当ブログは移転しました。詳細はこちらに掲載してありますので、ご参照ください。

2008年12月31日

チュチェ97年大晦日総括記事

 チュチェ97(2008)年が終わろうとしています。年末になると決まって、新聞やテレビなどは色々な形で、その年の総括をしていますので、当ブログでもそれを模倣して、以下の総括記事を投稿し、本年の記事編集活動を終了したいと思います。

 まずは昨年と同じく、この1年間の出来事を当ブログにて扱った範囲内でふりかえる、各記事へのリンクを羅列したもの。

ブログ記事で振り返るチュチェ97(2008)年

 上記羅列記事に羅列されたリンクをご覧になればお分かりいただけるかと思いますが、今年1年、当ブログは、「感情屋」の習性研究と「自己責任論者」の言説研究をメインテーマとして記事編集をしてまいりました。これらの2大テーマについての個別総括記事は以下。

光市事件裁判で忘れられたもの
「自己責任論」の危険性

 来年、チュチェ98(2009)年の編集方針について。来年も今年の編集方針を引き継ぎ、「感情屋」の習性研究と、所謂「自己責任論者」の言説研究を2大柱として、未だに感覚的な段階に留まっている、これら2者の共通性について、より確りとした見解を打ち立てたいと考えています。また、所謂「自己責任論者」の言説研究と関連して、彼らの言説の「代替案」っぽいものもついでに考えられたらいいなとは思っていますが、どうなるかは分かりませんw

 チュチェ97年も、『ネタ切れ人民共和国統合不定期更新日記』をご覧戴きましてありがとうございました。来年も宜しくお願いいたします。
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「自己責任論」の危険性

 本年も当ブログにおいては、本当に沢山のテーマについての記事を書いてきましたが、この1年間に取り扱ったテーマのなかで最も注目すべきだと考えるテーマは何かと問われれば、私は9月1日づけ「共産党関係の世論を集めてみようと思う」においてご紹介した、日本共産党(以下、「共産党」と略す)の党員が1万人も増えたことを挙げます。

 件の記事にて取り上げた情報源記事においては、単に党員が1万人余り増えたとしか書いていないのですが、12月14日づけ『赤旗』によると、このうち、20代〜30代の「若者」は2割〜3割程度を占めているそうです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-12-14/2008121405_01_0.html
>>> 党員増――若い人が「入党させてほしい」と事務所に

 志位 そうですね。

 大江 そんななかで日本共産党は党員数が増えているんです。現在の党員数はおよそ四十万人なんですけども、去年の九月から今年の十二月までに(新規党員で)約一万三千人も増えています。その内訳を見ますと、二十代から三十代が二割、四十代から五十代が六割、そして六十代以上が二割ということで、若年層が増えてきているのが特徴だそうです。

 志位 以前はだいたい(二十代、三十代は)一、二割だったんです。ところがいま二割から三割くらいになってきてますから、若い方の入党が最近増えているのはうれしいことです。

 大江 その背景にはどういうことがあるんですか?

 志位 いろいろありますが、私たちはこの間、とくに「働く貧困層」の問題の解決にずっと取り組んできたなかで、若い方が、(インターネットの)ホームページなどで共産党の主張をずっとみていただいて、それで共鳴して、先方から私たちの事務所に来て「入党させてほしい」ということが全国各地であるんです。いままでは、(そういうことは)あまりなかったですね。

 田勢 「たしかな野党」っていう言い方をされてますよね?

 志位 ちょっと前までは言っていましたが、今度はそのフレーズだけでは…。私たちは、与党になるという志(こころざし)をもっていますから。ですから、「政治の中身を変えよう」ということをいっています。

 田勢 二十一世紀のなるべく早い時期に民主(連合)政府をつくることに向けてですか。

 志位 それに向けて第一歩の前進になるような結果を、今度の(総)選挙で出したいと私たちは考えています。
<<<
 本件については、前掲9月1日づけ記事において、その「世論」を収集し、ご紹介しましたが、多くは本件について否定的な見解、つまり新規入党者を「短絡的である」と断ずるものでした。しかし、そのような「短絡的」な決断に至らせたのは一体誰なのでしょうか?

 8月24日づけ「どん底から這い上がる「自己責任」?」においても指摘しましたが、昨今の「自己責任論」は、各個人の現状を「自己責任」と断ずるのみならず、そのような現状から「這い上がる」段階にまでも「自己責任論」を掲げて、支援を拒もうとしています。その点、本件は確かに「短絡的」といえば「短絡的」かもしれません。しかし私としましては、このように、「どん底」から「這い上がる」段階においても尚、社会的な支援を受けられず、「自分でなんとかしろ」と突き放されている人たちの精一杯の「答え」であるといえないことも無いと思います。

 これは重大かつ深刻な現象です。なぜならば、今回は偶然、「日本共産党」という、議会主義を前提とした合法政党に対して支持が集まったからまだ良かったものの、もし、今後一層社会状況が悪化し、且つ、あいかわらず「自己責任論」によって社会から見放されたとしたら、その支持は議会主義政党である共産党に留まらず、頭数さえ揃えばすぐにでも決起をしようと考えているアレな人たちに傾きかねず、その場合の脅威は「秋葉原事件」の比ではありません。秋葉原事件は確かに重大且つ深刻な事件でしたが、単独犯行だったので、「危険地域」は犯人から半径数メートルでしたが、この場合の「危険地域」は、半径数メートルといった程度では済みません。もちろん、皆が皆、武装闘争路線に走るとは考えられず、走るとしても極々一部でしょう。しかし、極々一部、喩え数十人程度であったとしても、組織化された武装闘争の危険性は、やはり、秋葉原事件のような単独犯の通り魔的犯行の比ではないし、そこまでいかないにしても少なくとも「スラム街」といえるようなものは形成されてしまうのではないでしょうか。

 つまり、本件は単に「短絡的だ」とか言って片付けられるような話ではなく、せめて、「下流」とか「負け組み」とか言われている方々が「這い上がる」段階においては社会的な支援を施さないと、長期的には社会全体にとって大きな脅威となりかねないということを示しており、昨今の「自己責任論」の危険性と失当性を示す好例なのではないかと考える次第です。

 本年は当ブログにおきましては、所謂「自己責任論者」の言説を取り上げ、その言わんとしていることを研究すると同時に、様々な角度から批判して参ったつもりです。来年も本年と同様、このテーマについての記事編集活動を継続する所存です。
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光市事件裁判で忘れられたもの

 光市事件差し戻し控訴審判決から8ヶ月がたち、チュチェ97(2008)年も終わろうとしています。差し戻し控訴審判決は「逆転死刑」であり、遺族である本村氏を熱狂的に支持する方々は、死刑判決に狂喜乱舞しました。その熱狂振りは恐ろしくも感じるほどでした。

 当ブログにおきましては、「光市事件差し戻し控訴審判決を分析する」所存であることを判決前から表明していながらも、長く、分析記事を書いてきませんでした。これは、光市事件裁判はかなり長期に渡る裁判であったために資料数も膨大であり、また、精神医学や法医学・心理学といった分野までもが深く関係していたためで、素人にとっては極めて難解だったためであります。

 そんなわけで途中で面倒くさくなって暫く放置していたのですが、先日、そろそろまた資料分析しようかということで、とりあえず弁護資料を開いたところ、偶然「被告の生い立ち」の部分が目に飛び込んだので、読み返しました。

 何度読んでも酷い生い立ちです。本当に酷い少年時代です。

 弁護団が先の差し戻し控訴審において、被告人の生育環境も弁護活動の一つとして取り上げていたのは、皆様もご存知の通りだと思います。それに対して、遺族の側に立ち被告人に死刑を求める方々、特に、所謂「感情屋」の方々におかれましては、「被告人の生育環境の悪さは減刑理由にはあたらない」としていました。しかしながら、被告人の生育環境が劣悪であることを自体を否定するものは、前者に比べるとかなり少なく、私もときどき見る程度でした。つまり、被告人の生育環境が劣悪であることは、「感情屋」をしても認めざるを得なかったようです。(もっとも、差し戻し控訴審判決は、判決文69ページにおいて、「経済的に何ら問題ない家庭に育ち、高等教育もうけることができたのであるから、生育環境が特に劣悪だったとはいえない」としていますが、ちょっとこれはどうかと思いますねえ。)

 しかし、光市事件裁判において判明した、あのような劣悪な環境がこの日本に存在し、現にその環境において少年が育ってきたという事実に対して問題意識を持ち、被告人一家以外に類似した環境の家庭は無いかと調査する動きは、判決から8ヶ月たった今になっても殆ど見られません。刑事裁判というのは、まず、被告席に座る人物が本当に事件の実行者なのかの検証し、そうである場合は被告人に対する刑罰を検討することでありますが、並行して、社会は、法廷を通して明らかになったことをもとに、なぜそのような事件が起きたのかについての原因を多角的に分析し、問題が発見された場合は明日の社会の建設のための資料としなくてはなりません。その点、光市事件裁判に対する「世論」は、被告人に対する処遇ばかりが気にされ、事件の原因に対する多角的な分析をし、社会建設の資料とするという、刑事裁判に際して社会がなすべきことを完全に忘れ去ってしまったように思えてなりません。

 当ブログでは本年も昨年に引き続き、所謂「感情屋」の言説を取り上げ、その習性を研究してまいりましたが、彼らは、刑事事件・裁判の被疑者・被告人に対して厳罰を求めるとき、決まって「被害者のために厳罰を」あるいは「社会全体の利益のために厳罰を」という2つの名目を立てていました。彼らの言う「被害者のために」の正体については、12月13日づけ「「被害者のために」の「正体」」において指摘したとおりですが、今改めて光市事件裁判とその「世論」を思い返すと、結局「感情屋」って、「被害者のため」でもなければ「社会全体の利益のため」でもない、本当に自分のために厳罰を求める連中なんだなあ、と結論づけざるを得ません。

 結局、光市事件裁判って何だったんでしょうか。死刑判決のハードルを下げ、被害者遺族が情報発信を強めたということ以外、後に残るものが何も無かったように思えます。

 弁護団は上告しました。最高裁がどういう判断を下すのかは不明です。八海事件のときみたいに何度も高裁と最高裁の間を往復するのか、それともこれで決まりなのかは分かりませんし、私としては、被告人に対する具体的な刑罰に付いては、正直大した問題ではないと思います。むしろ、光市事件裁判を通して明らかになった、あのような劣悪な環境が現実にこの国に存在し、そして社会が被告人一家に対して何もしなかったという動かしがたい事実に対する分析こそが、被告人を死刑にするか否か以上に重要なのではないかと思います。

 来年は、従来どおりの各刑事事件・刑事裁判に対する「世論分析」と並行して、この点に関する分析も、可能な限り取り上げたいと考えています。

関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
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ブログ記事で振り返るチュチェ97(2008)年

 昨年と同様、この1年間の出来事を、当ブログにて扱った範囲内でふりかえりたいと思います。

1月
1月12日づけ光市事件:『「光市事件」 報道を検証する会』などがBPOに申し立て
完全に視点が固定していました。

1月13日づけ刑法:安易な厳罰化について
今年一年間の刑事事件関係記事の編集の方向性を決定付けた原点となった記事です。

1月20日づけ実利優先主義的理論のすすめ
今年1年を通じて、「感情屋」と所謂「自己責任論者」という、どちらも俺様基準で物事を判断したがる人たちの性向を分析してきた結果、彼らには通説の法哲学や人権思想、所謂「ヒューマニズム」などに基づく反論は殆ど通用しないことが判明しました。やはり、彼らと対峙するためには「実利優先主義的理論」で武装する必要があると改めて感じている次第です。

