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2009年01月26日

「被害者」万能の恐怖

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090126-00000005-yom-soci
>>> 被害者遺族に警官威圧「検事と刑事の違いもわからないのか」
1月26日1時28分配信 読売新聞


 山梨県北杜市須玉町大蔵のアパートで2008年12月、近くの飯田教典さん(61)が死亡した事件について、飯田さんの長女が北杜署に問い合わせた際、署員から威圧的な対応をされたとして、遺族が山梨県警に抗議していたことが分かった。

 県警監察課は25日、遺族感情を傷つけたとして遺族に謝罪した。

 県警によると、長女は、08年12月に始まった被害者参加制度を利用して、公判へ参加したい意向を示しており、事件の容疑者が殺人罪でなく傷害致死罪で起訴された理由などについて問い合わせるため、17日に同署を訪れた。その際に対応した署員が「検事と刑事の違いもわからないのか」などと威圧的に発言し、長女はショックを受けたという。

 泣きながら帰ってきた長女から事情を聞いた長男が18日、「もう少し優しく対応できないのか」などとメールで県警に苦情を申し立てた。これを受け、県警監察課は事実関係を確認し、長女と長男に謝罪したという。

 北杜署の古屋正人次長は、「遺族がショックを受けているのなら、申し訳ない。誤解のないよう遺族感情に配慮していきたい」と話している。

最終更新:1月26日1時28分
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http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200901250255.html
>>> 警官、被害者遺族ののしる 山梨県警が抗議受け謝罪 '09/1/25

 昨年十二月、山梨県北杜市の飯田教典いいだ・のりすけさん=当時(61)=が暴行され死亡、男女五人が傷害致死罪で起訴された事件をめぐり、傷害致死罪の適用に納得のいかない飯田さんの長女(31)が北杜署に事件の説明を求めた際、署員から「何が納得できないんだ」などとののしられていたことが二十五日、分かった。

 長女は昨年十二月に始まった「被害者参加制度」を利用して刑事裁判に出廷し意見陳述する意向を持っており、公判前に事件の説明を受けようとした。長女の兄(34)が県警に抗議。県警は発言の事実を認め、遺族に謝罪した。

 長女によると、今月十七日に北杜署を訪れ、刑事課の署員に「殺人罪が適用されないことは納得できない」と伝えると、署員は「何が納得できないんだ。殺意がないから殺人じゃない。警察は検事の言う通りに動いているんだ」と強い口調でののしった。

 また署員は「刑事と検事の違いが分かっているのか」と尋ね、長女が「分からない」と答えると「話にならない」と威圧的に話したという。

 兄は「被害者なのにこんな対応をされるとは思っておらず、警察に裏切られた気分だ」と話した。北杜署の古屋正人ふるや・まさひと次長は「言葉遣いなどに配慮が足りなかったかもしれない。反省している」としている。

 飯田さんは昨年十二月、知り合いの男女五人から暴行を受け死亡。甲府地検は傷害致死罪で五人を起訴した。
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http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/01/26/3.html
>>> 2009年01月26日(月)
「遺族侮辱」で県警謝罪 北杜・集団暴行死
事実関係調査へ聞き取り

 北杜市須玉町の集合住宅で集団暴行され死亡した男性の遺族が、北杜署員からののしられたとして県警に抗議した問題で、県警は25日、事件で亡くなった飯田教典さん=当時(61)=の長女(31)に「嫌な思いをさせて申し訳ない」と謝罪し、再発防止に取り組む考えを示した。また、遺族を侮辱する発言があったとされる当日の状況について聞き取りを行った。一方、北杜署の古屋正人次長は「謝罪は県警本部の判断で行ったこと。ショックを与えるような発言はなかったと思う」と話していて、対応に食い違いを見せている。
 遺族の話や県警関係者によると、25日は県警本部の監察官と監察課の職員が県内の長女の自宅を訪問。2人は「今回のことは大変申し訳ない。傷つけてしまったことは取り返しがつかないが、再発防止のため全職員への指導を徹底する」と頭を下げた。
 発言した署員については「本人も不快感を与えたならば直接謝罪したいと話している。希望があれば、本人からも謝罪させる」などと説明。18日に抗議してから23日まで遺族への対応がなかったことについて「調査に時間がかかってしまった」とした。
 同課は発言の有無を含め、事実関係を調べていて、この日の訪問では署員の対応について長女から聞き取りを行ったほか、事件に至るまでの経緯の一部を説明した。長女は「発言の事実を認めた上での謝罪ではなく、引き続き誠実な対応を期待したい」と話している。
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 まず本件を「まとめて」みたいと思います。私としましては、本件は、31にもなって検察管轄事務と警察管轄事務の区別、起訴独占主義(「専門用語だ!」という批判もあるかもしれませんが、高校公民科の資料集にはちゃんと載っています)も知らないような非常識な人間が、本来は検察に対して要求すべきもの(「事件の容疑者が殺人罪でなく傷害致死罪で起訴された理由」の説明:読売配信記事)を警察に対して要求したため、当然、相手にされなかったが、しつこくお門違いの要求をした結果、ついに警官が語気を強くした(「刑事と検事の違いが分かっているのか」:中国新聞配信記事)ところ、今度は兄が出てきて「被害者に対してその口の聞き方はなんだ!」と世のクレーマーも真っ青な逆ギレをした事案であることを明らかにしておかなくてはならないと思います。

