審理期、yahooニュースからリンクされているブログなどを見ていると、どうも刑事裁判に対する認識からして誤っている人が多い。中学校公民で習った記憶によると、裁判は「検察主張の事実が正しいかどうかから審理を始め、検察主張が正しいと認められる場合にのみ、刑罰を検討する」だったはず。とすれば、2009年から始まる裁判員制度によって、実際に国民が裁判員として刑事裁判の量刑検討にまで関わる現状においては致命的大問題ではないか、という危機感から、とりあえず今のところ、どういう情勢になっているのかを調べるために、本件裁判に対する「世論」収集という形で本件に関わり始めました。

 そしてその後、福岡3児死亡事故にもちょっと首を突っ込み、光市事件に対する「世論」と福岡3児死亡事故に対する「世論」をあわせて「感情屋習性研究」という形で、今日まで司法関係の記事を編集してまいりました。また、「感情屋習性研究」の過程で、感情屋の皆様におかれましては、メディアによる決め付け報道によって感情屋となられているらしいことを見出し、「感情屋習性研究」と並行して、当ブログでは、「メディアにおける裁判報道研究」として、そのほかの刑事裁判報道と光市裁判報道を比較してきたりもしました。

 さらに、刑事裁判の内容について批評するならば、裁判で何を争われているのかを知らねばならないという、まあ当たり前といえば当たり前の見解から、メディアでは殆ど報じられることの無い弁護団主張を知るために、弁護団が出した本や弁護資料の収集、2月2日に東京阿佐ヶ谷で行われたジャーナリストの綿井氏と差し戻し控訴審弁護人の河井氏のトークショー、また3月15日に東京四谷で行われた弁護団も参加するシンポジウムなどにも参加し、それらの内容のご紹介をしてまいりました。それらは明日、一応のひと区切りを迎えることになります。

 私は、最近はちょっと省略させていただいておりますが、昨年9月くらいまでは、本件裁判関係記事のどこかには、以下のようなことを添え書きしておりました。
この被告の「元少年」に死刑判決がでても、司法の判断ならば構いません。(私は日本の司法については行政裁判以外の場面では基本的に信頼する立場であります。死刑制度についてはまだ意見の形成が出来ていないので賛成でもないし反対でもないです。)
(上記は07年7月28日づけの記事から転載)
 この認識は、今も変わっていません。ゆえに、明日の判決がどのようなものであっても、検察側・弁護側双方の主張をきちんと踏まえた上での判決であるならば、それを支持する立場をとるつもりです。

 明日の判決は、これだけ注目された事件ですので、皆様色々な思いでいらっしゃることと存じますが、私はこういう思いで今晩すごす方針であります。

 また、明日の判決が「検察側・弁護側双方の主張をきちんと踏まえた上での判決」なのかを私なりに考えるために、明日の判決については、判決文と、いままで収集してきた本件裁判資料を突き合せて分析する方針です。明日の判決について、当方の見解はいかなるものなのかということを気になさっている奇特な方がいらっしゃいましたら、私としては、判決分析をしてから本件裁判判決についての記事を書こうと考えていますので、多分22日中には講評できないと思われますので、最長で今週末くらいまでお待ちいただけるとありがたいです。急かされても困るので急かさないでくださいねww
posted by s19171107 at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

新潮の恣意的記事について(今更)

 明日に迫った光市事件差し戻し控訴審判決を分析するための弁護団側の資料として、新たに光市事件弁護団は何を立証したのかを取り寄せました。この本は、私も参加した、3月15日に東京四谷で開かれたシンポジウムの内容を文字起こししたものです。今読んでいる最中なのですが、今のところ、「あれこんなこと言っていたっけ?」みたいなことは無く、内容に一部注釈が加わった編集となっています。

 さて、件のシンポジウムといえば、週刊新潮4月3日号が恣意的記事を書いていることは、皆様ご存知かと思いますが、当日参加していた私としては、シンポジウムの主題である「検察主張と客観的証拠の矛盾」について一切触れずに、当日の会場の雰囲気だとか、あるいは弁護人の発言の前後の文脈関係を全く無視した、発言の恣意的切抜きばかりやっているなあ、と思うと共に、ある記事のコメント欄においても書きましたが、これこそ、逆説的に新潮が追い詰められている証左なのかもしれないと思う次第です。

 件のシンポは5時間近くの長丁場でした。一応、全て録音してあるのですが、あれを全部文字起こしするのは、給料でももらえない限りなかなか出来ない仕事です。ゆえに、新潮の恣意的記事発売からかなり時間がたったものの、検証記事が書けずにいました。