1月30日づけ「外国人参政権に反対する保守層」が橋下当選を喜ぶのが良く分からん
単純だなあw

2月
2月3日と3月29日綿井健陽の『逆視逆考』トーク 第1回「光市母子殺害事件〜裁判で何が争われてきたのか」


2月4日づけ143冊
ボーイズラブどころの騒ぎじゃない

2月15日づけよかったね!ひこにゃん!!!
ひこにゃんってかわいいね

2月16日づけ「光市事件」と「八戸事件」のメディアにおける扱いの違い
「家族殺し」に対する「世論」研究の原点となった記事です。

2月22日づけ沖縄少女強姦事件に対する世論と福岡3児死亡事故に対する世論の類似性

3月
3月15日づけ古今日中覇権主義
今年は「改革開放」30周年だったわけですが、チベット問題を通じて、中国の「本質」が、「改革開放」以前と何ら変わっていないことが明らかになったように思います。

3月19日づけ改憲派論理研究:「非武装中立派」は護憲陣営の多数派ではないことをやっと分かってくれたらしい
半年近くにわたって連載してきた「改憲派論理研究」に、一応カタがついた記事でした。

4月
4月2日づけ「取り上げない」ことより「取り上げ方」の方が問題
近いうちに補足記事を書こうと思っています。

4月15日づけ裁判員制度に向けた「模擬評議」について

4月21日づけ新潮の恣意的記事について(今更)
これは本当に酷かったなあ

4月25日づけ現代日本の文化大革命的熱狂
22日の光市事件差し戻し控訴審判決に伴う熱狂

5月
5月3日づけ「憲法」という存在そのものの危機
ほんとどうにかなんねえのかなー

5月8日づけ政治問題における日本人の単純思考
この記事において指摘した「人物評の過一面性」は、考えてみると結構根深い問題で、私としては、「感情屋」や「自己責任論者」はもちろんのこと、所謂「レイシスト」のうちの相当数も、このような思考回路を持っているように感じています。来年も「人物評の過一面性」がもたらす諸々の短絡的思考について研究したいと思います。

5月13日づけHARAKIRIテロリズム

5月21日づけ仕返し正当化は通用しない
よく、「xxだから仕方ない」という論理を以って、ある人物に対する不当な扱いを正当化する言説がありますが、「相手に落ち度があるからといって、それに付け込むことは許されない」という、この考えに従えば、その言説の失当性は見えてくると思われます。

6月
6月11日づけ刑務所の中はどうなっているのか?
所謂昨今の「厳罰化」にともなう長期懲役はむしろ逆効果なのではないでしょうか。

6月19日づけ自己責任と社会進歩

6月30日づけ誰でも「殺人犯」になりうる

7月
7月3日づけ類似構造
なんか「遺族タブー」が出来てしまっているような。。。

8月
8月2日づけ朝日は尚も「被害者」「被害者遺族」のことを考えてはいない

8月6日づけ「Ocean」設立1周年集会報告(1)
そういえば第2回報告記事書いてないなあ

8月17日づけ「再チャレンジ」に対する障壁となる「前科者に対する不安」は如何に打破すべきか

8月24日づけどん底から這い上がる「自己責任」?

8月30日づけ八戸母子3人殺害事件が何故か盛り上がらない

9月
9月1日づけ共産党関係の世論を集めてみようと思う

9月12日づけ自覚すらない「殺人者予備軍」たち

9月20日づけ「農水省に対する監督責任」はどうなるのか

10月
10月18日づけ「共感」の名を借りた「一体化」がもたらすもの

11月
11月8日づけ「悪質な犯罪には重罰を」の単純勧善懲悪主義は「被害者のため」になるのか

11月18日づけ法治国家における「正しいこと」

11月24日づけああいえばこういう

12月
12月4日づけ感情屋インターナショナル

12月13日づけ「被害者のために」の「正体」

12月15日づけ「感情屋」と「自己責任論者」の共通性について

12月23日づけ飲酒運転死亡事故を、その「本質」と「加害者の視点」から考える

12月27日づけ絶望的に視野が狭い

 「ブログ記事で振り返るチュチェ97(2008)年」は以上です。今年もあと23時間程度しか残っていませんが、時間的に可能ならば、当ブログで本年取り上げた話題から特にコメントをつけておきたい話題について、個別に記事を書こうと思っています。まだ「終わり」ませんw
posted by s19171107 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

【追記あり】人には情報公開を要求し、自分は「めんどくさいから」

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081227-OYT1T00103.htm
>>> 「めんどくさいから」橋下知事、公開請求受けたメール削除
 大阪府の橋下徹知事は26日、情報公開の対象となっている「知事メール」について、府民から情報公開請求を受けた後に、パソコンから今年9月以前分をすべて削除したことを明らかにした。

 橋下知事は府庁で報道陣に「めんどくさいから、メールを消しちゃいました。残せということになったら、『ごめんなさい』するしかない」と釈明した。現在、保存している知事メールは近く請求者に公開する方針で、今後、メールの保存基準について検討を始める。

 橋下知事は府政運営を巡る指示や連絡を電子メールで府幹部らに一斉送信しており、庁内では「知事メール」と呼ばれている。

 橋下知事は「保存義務がないことを確認してから、メールを消してしまった」と述べた。削除した理由について「(請求を受けて)メールチェックさせられ、頭に来ていた。何時間もかかってしまうんで、『めんどくせえや』って消しちゃった。たぶん、いろいろ批判があるかと思う」と話した。

(2008年12月27日03時06分 読売新聞)
<<<
 絶句。

【追記】
http://www.j-cast.com/2008/12/26033030.html
>>> 橋下知事メール「府幹部が削除」 サーバー保存もしていなかった

大阪府の橋下知事から送られたメールを、幹部職員らが次々に削除したと報じられていることが論議になっている。その理由は不明だが、保存義務はなく、サーバーにも残していないという。しかし、府はメールを公文書と判断しており、今後その保存のあり方が問われそうだ。

「電話と一緒で、用が済めば消される」
橋下徹知事は、就任以来、幹部職員への指示や報告に電子メールを多用している。メール活用は、知事としては珍しいという。そして、その一挙手一投足が注目されているだけに、府民から知事メールに対しても情報公開請求が数件寄せられた。

この請求を受け、府情報公開室が、一斉送信していることなどから知事メールを「公文書」と判断。2008年12月19日に、事務方だけの庁内会議で報告した。ところが、読売新聞の12月26日付記事によると、会議後に幹部職員が次々に自らの公用パソコンから知事メールの削除を始めたというのだ。出席者の一人は、「なるべく早めに削除しなければならないと受け止めた」と説明しているという。

記事では削除理由には触れられておらず、知事の意向なのか、職員の判断なのかは分からない。府総務課でも、「削除のことは分かりません」と答える。

とはいえ、「公文書」をそんな簡単に削除してもいいのか。

府情報公開室によると、行政文書管理規則で、メールの保存は定めていない。削除も「問題ない」という。「電話と一緒で、用が済めば消されることは通常ありうることです。一時的な文書の扱いで、むしろ保管の必要がないものは処分しなければならないことになっています。メールが残っていれば、公文書公開の対象になりますし、残っていなければ文書が存在しないということです」

新聞各紙によると、橋下知事も12月26日、原則としてメールは公開と説明しながら、削除はありうるとの考えを示した。その理由について、「メールは、メモ書きと一緒」などと説明している。

長崎県は、庁内全メールをサーバーに1か月間バックアップ
メール保存に指針がないだけに、その管理も職員任せだ。

府IT推進課によると、送信日時などが分かる送信ログは残っているものの、サーバーにはメールを保存していないという。その理由について、「まず、運営経費がかかることがあります。また、メールだけの仕事はなく、メールでの決済もありません。あくまでも補助ツールの位置づけということです」と説明する。

知事メールの場合、府幹部がメールを削除しても知事のパソコンの送信履歴に残る可能性はある。しかし、府総務課では、「知事が管理していることですので、そこまで分かりません」と言うのみだ。

しかし、自治体の中には、メール保存のシステムを導入しているところはある。長崎県は、庁内の全メールをサーバーに1か月間バックアップしている。情報政策課では、「職員のパソコンが壊れた場合、メール送受信分のデータが失われてしまうからです。職員もメンテナンスに参加することで、コストを安く抑えています」と話す。ただ、費用や効果を考えて、企業がしているようなメール内容の監視まではしていないという。

ITジャーナリストの佐々木俊尚さんは、メール保存問題について、こう指摘する。

「自治体では、長崎のような先進県と後進県とに分かれているようですね。メールを使うのと使わないのでは、仕事の進み具合が違ってきます。紙だと、ピラミッド型の組織に向きますが、メールは、メーリングリスト使用などによって、情報の流れが水平化されるメリットがあります。また、一般企業は、メールをチェックすることで、情報漏洩を抑えています。そのため、どの企業もサーバーに保存しているわけです。行政機関は、ちゃんと保存しないで、公文書公開や情報漏洩のときにどう対応するのか、疑問ですね。メールは、情報のやり取りでインフラになるものですから、その対策が抜け落ちているのはおかしい」
<<<
 橋下「主席」が、いつものように「紅衛兵」を動員しないのはどうしたことか。
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絶望的に視野が狭い

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081226-00000130-jij-pol
>>> 雇用情勢の悪化が急加速=製造業派遣、リストラの矛先に
12月26日18時41分配信 時事通信

 世界的な経済危機が深まる中、国内の雇用情勢悪化が加速している。厚生労働省のまとめによると、雇用契約が更新されなかったり途中で打ち切られたりする「派遣切り」が製造業を中心に広がり、今年度内に職を失う非正規労働者は8万5000人(12月19日調査時点)に上った。製造業の非正規労働者は100万人と言われ、その8%もの人が半年のうちに職を失う計算だ。
 自動車や電機など、これまで日本経済をけん引してきた製造業は、消費の冷え込みで大幅な生産調整に入った。リストラの矛先を向けられたのは、辞めさせるのが容易な派遣労働者や期間従業員だ。派遣切りなどによる失業は前回調査(11月25日)時点に約3万人だったが、わずか3週間で2.8倍も膨らんだ。今後、年度末に向けての人員削減が決まれば、数字はさらに積み上がる。
 また、厚労省調査で、11月の新規求人数は、製造業で42.9%減と33年半ぶりの減少幅を記録した。新規求人数は雇用の先行きを示す指標であり、製造業の雇用環境は今後さらに悪化する可能性が高い。
 急速に悪化する雇用情勢に、舛添要一厚労相は「米証券大手リーマン・ブラザーズが破綻(はたん)した時はここまで緊急を要することになるとは思わなかった。ボヤが一気にあおられ、猛火に包まれている」と表現。全力で雇用対策に取り組む姿勢を強調した。
 ただ、雇用不安が一気に進んだのは「派遣を製造業に解禁したのが原因で、これを是正しない限り抜本的な解決にならない」(労働組合)との指摘は根強い。
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 コメント欄。
>>> 冷たい言い方かもしれませんが

能力がないか「切られる」のでは?