 このような視点から本件を見ると、本件から重大且つ深刻な問題が見えて来ます。すなわち、「被害者」という肩書きが、自分が「無知」であることを棚に上げて真っ当な批判を押しつぶし、更に全く失当な言説を押し通すための武器として利用され、そして、このような殆どクレーマーのような人物の圧力に負けて警察がホイホイ謝罪してしまった、つまり、「被害者」という肩書きを利用したメチャクチャな要求が通用するという前例を作ってしまったということです。

 「被害者」という肩書きさえあれば、たとえ「無知」であっても逆にそれが「力」となる「被害者」万能の世界。このような情勢が、昨今の日本社会に蔓延している「少しでも被害者の言い分に疑問を挟んだり、加害者の言い分に理解を示したら、そいつは犯罪者の味方/死刑廃止論者」というメチャクチャなレッテル貼りの風潮と重なれば、いよいよ誰も被害者に意見できなるでしょう。

 本件は、いよいよ恐ろしい時代が始まったことを示す決して見逃せない一件であると言えると思います。果たしてどれ程の人が「遺族感情を傷つけた」「犯罪者の味方」と罵声を浴びせられてもなお、冷静な視点を貫きとおせるでしょうか。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
posted by s19171107 at 22:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月20日

「仕事を選り好む」必要性

 情報ソースに対するツッコミはご勘弁を。
http://www.j-cast.com/tv/2009/01/20033882.html
>>> 怒るみの「なんでまず仕事しないのか」 「仕事ミスマッチ」応募サッパリ
2009/1/20

<テレビウォッチ>番組伝える産経新聞によれば、派遣斬りなどの救済のために公的機関などが用意した職場に、応募がサッパリ。希望する職場と求人がミスマッチなのだという。その記事をめぐって、「めずらしくスタジオがバトル」(弁護士・道あゆみ)状態に発展した。

「働かないと食えませんよ」と司会のみのもんたが気色ばむと、これもめずらしく顔を紅潮させた与良正男・毎日新聞論説委員。「これを『甘い』の一言で片付けると、今の問題は解決しませんよ」「基本的には自分がやりたい仕事を見つけられるのが理想ですから。それを目指さないといけないんですよ」と力説する。

「そんな理想、通るわけないじゃないですか」「どんな職業だって(憲法にあるように)明るく、健康的にできますよ」。口を尖らせてみのは反論。「ボクなんか、なんでまず仕事しないのと思います」

そこで与良曰く、「たとえば、人付き合いが苦手だから、組み立ての仕事が自分に向いてると思ってやってた人に、すぐサービス業の仕事しなさいっても、なかなかうまくいかないだろうな、と。それを『甘えるな』で解決するんじゃなく(略)、(派遣などで人を)安易に扱ってきたことを、社会全体として変えていかないといけない」

「与良さんのご意見なんでしょうが……」とみの。ここでコメンテイターの「ご意見」を持ち上げるのが通例だが、今日は相当不満な様子であった。
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 「派遣村」に象徴される昨今の非正規雇用労働者をめぐる議論では、解雇された労働者の再就職がなかなか決まらないことについて、「仕事を選り好むからだ」という批判が、「派遣村」が閉村してから今日までの2週間余りの間、盛んに見られ、その陣頭には常に、みのもんたこと御法川法男氏がいらっしゃいました。所謂「世論」の多くは、御法川氏の言説の焼き直しあるいは変形であるように感じます(つまり御法川氏は典型例)。一方で、与良編集委員の言説は、御法川氏が代表格であるこの手の批判的言説に対する批判としてこれもまた典型的なものでした。つまり、本記事において報じられている議論は、最近解雇された非正規雇用労働者の再雇用問題についての典型的議論が公共電波で報じられたものであるといえます。本日は、この記事を軸に、昨今の議論の典型例である「仕事を選り好む」ことについて考えて見たいと思います。

