先週の話ですが、共和国に対する「テロ支援国家」指定が解除されました。
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20081012-OYT1T00046.htm>>> 米、北朝鮮のテロ支援国指定解除を発表
【ワシントン=宮崎健雄、小川聡】米国務省は11日午前(日本時間12日未明)、北朝鮮と核検証手続きで合意したとして、北朝鮮に対するテロ支援国指定を解除したと発表した。
北朝鮮は米国に対し、核施設の復旧作業を停止し、無能力化作業を再開すると伝えた。6か国協議が月内にも再開され、検証手続きの詳細を文書化する。ただ、北朝鮮は全面的な検証には応じないとみられ、核プロセスの行方は依然不透明だ。
国務省によると、北朝鮮は6月に申告したすべての核施設に対し、専門家の立ち入り調査を受け入れることで合意。ただし、未申告施設への立ち入りには双方の同意を得ることが条件となり、申告済みの寧辺(ヨンビョン)の核施設以外の施設立ち入りは北朝鮮の許可が必要となる。
一方、米朝両国は、核拡散活動や高濃縮ウラン計画も検証の対象とし、核物質のサンプル採取について合意した。
テロ支援国指定は経済制裁の根拠の一つに過ぎず、実際には指定解除でも大半の制裁は残る。しかし、北朝鮮は米国による「敵視政策」の象徴として指定解除を長年要求していた。
米政府は6月26日に北朝鮮による核申告の提出を受け、指定解除を米議会に通告したが、検証手続きで北朝鮮と対立し、解除を延期していた。
ブッシュ大統領は発表に先立ち、麻生首相に電話をかけ、解除方針を伝えるとともに、「拉致問題について強い気持ちを抱いている」と述べ、拉致問題解決に向け協力を継続する意向を表明した。
(2008年10月12日01時42分 読売新聞) <<<
本件について、拉致事件の「家族会」が猛反発しています。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081012/crm0810120132005-n1.htm>>> 【テロ指定解除】拉致被害者家族会「米の裏切り」
2008.10.12 01:28
米国が北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除に踏み切ることになった11日、拉致被害者家族には落胆が広がった。「今後どうするのか」。家族は、流れを止められなかった日本政府に、独自の取り組みを問いかけた。
拉致被害者家族会の飯塚繁雄代表(70)は集会参加で訪れた奈良市で「われわれの手の届かない所ですべてが決まっていくというむなしさを感じないではいられない」と語った。
「問題進展のための大きなカードを失った分、日本政府にはそれに匹敵する政策を行ってもらうしかない」と飯塚さん。日本政府には「日本の重要問題として『解除は絶対ダメだ』と米国に徹底してくれたのだろうか」と、疑問も持っている。
「同盟国すら説得できず、どうして北を説得し、被害者を取り戻せるというのか。外交力のなさを残念に思う」。この日、札幌市の集会に出席した家族会の増元照明事務局長(53)はそう話した。「同盟国の国民の命を助ける協力をしない裏切り行為」と米国も批判した。
「テロとの戦い」を進めていた米国に、家族会メンバーが足を運んだのは2003(平成15)年。米議会や政府高官に「拉致は現在進行形のテロ」と訴え、指定理由に拉致を盛り込ませた。
「信じがたいのは、国家として拉致を許したこと。(問題解決へ)働きかけを強める」。ブッシュ大統領は06年4月、面会した横田めぐみさんの母、早紀江さん(72)にこう語りかけた。早紀江さんはその言葉を信じ続けてきた。それだけに、思いは複雑だ。
北は先月、被害者に関する「調査委員会」の設置を見送った。テロ指定という“重し”が取れ、飯塚さんは「『調べたけれど被害者はいなかった』と、解決を引き延ばすのではないか」と懸念する。
横田滋さん(75)は「米国は国益に従って行動している。核問題重視の立場からはやむを得ない決断かもしれない」とあきらめ顔。それでも、「(日本政府は)制裁強化を含め、北に解決を促す独自の取り組みをどうしていくのか」。滋さんは、そう問いかけている。 <<<
http://www.47news.jp/CN/200810/CN2008101501000339.html>>> 拉致家族、経済制裁維持など要請 テロ指定解除で
米国の北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を受けて、拉致被害者家族が15日、河村建夫官房長官と首相官邸で面会、拉致問題が進展しない場合の経済制裁の強化などを要請した。
要請を行ったのは、拉致被害者の家族会、支援団体「救う会」、拉致救出議員連盟(会長・平沼赳夫元経済産業相)。
昨年6月に成立した改正北朝鮮人権法は、拉致問題の進展がない段階での政府による対北朝鮮融資で慎重な対応をするよう規定している。
家族らは同法に基づき「安易に経済制裁を解除しないでほしい」などと訴えるとともに、福田康夫前首相の辞任で延期されている拉致被害者の再調査着手を北朝鮮に働き掛けるよう求めた。
面会に先立ち、家族会の飯塚繁雄代表(70)は「(指定解除で)また解決が遠のくのかなと思う」と現在の心境を語った上で「米国は『忘れない』というが、ではどう支援してくれるのか。日本もただ待っているだけではいけない」と引き続き政府に要請を続けていく方針を明らかにした。
2008/10/15 13:15 【共同通信】 <<<
要するところ、共和国に対する毅然とした
圧力のカードを一つ失ったことは拉致事件の解決を遠ざけるものであるということです。