派遣なんてしょせん、派遣。当人達が、住む場所がないとか、飯食えないとか

仕方ないんじゃない。 貯蓄もせず、その日暮らしで生きるからそうなるんだよ。

仕事も選ばなきゃ絶対、あるし。 結局、自分の時間、理想の環境、給料

など理屈をつけては選んでるんだろうね。 今の時代にそんなことしていたら

死にますよ。 もっとやる気出せ。 何でもしろ。 仕事選ぶな。

以上
<<<
 これらの言説のナンセンスっぷりに対しては随所にて批判、、というか半ば嘲笑われており、当ブログにおいても何度か批判したとおりですが、それにしてもこの記事を読んでなお、上記のようなコメントができるその視野の狭さは、正常な感覚であればなかなかできないのではないでしょうか。私としましては、このような言説は嫌味かなんかだと思っていましたが、どうやら彼らは本気で言っているみたいですね。。。

 ここ数年来、日本社会は弱肉強食的要素が以前より強まりました。弱肉強食社会というのは、ある意味、将来が予測しやすい分かりやすい社会です。弱者から淘汰される。上記報道記事においても、「辞めさせるのが容易な」非正規雇用労働者から餌食になっていると明記されており、さらに、雇用の先行指標である新規求人数が大幅に悪化していることがハッキリと記述されており、景気は全面的に悪化し、雇用情勢はもっと悪化してゆくであろうことは小学生でも推測できます。

 となれば、当然、雇用整理は正社員にも波及するでしょうし、現に経団連副会長も認めているところです。
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081226AT3S2501Q25122008.html
>>> 雇用調整、正社員に波及も 経団連・大橋洋治副会長

 来春の労使交渉の経営側指針をまとめた日本経団連の大橋洋治副会長(全日空会長)は25日、日本経済新聞などのインタビューに応じた。2009年の雇用情勢について「正社員も打撃を受け、早期退職勧奨が出る可能性もある」と述べ、雇用調整が正社員に波及しかねないと示唆した。主なやりとりは以下の通り。

 ――連合は賃上げ方針を掲げたが、賃下げを決める企業も出始める中で交渉の見通しは。

 「経済情勢は9月から日に日に悪化し、企業はどこも大変だ。連合は08年度の消費者物価上昇から賃上げをしろと言うが、物価は外生要因で上がっており、生産性に寄与しない面が大きい。賃上げはなかなか厳しい」(07:02)
<<<
 まさに「明日はわが身」。本来人間は、自分も関係する利害関係に対してはかなり敏感なものであります。現に、以前は全く関心をもたれなかった裁判員制度について、内定通知が送付された途端に反対運動を始める人が出てきました。にもかかわらず、いまだに「派遣労働者自己責任」論をぶち上げて、知らぬ存ぜぬを貫こうとする方がいる。「明日はわが身」であることにいまだに気がついていないのです。それとも、自分の能力を買いかぶっているのでしょうか。それはかなりイタイなぁ。

 以前より、やたらに経営者側に立ち労働者側を叩く言説を口にする人の思考の「根底」を探ろうと、本当に多くの人たちが色々な仮説を打ち立ててきました。「日本人の奴隷根性のなす業」とまで言う人がいました。しかしながら私としては、これは単に、絶望的に視野が狭く、また、相手の言説が本当に妥当な言説であるのかを多角的な視点から検証しようとする身構えが決定的に欠如しているがために、相手の言うことを鵜呑みにしているだけなのではないかと思えてきました。

 絶望的な視野の狭さといえば、これは「感情屋」の十八番でもあります。以前の記事において、所謂「自己責任論者」と「感情屋」の共通点をいくつかの角度から考察しましたが、今回の記事を以って、「絶望的な視野の狭さ」という共通点も追加したいと思います。

 ところで、多角的な視点からみると、「非正規雇用はそういうものだから仕方ない」とか「努力していないから仕方ない」という昨今流行の言説(というか、もはや開き直り)の失当性も見えてくるものです。今後、その点に関する記事も書きたいと思っていますので、当ブログ訪問者の皆様に置かれましては、コメント欄において添削をお願いします☆
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2008年12月25日

「アリとキリギリス」主義の破綻

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20081223-OYT8T00068.htm
>>> 「失業、帰国費用欲しかった」ブラジル人2人逮捕
強盗傷害容疑
 大泉署は22日、いずれもブラジル国籍の栃木県小山市駅東通り、派遣社員デ・ソウザ・イボネ・ジュンコ・キヨタ(40)と、大泉町寄木戸、無職ヴァレリア・カンポス・シルバ・キヨタ(33)の両容疑者を強盗傷害の疑いで現行犯逮捕した。

 発表によると、2人は共謀して同日午前8時30分ごろ、大泉町寄木戸、女性会社役員(58)が銀行に出かけようと自宅の玄関から出てきたところを待ち伏せ、殴るけるの暴行を加えて女性が持っていた手提げバックを奪い、女性の顔などに軽いけがをさせた疑い。

 2人は走って逃げようとしたが、女性の悲鳴を聞いて自宅から飛び出してきた家族らに取り押さえられた。バッグには現金約760万円が入っていた。

 同署幹部によると、2人は義理の姉妹で、シルバ容疑者は1週間前に勤め先を解雇され、ジュンコ容疑者も25日に派遣会社を解雇される予定だった。シルバ容疑者は調べに対し、「2人の子どもとブラジルに帰るために金が欲しかった」と話しているという。

(2008年12月23日 読売新聞)
<<<
 当ブログでは以前より、非正規雇用労働者の救援を求める声や、あるいは、もろもろの事情で生活保護などの社会保障制度のお世話になっている人を攻撃する方々の言説を取り上げて来、批判してまいりましたが、これらの言説のなかには「アリとキリギリス」の話を現実世界にそのまま適応しようとする困った人たちがいました。曰く、「努力しないからこういうことになった。自己責任。こんなやつらに税金で食わせる必要は無い。」と。まさに『アリとキリギリス』の世界観を現実世界に直輸入する方々によるものでした。

 しかし実際は、「キリギリス」は、物語中のように大人しく死んではくれず、このように犯罪に走ることになります。「この期に及んでケシカラン」というお説教をなさる方もいらっしゃるかもしれませんし、「どんな理由があっても犯罪を正当化はできない」というご批判もあると思います。しかし、崖っぷちに立たされた者にとっては、そのような批判に構っている余裕などはありません。

 社会保障制度の目的というものは、単なる「お情け」ではなく、個々人の生活を国家がある程度まで保障することによって、崖っぷちに立った人物が自己の生活のために他者の財産を奪わなくても良いようにするためでもあります。確かに、社会保障制度というものは、「因果応報」「単純勧善懲悪」の価値観とは相容れない部分もあるでしょう。しかし、社会は現実主義的に建設しなくてはなりません。「必要悪」という視点が無ければ社会は成り立ちません。
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2008年12月24日

キム・ジョンスク女史生誕記念日

本日12月24日は、キム・ジョンスク(金正淑)女史の生誕記念日ニダ。
あくまでキム・ジョンスク女史の生誕記念日ニダ。
しつこいようですが、キム・ジョンスク女史の生誕記念日ニダ。
それ以外の「定義づけ」は一切許さないニダ(`・ω・´)

ドンジ諸君、キム・ジョンスク女史の生誕記念日を盛大に祝いましょう!
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2008年12月23日

飲酒運転死亡事故を、その「本質」と「加害者の視点」から考える

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081220-OYT1T00418.htm
>>> 飲酒ひき逃げ厳罰化を、遺族らが署名活動…大阪・梅田

 飲酒運転による事故の犠牲者遺族などで作る全国連絡協議会のメンバーら約20人が20日午前、会社員男性(30)が車に約3キロひきずられて死亡した事件のあった大阪・梅田で、飲酒ひき逃げに対する厳罰を求める署名活動を始めた。

 酒を飲んで事故を起こしても逃走中にアルコールが抜けて危険運転致死傷罪が適用されないケースがあることから、遺族らは「〈逃げ得〉がひき逃げを誘発する」として、2003年から厳罰化を求める署名活動を開始。これまでに約44万人分を集めた。

 兵庫県尼崎市で昨年6月、飲酒事故を起こして逃げていた車に衝突され、タクシー運転手だった夫を亡くした同市内の岩田瞳さん(49)は「(死亡ひき逃げ事件には)すぐに救護していれば助かったかもしれないケースが多い。法改正のために協力してください」と呼びかけた。署名活動は21日も行う。

(2008年12月20日18時17分 読売新聞)
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http://www.47news.jp/CN/200812/CN2008122001000247.html
>>> 「飲酒ひき逃げ許さない」 厳罰求め、遺族呼び掛け

 悪質な飲酒ひき逃げ事件が相次いだことを受け、被害者の遺族らが20日、大阪・梅田で厳罰化のための法改正を求める署名を呼び掛けた。

 1999年に酒酔い運転のトラックに追突され、3歳と1歳の娘を失った千葉市の井上郁美さん(40)は「大阪で起きた痛ましい引きずり事件は、救護されれば助かったかもしれない命だった」と道行く人に訴えた。

 現行法では、飲酒運転で死傷事故を起こした場合、刑罰が重い危険運転致死傷罪が適用されるケースもあるが、時間が経過すると飲酒の証明は困難で、ひき逃げの増加につながっているとの指摘もある。

 署名活動をしたのは「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」で、これまでに全国各地で約40万人分を集めた。

 今後、集まった署名を法相に届ける予定。

2008/12/20 11:38 【共同通信】
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 当ブログでは以前から繰り返し、飲酒運転事故、特に死亡事故に対する過度の罰則は逆効果となりうることを繰り返し指摘してまいりましたが、相変わらず、遺族の方々は、厳罰化こそが飲酒運転・飲酒運転事故撲滅に繋がると信じきっているようです。

 もちろん、刑事処罰による犯罪抑止というのは、ある程度までは期待できますし、現に、飲酒運転・飲酒運転事故罰則強化によって飲酒運転そのものの件数が減り、(当然それと連動して)飲酒運転事故が減りつつあることも事実です。しかし、Googleニュースで「飲酒運転」で検索すれば、本当に毎日、何件も摘発されているように、それでもなお飲酒運転はなくならず、飲酒運転事故もなくなりません。

 なぜ飲酒運転・飲酒運転事故はなくならないのでしょうか。今回はこのことについて、「飲酒運転死亡事故」の「本質」と「加害者の視点」から考えてみたいと思います。


 私は、飲酒運転死亡事故の「本質」というのは、よくある物損事故の一種であると考えています。ただ決定的に違うのは、衝突した対象が街路樹や信号機など、頑丈で地面に確りと固定されているものではなく、生身の人間であることです。

 「何を今更当然のことを」とお思いになられるかもしれません。しかし、ここが大切です。なぜならば、普通の物損事故ならば、もちろん街路樹は折れ、信号機は支柱が曲がるでしょうが、それ以上に自動車の損傷が激しく、自動車の衝突時のスピードによっては運転者自身が負傷したり、あるいは死亡したりする危険性が大いにあるからです(現に飲酒運転自損死亡事故というのはときどきあります。余り報じられないけど)。つまり、飲酒運転というのは、何よりも飲酒運転者本人に対する危険性が一番高いのです。


 ところで話は変わりますが、所謂「振り込め詐欺」の被害は全くなくなる気配がありません。あれだけ社会的に注意を喚起しているにもかかわらずにです。最近はついに、銀行員がATMの近くで監視していたり、あるいは、ATMの近くでは携帯電話の電波が遮断されるという実力行使をする事態にまで至っています。

 なぜ「振り込め詐欺」はあれだけ社会的注意喚起があるにもかかわらずなくならないのでしょうか。私としましては、それは、「振り込め詐欺なんて自分には関係ない」「あんなのに引っかかるわけが無い」という根拠の無い自信が皆の心のどこかにあるがゆえに「当事者意識」が欠落しており、そのため、いざ突然、緊急性を装った詐欺の電話がかかってきたときに、気が動転して振り込んでしまうのではないかと考えています。