 以前から当ブログでは、「チュチェ思想の世界観・人間観」をヒントに色々な問題について「人間の本質」という視点から考えてまいりました。すなわち、チュチェ思想においては、人間は本質的に自主性と意識性、創造性の3属性をもった社会的存在であると定義されており、自主性を持つがゆえに人間は、自然の束縛と社会のすべての従属に反対する活動をするものであると指摘しています。事実、人間は歴史上、自己の自主性を侵害された状態での労働、所謂「強制労働」においては極めて低い生産性を見せる一方で、自身の自主性を保障された上での労働における生産性は前者の比較にならぬほど高いものであります。たとえば、旧共産圏のコルホーズ体制などはその典型例でないでしょうか。すなわち、コルホーズ体制下、全てが政府の指示のままに労働することが強制されていた[集団農地」における農業生産性は低い一方で、農民自主管理の下に耕作されていた「自留地」における農生産は高く、旧共産圏諸国の経済は自留地における農生産でなんとかやってきていたようなものです。

 このような視点で考えると、私としましては、このような批判的言説は、余り生産的とはいえないと思います。「探しながら働く」という選択肢ならば、まあギリギリ許容範囲かとも思いますが、求職と労働の同時並行は難しいので、何らかの形で社会的な支援が必要となるでしょう。言うまでも無く、社会は個々人が構成しています。それゆえ、個々人の生産性の停滞は社会全体の生産性の停滞であることを意味します。この問題は、個々人の自主性を保障することは、回りまわって社会全体の発展に寄与する「情けは人のためならず」の発想が求められるものであると思います。

 ちなみに、「未経験職種でもガタガタ言わずに働け」については、やめておいたほうが良いでしょう。未経験者に無理矢理やらせるくらいなら、ちょっと手間と時間はかかっても、関心のある人や経験のある人を探し出してきたほうがはるかに良いですし、未経験者を押し付けられるほうの身にもなってくださいw


 しかし、このように書くと、「それは理想論だ」というご批判を頂くものと予測します。現に、御法川氏も「そんな理想、通るわけないじゃないですか」と仰っていますし。確かに、先ほどから「人間の本質」という視点から延々と「仕事を選り好む」必要性について論じている私としましても、100%完全に理想に合致する仕事など存在するはずも無く、もしあったとしてもそれは宝くじに当選するよりも確率の低い幸運であるということは重々承知しています。しかし、現実を広く見据えれば、皆、なんだかんだで労働で自己実現を果たしており、まったく理想論であるとは言い切れないのではないか、つまり、探せばある程度理想に近い職業というものはあるのではないでしょうか。

 確かに「理想を追っかけるために求職を1年やっています」というのならば話は別ですが、昨今解雇された非正規雇用労働者は、まだ解雇されてから1ヶ月たつか経たないかといったところです。以前から書いてきているように、人間は、その本質として自主性を追い求める存在であり、自主性が保障された社会に生きてはじめて当人の能力が全面的に開花するものであり、それが回りまわって社会全体の発展に寄与するのです。その点、私としましては、数ヶ月程度の求職ならば、これは認めても良いのでは無いかと考えます。

 ところで、本記事においては触れられていませんが、一部「世論」を見ていると、最近解雇された非正規雇用労働者が、今一度、非正規労働に就くことについて躊躇しているということに対しても批判的言説が見られるように思います。これについては、「人間の本質」などというものを持ち出す以前に、そんなもん紹介しちゃだめですよwまたすぐに解雇されて舞い戻ってくるのは目に見えています。幾ら求職期間短縮・早期就労のためとはいえ、そんな近視眼的対処をするくらいならば、もうすこし時間をかけてマトモな仕事を探したほうが長期的に見ればはるかに経済的であります。


 最後に一つ。上記記事中の与良編集委員の「(派遣などで人を)安易に扱ってきたことを、社会全体として変えていかないといけない」というのはなかなか深い指摘ですね。人間には社会が必要なことは論を待ちませんが、しかし、実際に既成の社会の枠組みの中で生きるための技術というものは、生得的なものではなくて後天的なもの、すなわち、教育の賜物。

 「非正規労働者自己責任」論が昨今流行なのは何度も取り上げてきている通りですが、そもそも一個人が既成の社会の枠組み中で生きられるようにする教育体制の整備を放棄してきたのは誰だったのか。その点に対する自己批判が昨今の議論からはスッポリと抜け落ちている感が否めません。

 自己の持つ、後継者に対する教育義務を放棄し、ただひたすらに当人の「自己責任」のみを強調する昨今の「自己責任論」を見ていると、私としましては、「自己責任」論の本質は、「自己は無責任」論であると言わざるを得ないと思います。確かに「自己責任」が口癖の御法川氏は、自己が「主権者」、すなわち「日本国の主人」であることを棚にあげて、「主人たる国民に仕える使用人」である公務員が何か失敗するたびに、自己の監督責任について言及せずに、ひたすら公務員叩きに走りましたっけ。「自己は無責任」論者の典型例ですね。
posted by s19171107 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