しかしながら、拉致事件の「根本的解決」、すなわち、「全被害者の安否確認」をするためには、むしろ共和国に対する諸制裁を解除し、外国資本を参入させ、共和国に一定の豊かさをもたらし、外国思想の「侵入」を促し、共和国公民一人一人の意識を変化させ、共和国公民自身の手で現体制を打ち破り、その上で現れる「新朝鮮」と共に事件解決のための捜査をする以外に無いと考えます。
しかし、家族会の中の人たちは「早く安否が知りたい」という焦りと「金正日憎し」の憎悪から、圧力一辺倒でこの数年間過ごしてきました。その結果が今日の停滞であります。また、彼らは良く「北との宥和的交渉は無駄」といってきました。確かにそうかもしれません。しかし「圧力」一辺倒もまた上手く行かないことは既にこの6年間で明白となっています。にもかかわらず、なおも従来路線を続けようとしています。
また、残念なことに共和国は全くといって良いほど民意が政治に反映されない国であり、これはすなわち、拉致事件や核開発といった諸問題は全て国家上層部の勝手な行動であると言うことが出来ます。にもかかわらず、拉致事件をめぐって沸騰した「世論」は、何ら責任のない二千数百万の共和国公民に対する人道援助までも批判的罵声を浴びせかけています。それに対して家族会は、(光市事件などを見ても分かるように「世論」は被害者のコメントを、カルト教団の聖典の如く奉る傾向があるにもかかわらず)この手の見当違いな方向に沸騰した世論を諌めることも無く、むしろその風にしがみついてすらいます。
私としましては、今挙げたような「家族会」の言行については、(ケチョンケチョンに批判しているようにしか見えないかもしれませんが、実は)
批判する意図はありません。当ブログでは以前より度々、刑事事件・刑事裁判について取り上げて参り、そのなかで私は被害者サイドの言説に対しても遠慮なく批判を加えてきたことは、以前より当ブログをご覧になっている方におかれましては良くご存知だと思いますが、私としましては、被害者サイドの人物による加害者に対する「恨み言」の数々や、あるいは死刑を求める言説を
口にすること自体を「悪いこと」として批判したことは、極々初期を除いてありません。これは、昨年秋ごろから今日まで、本当に膨大な量の「世論」を分析するのと並行して、人間心理に対する研究も深めて参った結果、人間というものは、自分がひとたび「敵」だと思った対象には徹底した攻撃性を示す性質があるらしく、また、殺人事件・死亡事故の犠牲者遺族の相当数は加害者を憎しみの対象としか見ていない、人間とは見ることはできない可能性が高い。となれば、人心の根底にある徹底した攻撃性が加害者に対して発露することは想像に難くないという認識に至り、それゆえ、刑事事件・刑事裁判の被害者サイドが加害者に対して口にする数々の攻撃的言説も、人間心理としては極自然な行動であろうと考えるようになったためであります。
その点、「家族会」の面々が共和国の金正日体制に対して相当の感情を抱いていることは明白であり、
彼らが共和国の二千数百万の公民を脳内削除して圧力一辺倒になることは人間心理から考えるに何ら不思議ではありません。人間心理からくる「敵対心」、老齢から来る「焦り」などが合わさって、彼らの視野は極めて狭くなっていますが、それは、彼らが人間である以上は仕方の無いことなのです。
しかし先にも書いたように、彼らの主張を基本的に踏襲してきた結果は「停滞」であり、問題解決には何ら寄与しないことは、既にこの6年間で明白となっています。ここで事態を進展させるために重要な役割を果たすべきなのは、直接の被害者(家族会)でもなければ直接の加害者(共和国)でもない「第三者」たる「日本社会」であります。にもかかわらず、日本社会は「被害者の痛みに共感する」のスローガンの下に、「家族会」と「共感」ではなく「一体化」し、広い視野を自ら放棄しています(刑事事件・刑事裁判においても同様の現象は良く見られます)。
確かに「共感」は結構なことだし、大切なことです。「共感」の重要性は私は否定しません。しかし、
本当の「共感」というのは、当人の立場や心情を踏まえつつ、社会の要請や現実の情勢に対する
冷静な視点を決して失わず、当人の願望を
社会の枠組みの中で、関係ない人物に影響を及ぼさない範囲内で現実的に実現するものであって、
当人の言うことをカルト教団の聖典のように崇め奉り、当人の要求を何があっても絶対に実現せんとする「一体化」とは決定的に異なります。 拉致事件然り、刑事事件・刑事裁判然りですが、昨今の日本社会に蔓延る無節操な「一体化」は、事物の本質を見失い、問題の解決をむしろ遠ざけるだけです。
「被害者が言うから正しい」という「被害者無謬信仰」、「自分が被害者なら被害者と同じことを考えるだろう」「被害者の痛みに共感する」という名目の下で進行する「一体化」、、、これらは本当に良く見られますが、果たしてそれは本当に「被害者のため」になっているのでしょうか。無節操な「一体化」によって皆揃って千里馬の気迫で明後日の方向に驀進していないでしょうか。関係ない人物にまで影響が及んでいないでしょうか。拉致事件をめぐる世論の沸騰と対共和国圧力一辺倒政策、その結果としての今日の停滞は、第三者による「被害者無謬信仰」と「"共感"の名を借りた"一体化"」が必ずしも妥当ではないことを示す好例だと思います。
冷静な第三者的視点をもつことは、被害者サイドの人物を含めた全ての人の利益となるのです。
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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
posted by s19171107 at 20:47|
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