 飲酒運転も同様だと思います。先にも書いたように、飲酒運転によって危険に晒されるのは、何よりも運転者本人です。にもかかわらず飲酒運転が一向になくならないのは、「自分は大丈夫」「事故をおこすほど酒に弱くは無い」「飲酒運転事故なんて自分には無関係」という根拠の無い自信が皆の心のどこかにあるがゆえに「当事者意識」が欠落し、その結果、酒気を帯びているのにハンドルを握ってしまうのではないかと思います。

 刑事処罰による犯罪抑止力というのは、当事者としての意識があるからこそ成り立つものです。その点、「当事者意識」が欠落した飲酒運転者にとっては、刑事処罰による犯罪抑止は余り期待できないと考えざるを得ません。


 ところで、また「振り込め詐欺」の話に戻りますが、多くの「振り込め詐欺」被害者は、指示通りに振り込んで一息つくと、今までの出来事がどこかで聞いた覚えのある「振り込め詐欺の手口」と全く一致していることに気がつき、「自分は振り込め詐欺には無関係」という自信が全く根拠のなかったことに気がつき、「これが噂に聞く振り込め詐欺か、、、」と思い知り、後悔するようです。大事(おおごと)が起きて初めて、自分も決して例外ではないことを思い知るのです。

 私としては、大事(おおごと)が起きて初めて、自分も決して例外ではないことを思い知るという点においては、飲酒運転事故も同様であると思います。これが街路樹などに衝突する自損事故ならば、損害賠償請求額もそんなに大した額ではないし、刑事罰もそう重くは無いでしょう。しかし、相手が人間ともなれば、当然、損害賠償請求額は街路樹の比ではありませんし、刑事罰も相当重い。さらには実名報道されてもう本名では暮らせなくなることすらありうる。要するに「人生終わり」なわけです。おそらく、「飲酒運転の危険性」に対する「当事者意識」が欠如している運転者は、人を跳ねて初めて「飲酒運転事故なんて自分には無関係」という自信が全く根拠が無かったことに気がつき、青ざめることでしょう。「飲酒運転死亡事故を起こした容疑者の素顔」といった報道、あるいは、遺族の激しい怒りの会見、更には「懲役数十年」「罰金数億円」といった判例が脳裏を掠めるかもしれません。しかし、次の瞬間、運転者は以下のことを思いつくでしょう。「要するにつかまらなきゃ良い」「自分がやったと分からなければ良い」。「酔いがさめるまで」とか「時効まで」とかそんなレベルではなく一生逃げとおすつもりで逃げるのです。


 上記記事において、遺族の一人が「(死亡ひき逃げ事件には)すぐに救護していれば助かったかもしれないケースが多い。」と仰っています。そのとおりです。その点、現場には少なくとも「被害者」と「加害者」の2者がおり、この2者が最も現場近くにいる(当事者なんだから当然ですが)。一刻も早く被害者を病院に搬送するためには、この「当事者」に協力をしてもらうほかない、つまり、加害者に被害者を病院に搬送する手配をしてもらうことが何よりも「被害者のため」になるのです。

 しかし、「飲酒運転で事故を起こせばその時点で厳罰確定」というこの流れにおいては、「逃げないと自分の人生が終わってしまう」というあせりに囚われた加害者にそんな余裕はありません。「この期に及んで自己保身を優先するのか!」というような道徳的批判があるかと思いますが、もはやそのような道徳的批判に構っている余裕などありません。人間が自己利益と保身を最優先するのは、確かに「負の側面」ではありますが、ある意味当然のことです。もちろん、個々人の「モラル」というものも大切ですが、そればかりに依存する社会設計は欠陥設計です。「個人の利益」と「社会の利益」が一致するように制度設計する、時には道徳的価値観に反する「必要悪」も認めることも社会設計においては欠かせない要素です。それが現実主義です。

 だからこそ私は、以前から、加害者が被害者救護に協力してもらえるように、もし飲酒運転で人身事故を起こしたとしても、その後の対応、具体的には、被害者救護に従事した場合には、処罰を大幅に免除することを提案してるのです。究極的には、跳ねた被害者を歩道などに移動させ(後続車が轢いてしまうことを防ぐため)、救急車さえ呼んでくれれば、後は逃げようがどうしようが構わないくらいです。「医療費は誰が負担するんだ!」というご批判もあるかと存じますが、生きてナンボです。医療費なんかはいざとなればどうにかなりますが、死んでしまったら人間の力ではどうにもなりません。


 つまりまとめると、

1.飲酒運転死亡事故の「本質」は物損事故であり、本来は運転者自身が一番危険。
2.にもかかわらず、なおも飲酒運転がなくならないのは飲酒運転者の「当事者意識の欠如」。
3.「当事者意識」を飲酒運転者は人身事故を起こして初めて自覚し、自分のしでかしたことの重大性に気がついた飲酒運転者は被害者救護をせずに逃げてしまう。
4.迅速な被害者救護のためには加害者の協力が鍵であり、そのためには加害者に余裕を持たせることが必要。道徳的価値観に反する「必要悪」の視点も時には必要。

 ということなのです。

 その点、「ひき逃げを抑止するための厳罰化」という昨今の流れは、私としましては、加害者の「逃走の必要性」を更に押しあげることとなり、逆効果になるのではないかとすら考える次第です。

 飲酒運転死亡事故というと、どうしても世間一般では「被害者の視点」で見てしまうことが多いように見受けられます。また、しばしばそれは勧善懲悪的道徳観のフィルターを通して考えてしまいがちです。しかし、事故を起こすのは被害者ではなく加害者であり、加害者も「面倒を嫌がる人間」です。その点、私としましては、この手の事故を根本的に減らし、なくすためには、その良し悪しは別として、「面倒を嫌がる人間としての加害者」の視点にあえて立って考えることも、必要なのではないかと考える次第です。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
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2008年12月21日

まともなアドバイザーはいないのか

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20081217k0000e040023000c.html
>>> 長久手発砲立てこもり:大林被告に無期判決 名古屋地裁

 愛知県長久手町で07年5月、拳銃を持って自宅に立てこもり、県警特殊部隊(SAT)隊員ら4人を死傷させたとして殺人などの罪に問われた会社役員、大林久人被告(52)に対し、名古屋地裁は17日、無期懲役(求刑・死刑)を言い渡した。判決は完全責任能力を認め、同隊員ら3人への殺意を認定、1人への殺意はなかったとした。検察側は控訴する方針。

 伊藤納裁判長は「刑事責任は重大だが、死刑を選択することがやむを得ないとまでは言えない。一生償い続けるべきだ」と述べた。

 判決によると、大林被告は07年5月17日、自宅で元妻を拳銃で脅し復縁を迫り、駆けつけた県警愛知署の巡査部長、長男、次女に発砲して重傷を負わせた。さらに元妻を約23時間監禁し、巡査部長を救出しようとしたSATの林一歩警部(当時23歳)に発砲して殺害した。

 弁護側は林警部への発砲について殺意を否認したが、判決は「誰かに弾が当たって死亡する危険性を認識し、死の結果を認容していた。概括的殺意が認められる」と述べた。殺人未遂罪に問われた次女への発砲については傷害罪の適用を求めた弁護側の主張に沿い「殺意があったとまでは言えない」とした。

 また、弁護側は巡査部長と長男への発砲について「覚えていない」「精神安定剤などの影響で心神耗弱だった」と限定的な刑事責任能力を主張したが、判決は「至近距離から体の枢要部分を狙っている」「交渉役の警察官との会話で、2人への発砲を自認している」として確定的殺意と完全責任能力を認めた。

 一方で、判決は「強盗殺人や身代金目的誘拐殺人のように財産的利欲のための殺人や綿密に計画された事件とは異なる」と述べた。【式守克史、秋山信一】
<<<
 本件に関しては、死亡した警官の遺族の父親が、判決直前に以下のような手記を公開し、被告人の犯行は「4人を殺害した殺人犯と同等の判決を受け償うべき」としていました。
http://www.asahi.com/national/update/1214/TKY200812140153.html
>>>  愛知県長久手町で昨年5月、県警機動隊特殊部隊(SAT)の林一歩警部(当時23)ら、4人が発砲を受けて死傷した立てこもり事件で、殺人などの罪に問われた会社役員大林久人被告(52)に対する判決公判が名古屋地裁で17日に開かれるのを前に、林警部の父千代和さん(53)が14日、報道各社に手記を寄せた。

 千代和さんは手記の中で、大林被告に対して「罪の重さを認識し深く反省してほしい」と求めた。公判では、検察側が死刑を求刑。大林被告は拳銃を発砲して林警部を死亡させ、警察官ら3人に重傷を負わせたことは認めたが、弁護側は殺意の有無や責任能力などについて争い、死刑回避を求めている。

 全文は以下の通り。

    ◇

 第一回の公判が始まり約7カ月間続いた長く辛い公判も10月に論告求刑があり、昨年の5月17日 あの事件から1年7カ月となる12月17日の判決の日が近づいてきました。

 私たち遺族が意見陳述で述べた極刑である「死刑」が求刑され、被告には自分が起こした事件がいかに凶悪であり重大な事件であったか、罪の重さを認識し深く反省してほしいと思います。

 「死刑制度」が論議されている中での今回の求刑ですが被告に対する気持ちは私達遺族しか分かり得ない部分があると思います。

 一般の市民生活にあってはならない拳銃を持ち出し、事件現場に駆け付けた警察官に発砲、その警察官は重傷を負い、更に被告は負傷をした警察官の救出に向かった息子にまでも照準を合わせ発砲し息子を殺害しました。

 親としてあってはならない自分の子どもまでにも発砲し重傷を与えた凶悪な事件でありました。

 意見陳述でも述べましたが銃を持つことが既に「殺人目的」であり、発砲すれば「殺人行為」にあたり被告の起こした犯罪は十分に「死刑」に匹敵すると思っています。

 被告は4人を殺害した殺人犯と同等の判決を受け償うべきと思っています。

 治安を守る警察官に発砲するなど絶対あってはならない、銃犯罪抑制のためにも二度と同様な事件が発生しないよう厳罰をもって罰せられ、市民生活の安全が保たれることを望みます。

 間もなく判決の日を迎えます。

 あの凶悪な事件をもう一度思い出して頂き「事件の凶悪さ」「拳銃の犯罪」「再発防止」「命の大切さ」などについて考える機会として頂きたいと思います。

 月日が経(た)っても「一歩」を失った悲しみは癒えることはありません。

 悔いの無い判決が下されることを願っています。

       林 千代和
<<<
 まず第一に、本件において銃器が持ち出されたのは元妻との「復縁」のためであり、「銃を持つことが既に「殺人目的」」とはいえません。また、発砲しただけで「殺人行為」であり「被告は4人を殺害した殺人犯」としていますが、実際は4人全員を射殺したわけではないので、この場合は「殺人未遂」にはなっても「殺人」にはならず、些かズレていると思われます。もちろん「殺人未遂」だって理論上は死刑判決が出る可能性はありますが、やはり、実際に死んだのは1人なのに「被告は4人を殺害した殺人犯」とはできません。本当に「罪の重さを認識し深く反省してほしい」のならば、罪状は事実に忠実であるべきですし、もし、現行法では「殺人未遂」であるところを正式な「殺人罪」とする、つまり「殺人罪」から「未遂行為」を削除して「殺人罪」に一本化するならば、それは司法の管轄ではなく立法の管轄であり、主張する相手が違います。

