そもそも刑事裁判というのは、まず第一に被告席に座っている人物は本当に事件の実行犯なのかから始まり、なぜ被告人は事件を起こしたのか、どうやって犯罪準備をしたのかということを検証することによって、今後の社会構築の資料とし、その上で、被告人に更生の可能性があるのならば、社会の利益のために、その可能性を最大限に生かすための適切な処分を検討する場であります。(ちなみに、昨今は「更生の必要性」に対する理解が極めて浅い情勢でありますが、この点については、当ブログでは、「更生可能性」という視点を全く持たず、とにかくあらゆる「犯罪」に対して機械的に死刑を適用してきたカンボジアのポル・ポト体制の末路を反面教師として何度も解説してきましたたので、今回は詳しい解説は割愛します)
しかし、10月18日づけ「「共感」の名を借りた「一体化」がもたらすもの」でも書きましたが、どうも「被害者」というのは、大局的な広い視野を失い、短絡的で感情的な要求をする傾向にあるようです。もちろん、自分や自分の家族が事件の被害にあって酷い目にあっているのですから、そういうふうになるのは人間心理から見ても極めて自然であり、私としましては、被害者サイドが短絡的で感情的になるのは仕方ないと思いますが、やはり先にも書いたように、刑事裁判の基本的性格を逸脱すること、すなわち、社会的利益を確保するという社会的必要性を逸脱すること、もっと端的に言えば、単なる被害者サイドの復讐心を満たすだけの裁判運営は、決して許されません。
そのためには、今回の制度によって法廷に参入してくることとなる「被害者」については、決して法廷内では特別な存在として位置づけるのではなく、他の参加者と全く同じ立場で扱わなくてはなりません。具体的に言えば、たとえば被告人が開廷中に法廷にいるものとして不相応の言動を取った場合に退場処分されるように、被害者が法廷不相応の言動を取った場合(例)には退場させる、あるいは、被告人に有利な証言者の意見が、あくまで判決の参考資料として扱われているのと同様に、被害者側の意見陳述・求刑もあくまで判決の参考資料として扱われるといったようにすべきです。ちょうど、被害者参加制度推進派が、「加害者が事件の当事者ならば被害者も事件の当事者」という言説を以って自己の要求を主張してきたのですから、お望みどおり、被告人側と同じ立場で参加させてあげましょう。
しかし、いくら法廷内における被害者の立場を、他の参加者と全く同じ立場として位置づけても、裁く側も人間である以上、被害者側の感情に訴える戦術に引っかかり、結果として、必要以上の重罰に偏る可能性が否定できません。今回始まった被害者参加制度については色々な懸念や課題がありますが、私としましては、必要以上の重罰に偏る危険性が増した本制度下においては、裁判官の、「冷静で広い視野を持つ調整者」としての重要性が一層増したといえると思います。
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