 しかし、今回、弁護団の方から文字にしてくださいましたため、面倒な手間なしで検証記事を書くことができるようになりました。今回はこのうち、特に2点について指摘します。

 なお、現在ご覧になっているこのブログ記事は、元ネタこそ光市事件ですが、私としては、『週刊新潮』という雑誌のデタラメ性を指摘するためのものとしています。ゆえに、カテゴリは、テレ朝の電波報道をネタにするとき中心に使っている「メディア報道を見て思ったこととか」に設定しております。

 まず、本文の問題箇所に赤傍線を引き、問題点を箇条書きにしたもの
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(クリックで拡大)
 では第一に、「死刑廃止論者が集まっただけ」という部分について。

 当方は、今年2月2日に東京阿佐ヶ谷で開かれた、ジャーナリストの綿井氏と差し戻し控訴審弁護人の河井氏のトークショーに参加しました。そして、その内容を2月から3月にかけて全5回に分割してご報告しましたが、そのうち第5回報告記事においてもご紹介したように、弁護団の一員である河井弁護士は、本村氏が死刑を求める気持ちは分かるし、自分がそのような立場に置かれれば、本村氏と同じく死刑を求めるかもしれない、という発言をなさいました。

 件の報告記事においても書きましたが、ガチの死刑廃止論者というのは、「もしあなたが、こういう犯罪にあったらどうするか(想像してみろ)」という問いに対して、かなりの確率で、「死刑は誰も救わない」とか「たとえ凶悪犯でも、殺してよいわけではない」などのような、お説教を始め、明確に答えようとしないんです。私も以前、光市事件とは無関係の死刑制度に関するシンポジウムに行って、死刑に反対する立場を取る参加者の話を聞いたことがあるのですが、「本当に幸せな思考回路した方々だ」と思わざるを得ないような「ありがたい説教」を賜り、それ以来、私の脳内における死刑廃止論に対する評価というのは、かなり落ちています。(もっとも、私は今現在は、死刑制度に対する明確な意見を確立するにいたって居ませんが 死刑制度についてじっくり考える時間が無いのです)

 しかし、河井氏は2月2日のトークショーでは、本当に死刑廃止論者なら当然するはずの、死刑廃止論の「崇高さ」を説くお説教はせず、それどころか、本村氏の気持ちは理解できるし、自分もその境遇になれば本村氏と同じ行動を取るだろうと、本当に確固たる死刑廃止論者であるならば絶対に言わないであろう発言をされました。

 そして、その河井氏もこのシンポジウムに参加されました。ということは、「死刑廃止論者が集まっただけ」という部分は誤りになります。


 2点目。「ただ2人の方がなくなっているというだけで、死刑を適応してよいというわけではない」の部分。これは前後の文脈を見れば、主語が全然違うということがお分かりいただけると思います。というわけで、件のシンポの文字起こしである光市事件弁護団は何を立証したのかの69ページより、前後の文脈を引用します。
従前の最高裁の死刑の適用基準では、犯行の罪質、態様、あるいは故意はどの程度の故意だったか、計画性はあったか、こういった点を総合的に考えた上で死刑の適用を許される場合もある、こう言っているわけですね。ですから、ただ2人の方が亡くなっているというだけで、死刑を適用していいのではない。
 はい、この部分の主語は「最高裁の死刑の適用基準」であり、河井氏独自の法哲学ではないことは、小学生だって分かります。

 ちなみに、2月2日のトークショーにおいても、河井氏は、「民主法治国家においては、被害者が求めているからといって、ハイと決めてよいわけではない。永山事件判決においての判示では、死刑を選択するか否かのときは、被告がどういう経緯、どういう対応、どういう心境で犯行に及んだのかについて分析しなくてはならないとしているので、法改正するならまだしも、現状においての手順はこうであるのだから、法律実務家たる弁護士は、この手順に従わなくてはならない」という、シンポジウムにおいて発言したのと同趣旨の発言をなさっていました。
 
 別に難しい言い回しをしているわけではなく、ごく普通の現代語を使っているに過ぎない河井氏の発言の主語を取り違えるって、『週刊新潮』編集部って本当に雑誌編集部ですか?それとも、あのシンポジウムが定員先着120名であったのにいい気になって、どうせ適当なこと書いてもバレやしないだろうということで、わざと主語を摩り替えたんでしょうか。

 どちらにせよ、『週刊新潮』はアサヒ並みに捏造がお好きだということですね。
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