 このように、「遺族」が冷静な視点を持たず、傍から見ればちょっとズレた主張をするという事例は以前から取り上げてきました。しかしながら私は、たとえば10月18日づけ「「共感」の名を借りた「一体化」がもたらすもの」をはじめとして何度も申し上げてきているように、これは仕方ないといえば仕方ないと思います。だからこそ、「被害者」でもなく「加害者」でもない「冷静な視点を持つアドバイザーとしての第三者」が介入し、当事両者に「いやそれはちゃっと違いますよ」とアドバイスする必要性があると考えています。

 しかしながら本件については、このような何かズレた内容の手記が判決直前になって出てくるところを見ると、どうやら被害者側に「冷静な視点を持つアドバイザーとしての第三者」、つまり、その主張が些かズレていることを指摘する人物はいなかったようです。

 昨今は「被害者の権利」を主張する被害者運動が盛んになりつつあり、被害者経験の無い人々にも共感がひろがっているようで、ネット上でも現実世界でも「被害者のために!」とか「私は被害者の立場に立ちます」と自称する人が増えつつあります。しかしながら、遺族の言説の微妙なズレを殆どの人が指摘していない本件を見ると、「被害者の立場に立つ」と自称している人たちは本当に被害者の言動を聞いているのか疑問に思わざるを得ませんし、もしその言説を聞いた上で尚、指摘しないのならば、それはすなわち「終着点が合っていればプロセスは不問」ということになり、「法治国家に生きる者」としてどんなもんかと感じざるを得ません。

 「被害者側」を自称する人たちの「正体」が、ネット上のそれだけではなく、現実世界のそれについても、どことなく胡散臭く感じます。

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2008年12月17日

戴いた8月分のコメントへの返信を完了しました

今度は8月中に戴いたコメントに対する返信を今更ながらいたしました。

8月2日づけ記事『朝日は尚も「被害者」「被害者遺族」のことを考えてはいない』(けらさん)
http://s19171107.seesaa.net/article/104045678.html

8月6日づけ記事『河野澄子さんを政治利用する死刑推進派』(衒学鬼さん)
http://s19171107.seesaa.net/article/104305922.html

8月7日づけ記事『新入社員を叩く「労働教団」教徒』(黒的九月さん)
http://s19171107.seesaa.net/article/104366970.html

8月15日づけ記事『靖国神社取材から戻ってまいりました』(放蕩息子さん)
http://s19171107.seesaa.net/article/104793444.html

8月24日づけ記事『どん底から這い上がる「自己責任」?』(amanoiwatoさん)
http://s19171107.seesaa.net/article/105270240.html

8月30日づけ記事『八戸母子3人殺害事件が何故か盛り上がらない』(五葉さん、EzoWolfさん)
http://s19171107.seesaa.net/article/105750814.html

願わくは、今週末くらいには9月中に戴いたのを。。。
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2008年12月15日

「感情屋」と「自己責任論者」の共通性について

 昨今の新卒者内定取り消し問題と、例によってその「世論」について。

 昨今の新卒者内定取り消し問題には、取り消された学生の側に立つ意見が多いのですが、一方で逆の意見も少なくありません。しかし、それらの「世論」の多くは、なんか根本的にズレているとしか言いようがありません。たとえば、以下。以下は、本件に関する「世論」としてみられる言説のエッセンスが凝縮されているように思います。
>>> 一般企業は、利潤を追求する団体として存在してる。
経済の基本として、当然のこと。

企業倫理、使命や社会貢献、理想や社員の幸福を追い求める企業があるとすれば、それは理想郷というものである。


しかし、一般的にはまず有り得ない。

不可能ではないが、七つ葉のクローバーを探すようなものだ。

マスコミがなんと煽ろうと、勘違いしてはならない。

あくまで、内定は内定。

内定取り消しは、企業にとっては当然の行動。

あくまで、内定。採用したわけでも何でもない。


学生にとって就活が、少しでも自分を良く見せて企業に入り込む活動だとすれば。

企業にとっての採用活動は、外面を取り繕ってでも、こましな学生を誘い込み、都合のいい労働力を確保する目的に基づくものでしかない。

つまり。明らかに。
『だまされるほうが悪い』
就活は元来、そういうものだから。


内定取り消しの可能性を含めて、企業の将来性を判断しなかった学生側のミスだ。

そして、本当に企業にどうしても必要とされてる人間なら、切られたりはしないもの。

何をどう騒ごうが、やはり単にその学生の『能力不足』だろう。


そこを履き違えて、100万円では足りないなんて。
あきれた話だと思う。


内定なんて、その後延々と続く険しい労働のほんの始まり。

トライアスロンの最初の『数ミリ』みたいなものなのだから。
<<<
 このように、採用内定を取り消した企業の側に立って意見する人たちの多くは、「内定はあくまで内定であり決定ではない」「その企業の将来をちゃんとみなかった本人の自己責任」「新聞とか読めば経済の動静くらい分かったはずなのにそれを怠った自己責任」(←これは上記には記述されていませんが、とあるところで見ました)「このご時世でも雇い入れたくなるような能力を持たない本人の能力不足」というような言説を以って擁護しています。

 しかし、私としましては、これらの言説はどれもこれも全く失当なものであると言わざるを得ないと考えます。

 まず「内定はあくまで内定であり決定ではない」と、それに付随して語られることが多い、上記「世論」でいうところの「そこを履き違えて、100万円では足りないなんて。あきれた話だと思う。」をはじめとする新卒者批判言説について。これについては、そもそも「内定」というものは何であるかという点から考える必要がありそうなので、以下、広島県による解説から、まず「内定」の法的位置づけを把握したいと思います。
http://www.work2.pref.hiroshima.jp/docs/1378/C1378.html
>>> 1−1 採用内定が取り消された
 
 私は,来春卒業予定の大学生です。ある企業の採用試験に合格し,秋に内定通知を受け,会社側に入社誓約書を提出しました。ところが,先日,会社から業績の悪化を理由に内定を取り消したいという連絡がありました。時期的にこれから新しい就職先を探すのは困難なのですが,入社はあきらめなければならないのでしょうか。

ポイント

 使用者が採用内定を行い,それに対して学卒予定者等が誓約書を提出すれば,その時点で,使用者の解約権が留保された労働契約が成立したものと解されます。


 採用内定の取消は,取消の理由が内定当時知ることができなかったか,知ることが期待できないような事実であって,社会通念に照らして相当と認められる場合に,可能とされています。

採用内定の法的性格

 採用内定が取り消されると,時期によっては,その年度の就職をあきらめざるを得なくなり,労働者にとっては大きな問題です。したがって,学説・判例は,内定取消から内定者を保護するための理論を築いてきました。
 この点,判例は,内定の法的性格について,「会社からの募集(申込みの誘引)に対し,労働者が応募したのは,労働契約の申込みであり,これに対する会社からの採用内定通知は,申込みに対する承諾であって,労働者の誓約書の提出とあいまって,これにより,労働者と会社との間に,労働者の就労の始期を大学卒業直後とし,それまでの間,誓約書記載の採用内定取消事由に基づく解約権を留保した労働契約が成立したと認めるのが相当である。」としています(大日本印刷事件・最高裁判決 昭54.7.20)。すなわち,採用内定によって,一定の解約権が留保された労働契約が成立していることになります。
 もっとも,採用内定といっても,その実態は様々ですから,一概にこのようにいえるわけではありません。しかし,新規卒業者の場合についていえば,一般に,このようにいってよいでしょう。

内定取消の適法性

 採用内定により労働契約が成立すると考えられる以上,内定取消は,内定の際に留保された解約権の行使による労働契約の解約ということになります。したがって,結局は,内定取消ができるかどうかは,解約権の行使が適法か違法かの問題になります。
 これに関して,最高裁は,前掲の大日本印刷事件で,「採用内定の取消事由は,採用内定当時知ることができず,また知ることが期待できないような事実であって,これを理由として採用内定を取消すことが解約権留保の趣旨,目的に照らして客観的に合理的と認められ社会通念上相当として是認することができるものに限られる」としています。つまり,内定通知書や誓約書に記載された取消事由に該当したとしても,必ずしもそのすべての取消が認められることにはなりません。
 取消が正当と認められる事由としては,通常,次のようなものが考えられます。
@ 学校を卒業できなかった場合。
A 入社の際に必要と定められた免許・資格が取得できなかった場合。
B 健康を著しく害し,勤務ができない場合。
C 履歴書や誓約書などに虚偽の記載があり,その内容や程度が採否判断にとって重大なものである場合。(単に,「提出書類への虚偽記入」というだけでは,取消が認められない場合があります。)
D 採用に差し支えるような破廉恥な犯罪を犯した場合等。
 ところで,ご質問は経営悪化を事由にする内定取消は,有効かというものです。このような内定取消が有効とされるのは,経営悪化が新規採用を不可能ないし困難とするようなものであり,かつ,この経営悪化が内定当時予測できないものであった場合に限られます。
 最近の事例として,ヘッドハンティングによりマネージャー職にスカウトされた労働者に対する経営悪化を理由とする内定取消について,整理解雇の4要件(「人員整理のための解雇は,どこまで許されるか」の項を参照してください。)に照らし,その当否を判断すべきとし,会社の対応に誠実を欠くところがあったとして,採用内定取消を無効としたケースがあります(インフォミックス事件・東京地判平9.10.31)。

こんな対応を!

 以上のように,合理的な理由のない内定取消は,解約権の濫用に当たり無効とされます。このことを念頭に,次のような対応を取りましょう。
@ 内定取消の理由について,具体的な説明がない場合は,文書での回答を求めましょう。具体的な理由が示されている場合は,内定通知書や誓約書に,その事由が記載されているかどうか,確認しましょう。
A 企業に労働契約の履行(入社日からの就労)を求めるとともに,賃金の支払を要求しましょう。なお,採用を繰り延べる場合には,自宅待機の期間を明確に設定するように求めましょう。
B やむを得ず内定取消を受け入れる場合には,補償措置について会社側と交渉しましょう。
C 会社側に誠意がみられない場合には,従業員としての地位保全・賃金仮払いの仮処分申請や損害賠償請求などの法的手段に訴える方法があります。
 

更に詳しく

≪採用内々定≫
 正式な採用内定に先だって,企業が採用を望む学生等に口頭で「採用内々定」であることを伝え,後日正式に書面で「採用内定」を通知するという場合があります。このような「内々定」の段階では,多くの場合,企業と応募者の双方とも,内々定により労働契約の確定的な拘束関係に入ったものと認識していると認めることは困難です。労働契約締結の申込みに対する承諾の意思表示である採用内定とは異なり,労働契約は,採用内々定の段階ではまだ成立していないと解さざるを得ません。したがって,「内々定」の取消は,労働契約の解約ではないことになり,仮に「内々定」の取消が違法な事由によるものであったとしても,労働契約成立への期待が裏切られたことに対する慰謝料請求が認められるにとどまります。なお,拘束関係の度合いによっては,「採用内定」と認められるケースもあり得ると思われます。

≪解雇予告と休業手当≫
 内定取消は,使用者側からする労働契約の解除,すなわち解雇と解されますので,一般的には,労働基準法第20条により,30日前の予告か,あるいは30日分以上の平均賃金を支払うかのいずれかが必要であるとされています。しかし,このような予告期間や予告手当は不要とする見解もあります。
 また,内定者が入社予定日以降に労務の提供を申し出たときには,使用者は,本来これを受領しなければならないわけですから,経営悪化など使用者側の事情で採用内定者の入社時期を繰り延べ自宅待機させる場合は,「使用者の責に帰すべき事由による休業」に当たり,使用者は,自宅待機の期間中,労働基準法第26条の規定によって,平均賃金の100分の60以上の休業手当を支払わなければならないとするのが多数説です。

≪公共職業安定所への通知≫
 中学校,高等学校,大学,高等専門学校,盲・ろう・養護学校,専修学校,職業訓練校などを新たに卒業しようとする者を雇い入れようとする会社が,内定期間中に内定を取消す場合や内定期間を延長する場合には,あらかじめ公共職業安定所か学校長に,そのことを通知することとされています(職業安定法第54条,同法施行規則第35条)。この通知を受けた職業安定所は,場合によっては,雇入れ方法の改善について指導を行うことができます。
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 一応、法的にはこういうことになっていますので、先にあげたような言説は、少なくとも 法 治 国 家 で あ る 日本国においては通用しないものと思われます。また、内定を取り消された新卒者たちが昨今行っている諸要求は、まさに上記において広島県が推奨している対策を教科書どおりに行っており、「そこを履き違えて、100万円では足りないなんて。あきれた話だと思う。」というのは全く失当で、あきれるのはこっちだと言いたいところです。

 つづいて「その企業の将来をちゃんとみなかった本人の自己責任」について検討してみます。
 私としては、一般人にすぎない新卒者が、これほどまで深刻な事態である昨今の経済情勢を、就活の時期において予測できたとはとても思えません(というか、もし予測できればゴスプランで働けますよ!)ので、この言説は全く失当であると思います。また同様に、さすがの企業でもこれほどまで経済が悪化するとは採用内定を出した時点では予測できたか怪しいところなので、今回の就職内定取り消しも、あるいは仕方ないのかもしれませんが、しかし、ここ最近報じられている就職内定取り消しは、どれも結構な経営規模の企業が少なくない点、企業側の説明を鵜呑みにすることは出来ないと思いますし、たとえ本当に新卒者を雇い入れると経営が行き詰まるほど切羽詰っているとしても、先にご紹介したように、採用内定というのは雇用契約と解するのが法治国家としての日本国の決定である以上は、解雇相当の手続きを取らなくてはならないと考えています。ゆえに私としては、何処まで行ってもこの手の言説に賛同することは出来ないと明確に表明いたします。
 
 「新聞とか読めば経済の動静くらい分かったはずなのにそれを怠った自己責任」について。新卒の就職活動は、職安に行って2・3日でちゃっちゃとやるもんじゃないんですよっと。

 「このご時世でも雇い入れたくなるような能力を持たない本人の能力不足」について。
 端的に言うと、「このご時世でも雇い入れたくなるような能力」ってどんな能力ですか。昨今、内定を取り消されている人たちって大体は事務方のようですが、事務方にそんなすげえ能力なんているもんなのかと。
 この手の「本人の能力」は自己責任論者の切り札としてよく使われていますが、切り札も使い方を間違えるとアホ丸出しですね。

 以上、今回の分析から、以下の4項目が判明したといえると思います。

調査結果1.新卒者批判・企業擁護のツールとして「自己責任」を持ち出す点、所謂「自己責任論者」と相当近い、あるいは完全に一致する。

調査結果2.そもそもの法的位置づけを無視し、とにかく俺様基準で判断しようとする。「感情屋」と共通するところがある。

調査結果3. 相手の言うことは本当に事実なのかということを分析しようとせず、相手の言うことを鵜呑みにする。これは、12月14日づけ「結論が先、情報は後」においても類似例を取り上げましたが、先に作られている結論、つまり「補償無しの内定取り消しは問題ない行為」という、本人にとっては妥当だと思っている(ある意味)「信念」を補強するために、様々な情報に飛びついているためなのではないか。

調査結果4.実は世間知らず。

 さて、当ブログでは、主に刑事事件・刑事裁判に対する「世論」から「感情屋」の習性を、社会保障制度や労働者問題に対する「世論」から「自己責任論者」の習性を分析してまいりました。それらの分析から、私は度々、これら二者の共通性のようなものを直感的・感覚的に感じていましたが、今回このように、ちゃんとサンプルを元に分析すると、調査結果1と調査結果2に注目するに、「感情屋」も「自己責任論者」も、俺様基準で全てを判断しようとする点において、共通するところがあるのではないかと思います。
 今後も、「感情屋」と「自己責任論者」の言説を分析することを通して、これら二者の関係性について研究してまいるとともに、なぜ彼らはこのような、ある意味における「信念」を持っているのかについても分析してみたいと思います。
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2008年12月14日

結論が先、情報は後

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081214-00000005-yom-soci
>>> 「水風呂に沈めたら、動かなくなった」勝木容疑者が供述
12月14日3時4分配信 読売新聞

 千葉県東金市の保育園児成田幸満(ゆきまろ)ちゃん(当時5歳)の死体遺棄事件で、逮捕された同市東上宿、無職勝木諒(かつきりょう)容疑者(21)が、東金署捜査本部の調べに「女の子(幸満ちゃん)を水風呂に沈めたら、動かなくなった」という趣旨の供述をしていることが13日、わかった。捜査関係者らが明らかにした。

 捜査本部は、幸満ちゃんが死亡した経緯につながる重要な供述とみて、勝木容疑者の自宅マンションの浴室から採取した頭髪をDNA鑑定するなど、裏付けを急いでいる。

 捜査関係者らによると、勝木容疑者と幸満ちゃんが浴室に行った経緯ははっきりしないが、勝木容疑者は水風呂に沈めた理由について、「(幸満ちゃんが)泣きやまなかった」「かっとなった」などと説明している。また、幸満ちゃんが自宅に来てからは勝木容疑者の自室にいたとし、「女の子が本を読み、僕はDVDを見ていた」と話しているという。

 別の捜査関係者によると、幸満ちゃんは司法解剖の結果などから窒息死とみられており、肺などに少量の水が残っていた。遺体発見時、口の周りに吐しゃ物のようなものが付いていたのを救急隊員が確認している。水死だと口から泡を吹くことがあるという。

 捜査幹部によると、勝木容疑者は物事を順序立てて話すのが苦手な様子で、調べ官は、文字や絵を使いながら慎重に調べている。

最終更新:12月14日3時4分
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 本件は逮捕された容疑者が知的障害であり、この点からその供述に対して懐疑的な「世論」がありましたが、ここに来て突然、そのような「世論」は吹き飛び、ほとんどがこの供述を真として、そのまま「死刑にせよ」という結論を導く人が増えています。

 この点から、この手の人々は、結果的に死刑を求めているわけではなく、死刑という結論を先に据え、それを補強するためにさまざまな情報を後付けしているといえるのでは無いでしょうか。

関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
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2008年12月13日

橋下が賠償金支払う

http://sankei.jp.msn.com/politics/local/081212/lcl0812121354001-n1.htm
>>> 橋下知事、光市弁護団に856万支払い 「遅延損害金がかかる…」
2008.12.12 13:46

 山口県光市の母子殺害事件の男性被告(27)=死刑判決を受け上告=の弁護団への懲戒請求を呼びかけたテレビ番組での発言をめぐる訴訟で、広島地裁に800万円の賠償を命じられた大阪府知事の橋下徹弁護士が、遅延損害金を含め計約856万円を原告の弁護士4人に支払っていたことが12日、分かった。この訴訟で橋下弁護士は控訴している。

 原告側の関係者によると、橋下弁護士側からの支払いがあったのは10月27日。原告1人あたり200万円の賠償金に、遅延損害金を加えた856万円が支払われたという。原告側は橋下弁護士側の控訴を受けて附帯控訴の準備を進めており、「趣旨は不明だが賠償の一部として受領した」としている。

 これに対し、橋下弁護士は12日、報道陣の取材に「遅延損害金が1年で40万円かかるので、まず先に払うことにした」と説明。さらに「自分の表現方法をおわびする気持ちは変わっていないが、表現の自由について自分の思うところがあったので控訴はしている」と述べた。
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あーそーですかー
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「被害者のために」の「正体」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081212-00000010-yom-soci
>>> 「死刑囚に会うの無理ですか」娘を奪われつらさ伝えたい遺族
12月12日7時59分配信 読売新聞

 24歳の娘の命を奪った男の死刑が確定して、1年9か月が過ぎた。

 世間が事件を忘れても、遺族にとって、8年半前のあの日から、時間は止まったままだ。遺体とともに警察から返されたブルガリの腕時計は、ガラスの部分がすべて溶け落ち、焼け残った針が死亡推定時刻の午後10時57分を指している。

 正恵さんは生きていれば32歳。61歳の父と59歳の母は毎朝、毎晩、仏壇にご飯を供え、話しかける。「結婚して子供がいたかもしれないね。孫と一緒に旅行もしたかった」

 事件のことばかり考えてはいけないと思いつつ、心から笑うことができなくなった。自分たちだけ楽しんでいいのかという思いが、いつも先に立つ。旅行にも行けない。「犯人を憎むことが生きがいになってしまった」と父は言う。

          ◆

 2000年6月11日午後11時すぎ、帰りの遅い正恵さんを心配した父は、勤務先だった宇都宮市の宝石店「ジュエリーツツミ宇都宮店」へ車を走らせた。近くまで行くと、消防車やパトカーが何台も見えた。真っ黒になった店から炎が噴き出していた。

 司法解剖を終えた正恵さんの遺体は、頭からつま先まで白い布でくるまれ、ビニール袋で覆われていた。損傷がひどく、歯の治療痕で本人確認したと聞かされた。

 就職して約2年。接客が大好きで、「自分が勧めた指輪をお客さんが買ってくれた」とうれしそうに話してくれた。「絶対にブルガリがいいんだ」と、給料をためて買ったお気に入りの腕時計をして出勤していた。

 「熱かったね、苦しかったね」。父はそう声をかけるのが精いっぱいだった。死に顔を見ることも、抱きしめてやることもできなかった。

          ◆

 4か月後に始まった裁判はとても苦しかった。事件後、怖くて新聞を読むことができず、検察側の冒頭陳述を聞いて初めて、どのように娘が殺されたのかを知った。1億4000万円相当の貴金属を奪った篠沢一男死刑囚(57)は、正恵さんら女性従業員6人の手足を縛り、生きたままガソリンをまいて火をつけ、逃げた−−。「正恵はどんなに怖かっただろう」。想像して、父は手が震えた。

 娘に代わり、すべてを聞こうと、父は仕事を休んで公判をすべて傍聴した。「火をつけるつもりはなかった」と殺意を否認した篠沢死刑囚から真摯(しんし)な謝罪はなく、法廷で遺族と目を合わせることもなかった。

 「極刑を望みます」。父は証言台ではっきりと言った。その気持ちは今も変わらない。「悔しさと怒りで、相手の死を願うことへの抵抗感は全くなかった」

           ◆

 昨年3月、最高裁で死刑が確定した篠沢死刑囚は、東京拘置所の独房で暮らす。今夏、市民団体のアンケートに対し、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と書いた。

 正恵さんの両親の前に姿を見せたのは、03年4月の東京高裁判決の時が最後になった。父は最近、篠沢死刑囚が何を考え、事件を反省しているのか、知りたいと思うようになった。そして、この世で一番大切な娘を奪った人間に、親のつらい気持ちを直接伝えたいと願う。

 だが、死刑囚に面会が許されるのは、親族や弁護士のほかは数人の知人らだけ。拘置所が特に必要があると認めた人に限られるため、死刑囚本人が希望しない限り、被害者の遺族が面会できる可能性は極めて低い。

 それでも父は強く思う。「自らの犯した罪の重さを知り、心から反省してから、刑を執行されてほしい。私が篠沢死刑囚に会うのは、無理なのでしょうか」

 (連載「死刑」第2部「かえらぬ命」第2回)

最終更新:12月12日7時59分
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 言うまでも無いことですが、報道記事というものは、印象操作を狙っている悪質なものを除いて、基本的にはタイトルが記事のテーマを表しています。本記事にしても、タイトルがテーマを端的に表している正攻法の報道記事です。

 にもかかわらず、本件に対する某所における「世論」は、その辺を全く踏まえず、以下のような内容のものが溢れかえっています。
>>> 自分の子供を持った時点から、こういう事件に対して自分でも止めようのない激しい怒りと、遺族の気持ちに共感した悲しみがこみ上げてきます。
もし自分が遺族なら・・・と考えるだけで震えます。
おそらく、想像ですが、私も犯人をこの手で殺したいと思うでしょう。
やめてくれ、殺さないでくれと泣き叫ぶ犯人を、じっくり苦しめながら、この手で死に至らせる事を願い続けるでしょう。
死刑反対を唱える方たちは、きっとお釈迦様のように、悟りの郷地に達しているのでしょうね。
私には無理です。
犯人の死・・・そこから初めて、遺族として第2の人生に向けての一歩が踏み出せるのでしょう・・・。
犯人への終身刑の言い渡しは、遺族にとっても終身刑を言い渡されているようなものです。
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>>> 知らない人の話とは言え悲しくなる。

死刑囚の言葉、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というが、「女性従業員6人の手足を縛り、生きたままガソリンをまいて火をつけ」この行為は、被害者にとっては死刑以上の物ではないのだろうか。

死刑よりも思い刑、あるならば与たい。。。
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>>> 死刑制度云々というより…シンプルに考えてみてだな…
このケースを例に挙げるなら犯人にガソリンかけて火を付けて、
しばらくして生きていればもうそれで許してあげてもいいんじゃないかな。
別に殺す気はないよ?
ただ世の中の事象やらそういう流れに任せるだけ。
呼吸する度に気管を焼かれ様と頑張れば生き残れるさ、たぶん。

「殺す気はなかった…」ってセリフ、彼等がよく吐くセリフなんだし、
裁く側や遺族も同じ事をするだけである。
こんな状況を味わえば、殺人者も反省のひとつやふたつぐらいはするでしょう。

え、絶対死ぬ? 死んでしまう?

またまたご冗談を… 別に殺す気はないんですってば…w
<<<
>>> 死刑にしたところで、被害者が生き返るでもなく。
遺族の方々としても憎しみのやり場を失うだけで、後に何も残らない気がする
それよりは終身刑という形で、死ぬまで罪悪感と向き合わせ続ける方がいいのでは

という意見はよく耳にしますが。
個人的には、大切な者を奪われたなら奪った相手の目の前で、手の出しようが無い状況にしておいて、そいつの大切な物を粉々にしてやりたいと思います
そうやって遺される側の痛みを味わわせたあとで、今度は命を奪われる痛みを与えます
トドメに、死ぬ間際に「お前の人生に意味はなかった」と耳元で囁・・・

そんな妄想をしてしまうくらい、犯人に憤りを感じますね
<<<
>>>生きたままガソリンをかけて火をつけ、殺すつもりはなかったと。

裁判は復讐の場ではないと言いますが、加害者が罪から逃れるための茶番劇の場でもありません。

一刻も早く極刑のうえ被害者のご遺族に平穏が訪れますよう。
<<<
 また、篠沢死刑囚の「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というセリフに対して短絡的に噛み付いているのもいます。
>>> >昨年3月、最高裁で死刑が確定した篠沢死刑囚は、東京拘置所の独房で暮らす。今夏、市民団体のアンケートに対し、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と書いた。

何が「死刑は残酷」だよ!
あんた一体自分が何したかわかってんの!
こういう事件がある度、死刑はやっぱり必要なんだなって思う。
死刑は罪に対する罰。
人を殺して自分が死ぬのは嫌だ、なんて信じられない。
激怒、です。
<<<
>>> ニュースより引用
===========================================================================
死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」

=============================================================================

この発言に心底腹が立った。
こいつが犯した罪状は逃げられない状態にして6人を焼殺。

同じ状態で焼き殺してやれよ。

何が『ざんこくなものです』だ。虫のようにくびり殺される恐怖におびえることこそ『死刑』という罪状の本質だ。怯えて生きろ、泣き叫んで『死にたくない!!』と叫び続けろ。
<<<
>>> あと、勝手だよなぁと思ったのが
>死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこく
という死刑囚のコメント。
何をいまさら同情を買おうとするのか。手前自身がまず最初にあの6人に対して
「刑を執行」したんだ。殺意があろうが無かろうが。
その責任から逃げるのは卑怯でしかない。
<<<
 まあ、元の記事に書かれている言葉自体が、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と短すぎるせいなのかもしれませんが、しかし、あるいは、「死刑とはざんこくなものです。しかし、これも私が罪を犯した報いなのですから、しかたないのでしょう。」という風に続いているかもしれない、つまり、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というのは、後に続くセリフ次第でどっちにも転びうる判断しにくいセリフなのであります。

 にもかかわらず、本記事が最も報じたかった「犯罪被害者が加害者との面会を希望している」ということについては全くといって良いほど触れずに、こういうところに真っ先に、短絡的に噛み付いて勝手にファビョっている人が何と多いことか。もう溜息しか出ません。

 以前より当ブログでは、たとえば8月6日づけ「河野澄子さんを政治利用する死刑推進派」などにおいて、河野義行氏や原田正治氏のような殺人事件の被害者遺族が、加害者に対して死刑を求めていないにもかかわらず、全く無関係の第三者が「遺族のために死刑を!」と加熱している姿を取り上げ、「被害者のために」と言っている連中は本当に「被害者のため」の言論活動をしているのか、という疑問を呈して参りました。しかしながら、河野氏や原田氏といった「加害者に死刑を求めない被害者遺族」というものは、やはりどうしても絶対数が少なく、そもそも世に知られていなかったりするので、ある意味、仕方ないところもありました。

 しかしながら、本件被害者遺族は加害者に強い憎悪の気持ちを抱いており、いうならば「多数派遺族」です。にもかかわらず、本件の「世論」は、「多数派遺族」の主張すらも殆ど検討せずに「死刑!」と繰り返したり、勝手に死刑廃止論者とのシャドウボクシングを始めています。

 このような現実をみると、結局のところ、「被害者のために死刑を!」とか言っている連中は、心底「被害者のため」に言っているのではなく、偶然被害者も加害者に対して死刑を求めているだけで本当は単に自分が気に入らないから加害者を死刑にして欲しいだけなのではないかと考えざるを得ません。

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2008年12月11日

福岡小1殺害事件も何故か盛り上がらない

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081211-00000184-jij-soci
>>> 小1殺害、母親を起訴=責任能力を認定−福岡地検
12月11日19時35分配信 時事通信

 福岡市の公園で小学1年富石弘輝君(6つ)が殺害された事件で、福岡地検は11日、殺人罪で母親の薫容疑者(35)を起訴した。同容疑者は9月22日、殺人と死体遺棄容疑で県警に逮捕され、地検が鑑定留置で精神鑑定を実施。同容疑者の責任能力に問題ないと判断した。
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 八戸家族殺害事件(一般で言うところの「八戸母子3人殺害事件」)に対する「世論」が全く盛り上がらないことは以前にも触れましたが、同様に、家族間殺人である本件の起訴という報道に対しても、全くといってよいほど盛り上がる気配がありません。

 実は私、本件は事件発生から母親逮捕までの期間がとても短かったために、事件発生〜母親逮捕までの時期の「世論」と、母親逮捕後の「世論」の両方を採集したのですが、ハードディスク内部の何処に保存したのかちょっと忘れてしまったので、見つけ次第、研究報告いたします。気長にお待ちください。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
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2008年12月10日

義務ばかり主張する

http://www.asahi.com/national/update/1209/TKY200812090327.html
>>> 成人年齢18歳「反対」56% 朝日新聞世論調査
2008年12月9日22時54分

 民法上の成人年齢を20歳から18歳に引き下げることに反対の人が56%にのぼり、賛成は37%にとどまることが、朝日新聞社が6、7の両日実施した全国世論調査(電話)で明らかになった。国政選挙などの選挙権を18歳からとすることについても、反対が賛成を大きく上回った。

 民法では、20歳未満は親の同意なしには結婚や契約ができない、と定められている。この成人年齢の引き下げは、特に女性で反対60%、賛成31%と、男性(反対51%、賛成44%)以上に否定的意見が目立つ。反対の理由は「判断力が十分でない」(43%)、「経済的に自立していない人が多い」(41%)が多い。一方、賛成の理由では6割が「大人の自覚を持たせられる」を選んだ。

 また、公職選挙法で決められている選挙権年齢の引き下げについては、反対が57%、賛成は38%。30代で賛否が相半ばするが、年代が上がるにつれて賛成が減る。

 憲法改正の手続きを定めた国民投票法で、国民投票ができる年齢が18歳とされたことをきっかけに始まった成人年齢などを巡る論議だが、国民の間では引き下げに慎重な意見が根強いようだ。

 一方、20歳未満を「少年」と定めて保護の対象としている少年法では、対象年齢を「18歳未満に引き下げたほうがよい」が81%で、「20歳未満のままでよい」の14%を圧倒。成人年齢引き下げに反対の人のなかでも約7割が、少年法については「引き下げたほうがよい」としている。

    ◇

 民法の成人年齢の引き下げ問題を議論している法制審議会(法相の諮問機関)の部会は、16日にこれまでの検討を踏まえた中間とりまとめを公表し、広く意見を聞く予定。

    ◇

 〈調査方法〉 6、7の両日、全国の有権者を対象にコンピューターで無作為に電話番号を作る「朝日RDD」方式で調査した。対象者の選び方は無作為3段抽出法。有効回答は2074人、回答率は58%。
<<<
 昨今はよく「権利ばかり主張して義務を果たそうとしない」という言説を聞きますが、これは逆に「義務(少年法)ばかり主張して権利(民法上成人資格・選挙権付与)は認めようとしない」といったところでしょうかねえ。とりあえずメモ程度に。
posted by s19171107 at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

戴いたコメントについて

 当日記は来月2日を以ってブログ移行開設3年となります。それまではジオシティーズで報道記事をとにかく大量に集めて保存するだけという、ただの集積場みたいなことをやっていたために、余りアクセスも無かったのですが、ブログに移行し、また、単に報道記事を集めるだけではなく、その「世論」を分析したり、あるいは私なりに考えた見解などを添えてみたところ、ここ1年ほどは、それなりに常連訪問者も増えてまいり、同時にコメントを戴く機会も多くなりました。

 そもそも当ブログは、あらゆる面で未熟な人間である当方が、自身の勉強のために、批評を受けることを期待して運営している公開「論述」スペースであり、その「論述添削官」は他でもなく訪問者の皆様であります。ゆえに私としては、皆様から戴いたコメントによって今まで何度も自己の誤った認識を矯正したり、あるいはもっと深く考えるキッカケを得てまいりました。コメントを下さる皆様には本当に感謝しております。

 にもかかわらず、近頃戴いたコメントに対する返信を怠って参りました。言い訳は言おうと思えば一応あるにはあるんですが、お聞き苦しいと思うのでゴチャゴチャ言わずに率直に謝罪いたします。申し訳ありません。あ、でも戴いたコメントは、表示承認をする際に全て目を通していますので、その辺はご安心ください。

 そういうわけで、そろそろちゃんと返信しなければならないと思いたち、そもそもいつから返信していなかったのかと思い、「戴いたコメントへ返信しました」というタイトルを冠した記事を探しに過去ログを漁っていましたところ、5月21日が最後ということになっていました。

 我ながら随分と放置したもんだなあと思っていたのですが、7月ごろに一度一斉返信していたような記憶があり、コメント管理画面を出したところ、確かに7月5日づけで一斉返信していることが判明しました。つまり、返信はしたけど報告はしていなかったということです。

 というわけで、以下、5ヶ月前に書き込んだ返信コメントの報告を書かせていただきます。

2月16日づけ記事「「光市事件」と「八戸事件」のメディアにおける扱いの違い」(amanoiwatoさん)

3月11日づけ記事「捕鯨問題に関する現時点での私の立場・認識」(kknekoさん)

4月10日づけ記事「綿井・河井トークショー記事に対する『無名Y』さんより戴いたコメントへの返答」(はてなさん)

5月30日づけ記事「携帯メール依存と群れる心理」(amanoiwatoさん)

6月5日づけ記事「「ハンセン病患者は入国禁止」

6月8日づけ記事「民度高杉」(mashさん、amanoiwatoさん)

6月9日づけ記事「上を見るな!下を見ろ!ああならないだけ幸せに思え!」(天性の庇護者さん)

6月11日づけ記事「刑務所の中はどうなっているのか?」(mashさん)

6月13日づけ記事「珍しく4様と同意見」(傍聴人さん、ポールさん)

6月19日づけ記事「自己責任と社会進歩」(amanoiwatoさん)

6月20日づけ記事「極論と極論」(黒的九月さん)

7月2日づけ記事「「恥の文化」?」(amanoiwatoさん)

7月3日づけ記事「類似構造」(けらさん、mashさん)

 一応、7月5日以前に戴いたコメントについては、上記で全て返信していると思います。抜けているものがあったらご連絡ください。

 続いて本日づけで7月中に戴いた全てのコメントに対する返信も完了させました。

6月30日づけ記事「誰でも「殺人犯」になりうる」(飛び入りの凡人さん)

7月6日づけ記事「ドキュメンタリー「光と影」」(amanoiwatoさん)

7月9日づけ記事「"命の価値の格差社会"」(amanoiwatoさん)

7月13日づけ記事「信濃町に行ってきた」(amanoiwatoさん)

7月17日づけ記事「無意識によってもたらされる子供じみた擁護論」(mashさん)

 8月以降に戴いたコメントについては、順次、返信してまいる所存です。
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2008年12月04日

感情屋インターナショナル

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000022-jij-int
>>> ひき逃げ帰国の日系人控訴=静岡の女子高生死亡事故−ブラジル
12月2日6時14分配信 時事通信

 【サンパウロ1日時事】静岡県浜松市で1999年に女子高校生の落合真弓さん=当時(16)=がひき逃げされ死亡した事故で、ブラジル逃亡後に日本政府の代理処罰(国外犯処罰)要請を受け、サンパウロ州地裁で交通(業務上)過失致死罪などにより禁固4年の判決を受けた日系ブラジル人ヒガキ・ミルトン・ノボル被告(33)側が1日、判決を不服として同州高裁に控訴申立書を提出した。
 一審判決は、被告が禁固刑に代わり「社会奉仕と罰金で済ます」ことが可能とした。しかし、弁護側は罰金約7万5000レアル(約300万円)は「現在の生活実態では被告が現実的に支払える額ではない」と主張。被害者にも歩道外を歩くなど不注意があったとして減刑を求めている。ヒガキ被告も取材に対し「家族の生活が懸かっている。(控訴以外に)どうしようもない」と語った。
<<<
 例によってコメント欄。ついに他の国の裁判にまで文句をつけるようになってきたようです。もっとも、このことは、6月30日づけ「誰でも「殺人犯」になりうる」において取り上げた、児童レイプに死刑の適用を認めるアメリカ・ルイジアナ州法に対するアメリカ連邦最高裁の違憲判決に対する日本の感情屋の皆様の反応からも見られるわけですが。
>>> こいつは禁固4年・罰金300万が不服で控訴したっ?!
なめてんのか!日本国民を、それも大事な大事な女子高生をひき逃げ殺人した上で、海外逃亡なんてありえねぇ!
しかも家族がどうのこうので、罰金が高いとか言ってる態度が絶対に許せない!
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 恐らくこのコメントを投稿された方や、賛同ポイントをつけた方は、「この控訴は被告が反省していない証拠だ!」と言いたいのでしょうが、単なる嫌がらせならまだしも、刑罰というものは実際に服務できなければ意味がありません。その点、本件被告人が1審判決で命じられた処罰が現実的に実行不可能というのならば、別の形で償うほか選択肢がないでしょう。というか、実行不可能な処罰吹っかけると、人間、逆に開き直るもんですよ、ヒトラーとか。

 また、そもそも控訴は被告人の権利であり、その権利を行使することは何ら問題ありません。その控訴内容が妥当かどうかについては、「調整者」たる裁判官が判断すべきことです。このコメントを書き込んだ人や、このコメントに対して賛同ポイントをつけた人は恐らく日本人であると思われますが、「被害者参加制度」と「裁判員制度」が同時並行して実行される来年春以降のことを考えると、「調整者」としての「裁判員」の資質に大変な懸念を感じざるを得ません。

 控訴の権利への理解不足、感情屋にとっての刑罰が単なる嫌がらせレベルであることが分かるコメントでした。

 次。
>>> 家族の生活がかかっている…

被害者はその「生活」すら、もう消えてなくなったわけですが。
<<<
 刑事裁判における「世論」として良く見られるものですが、これって意味が良く分からないんですよねえ。。。

 『週刊文春』チュチェ97年8月14日・21日合併号にて、以下のような記事が掲載されました。
97.12.4.JPG
(クリックで拡大)
 事件を起こした加害者本人がこうなるならまだしも、事件に対しては全く責任の無い加害者家族が何故こんな目にあわなくてはならないのでしょうか。「加害者の親」ならば「お前の育て方が悪いから自己責任」といって切り捨てられるかもしれませんが、上記記事は「加害者の弟」の場合であり、いよいよ何の責任も無いと言わざるを得ません。まさか「前世での行いが悪い自己責任」とか、どっかのカルトみたいなこと言わないでしょうね?

 また、8月6日づけ「「Ocean」設立1周年集会報告(1)」において、松本サリン事件で当初、犯人視されていた河野義行氏の奥様が「殺人者河野の妻」として、意識不明の状態であるにもかかわらず、あやうく施設をたらいまわしにされかけたことをご紹介しました。松本サリン事件というと、河野義行氏に対する冤罪事件(まあ、逮捕されなかったので正確には冤罪ではないのですが)として有名で、マスコミの河野氏犯人視報道については今も時折、批判の声が上がる事件です。そういう意味では、松本サリン事件は「語り継がれる」事件ではありますが、しかし、「"殺人者の家族"という理由だけで排除しようとした」という点については、全く「語り継がれていない」といわざるを得ません。前掲8月6日づけ記事においても書きましたが、河野義行氏の言葉を以下に再掲します。

「加害者の家族というのは、被害者と同じくらい辛い環境にあることを知ってほしい、加害者の家族というのは、本来すくい上げて行かなければならないものである」

 次のコメントを分析してみましょう。2つセットで参ります。
>>> 救助すらせず、罪も償うどころか海外逃亡した末に逮捕されたのに控訴…2審は逆転死刑判決が妥当 <<<
>>> 自分が殺した被害者に家族がいないと思っているの?
人一人殺して逃亡したくせに図々しい
被害者に落ち度があると思うなら何故国外逃亡したんだ
逃げないで日本で裁判すりゃいいだろ
日系とかブラジルとか関係ないよ
人間としての尊厳の問題だ
家族だってこんなやつは恥ずかしいと感じてんじゃないの?
全うな神経してたら
<<<
 特に後者のコメントでは明確に記述されていますが、感情屋の皆様におかれましては、刑罰には国籍は関係ない、つまり死刑制度というものは「普遍的且つ不変的なもの」であるそうです。しかしながら、死刑存置国である日本が、国連や諸外国から死刑執行停止・死刑制度廃止の勧告や要求をされると、特にこの方々こそが率先して「刑罰制度はその国の文化的背景から定められるべきである。その点、日本では犯罪者は自らの命を以って罪を償うという文化がある。ゆえに日本は死刑制度を放棄しない」という論理を以って死刑制度存置を正当化していませんでしたっけ?つまり、死刑制度を「普遍的且つ不変的なもの」ではなく、「地域的で可変的なもの」に「歪めている」のは、他でもなく死刑制度存置論者ということになると思うのですが。ちなみにブラジルは平時における死刑を廃止しています。「刑法は各国の文化的背景を基にして定められている」とするのならば、平時における死刑制度を廃止しているブラジル文化における「人間としての尊厳」はどうなるんでしょう。文化おしつけですかそうですか。

 いやはや、もう言っていることが矛盾していますな。

【補足】
 「感情屋の皆様におかれましては、刑罰には国籍は関係ない、つまり死刑制度というものは」の部分の論理的つながりが分かりにくいかもしないので、補足します。
 「家族」というものが人間の基礎的集団であることは言うまでもなく、家族のことを気にかけるのは人間心理として当然であります。しかし、先にあげたコメントは、被告人が自分の家族について言及することに対して「人一人殺して逃亡したくせに図々しい」として被告人が家族のことを気にかけることを否定している、つまり、人間としての基本的な部分を否定していると言えます。あのコメントを投稿した方が被告人が家族のことを気にかけることを否定する人間であるならば、被告人が家族のことを気にかけることのできないような刑罰を望んでいることは容易に類推でき、その点、被告人本人と家族が接触できず、かつ、人間としての基本的な部分を否定する刑罰といえば、死刑を望んでいるのではないのかと推測する次第です。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
posted by s19171107 at 21:50| Comment(3) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月03日

「競争」と「平等」と「個性」

http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2008/12/post-041a.html
>>> 平等なんてあり得ない。人それぞれ顔が違うように、個性もあるし能力の違いもある。個性や差別があるから芸術や文化が成り立つ。絵画や書道の展覧会に行けばそれは自明のことだ。運動会だけ一等賞、二等賞、三等賞をなくして、平等な社会になるなどと考えるのは、愚の骨頂だ。 <<<
 人にはそれぞれ個性もあるし能力の違いもあるからこそ、運動会での順位付けなんて意味が無いからやめましょう、というのがこの手の動きの主旨だったと思うんですがねえ。どちらかというと、この手の動きの主体("しゅたい"。"チュチェ"と読まないように!)は「平等尊重派」というよりも「個性尊重派」に属するはずです。

 また、「個性や差別があるから芸術や文化が成り立つ。絵画や書道の展覧会に行けばそれは自明のことだ。」と4様は仰っていますが、ならばなおさら順位付けなんてできないのでは?

 この手の話題は「競争」と「平等」と「個性」という、どれか一つを過度に尊重すると他の2つが成り立たなくなる問題を含んでいるために、本来的には結構深い話題であり、私としても、「個々人の自主性の尊重」と「社会集団の秩序を守るための集団主義」という、本来的には対立する場面も多い概念を同じ思想の中に同居させているチュチェ思想の研究とも通じるところが無いことも無いがために、時間的余裕と体力的余裕が出来た暁には是非、追究したいと思っているところなのですが、さすが4様、話題の表面を右斜め上に向かって滑走していますwwwwwwwwww
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