「政治利用」

やっと産経が「本腰」を入れたようでww
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090118-00000535-san-soci
>>> 「派遣村」にいたのは誰だったのか?
1月18日18時32分配信 産経新聞

 年末年始にかけて東京・日比谷公園に突然姿を現した「年越し派遣村」。集まった約500人は、一部の新聞やテレビで「企業による派遣切りで職と住まいを失った人ばかり」などと紹介されたが、その“実態”は年が明けるに連れて次第に明らかになってきた。“村民”とは誰だったのか。そして、“村”の運営にはどのような人たちがあたったのか。そこには、ある特定のイデオロギーを持った政治色が潜んでいたことがわかる。

 ■まじめに働こうとしていた人は…

 「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」。総務省の坂本哲志政務官からそんな発言が出たのは仕事始めの1月5日だった。

 坂本政務官はその後、謝罪し発言を撤回しているが、「人の心を傷つけた発言は、撤回して済むものではない」(鳩山由起夫・民主党幹事長)などと反発が出る一方で、インターネット上などでは「理解できる」「本質を突いた発言だ」という擁護論も出た。

 実際、村に集まった人たちはどのような人たちだったのか。派遣村実行委員会が、村民354人から聞き取った集計によると、年齢層は30代が25%、40代が30%、50代以上が35%。性別では96%が男性だった。ただ、景況悪化を理由に解雇された派遣従業員は日雇いも含め、全体の40%にあたる130人だけ。33人(9%)は従来からの路上生活者だった。

 また、厚労省の調査によると、滞在村民が約300人だった1月5〜7の3日間で、臨時に設けられたハローワークに相談に来た人は約200人(66%)。具体的な就職相談まで話が進んだ人は約120人(40%)だったという。

 極めておおざっぱに解釈すれば、4割程度の村民は景況悪化後、実際に契約を打ち切られ、6〜4割程度の村民には就労意志が読み取れるが、逆に言えば、就労意志のない人、村で出される食事だけを目当てに村民登録した人もかなりいたことになる。その点は実行委員会も認めている。

 むろん、路上生活者であっても、寒空の下にほおっておいて良いという理屈にはならないが、それ以前まで派遣先でまじめに働いていた人と、そうではない人が一緒くたに報じられていた感は否めない。

 坂本哲志政務官の発言をめぐっても、反発する側、賛同する側の双方に一定の根拠はあったといえそうだ。

 ■潜むイデオロギーと政治色

 派遣村は12月31日に開設されたが、日にちが経つにつれ、政治、イデオロギー的なものが色濃く出るようになっていった。

 立ち上げ当初から、目立ったのが“野党色”だ。民主党は菅直人代表代行、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂党首らの姿も村で何回も見られた。国民新党、新党大地の姿もあった。1月4日には、村民たちを前に新党大地の鈴木宗男代表が「非正規労働者の雇用と住居の確保を求める国会決議」を提案。その場で他の野党が賛同するなど、村は野党共闘の舞台ともなった。

 村が5日に、日比谷公園から、都内4カ所に用意された施設に移動した時には、イデオロギー色がより鮮明にでる場面があった。実行委員会が企画した、村民らの日比谷公園から国会までのデモの場面だ。

 デモ隊の先陣は共産党とのパイプが太い「全労連」「自治労連」の街宣車。車の屋根には「憲法を守ろう」のスローガンが大きく書かれている。

 霞が関周辺でよく聞く甲高い声の女性がマイクを握り「消費税値上げ反対」「総選挙で政治を変えよう」「大企業の金儲けは許さないぞ」と、シュプレヒコールの音頭をとっていた。デモ隊の周囲には、交通整理の警察官と、公安刑事らの姿があった。

 1月15日には、派遣村実行委員会らが主催した集会が開かれた。タイトルは「やっぱり必要! 派遣法抜本改正〜派遣村からの大逆襲〜」。場所は千代田区の日本教育会館。日教組の本部が入る建物だ。約400人が集まった集会の最後は、派遣法改正に向けた「ガンバロー」の大コールで盛り上がった。

 彼らの“支援”があったからこそ、派遣切り問題が大きくクローズアップされたことは間違いないが、弱者を政治的に利用していたという側面はなかったのだろうか。

 ■派遣村の「村長」

 実行委によると、当初派遣村の開設目的は2つあった。「年末年始の生活救済」と「貧困を可視化することで世間に問題提起する」ことだった。そのため、会場には厚労省前の日比谷公園が意図的に選ばれたのだという。

 村の「村長」に就任したのは、NPO法人「自立生活サポートセンターもやい」の湯浅誠・事務局長。

 昭和44年生まれの湯浅さんは東京大学法学部で日本政治思想史を専攻。大学院まで進学した経歴を持ち、「大学院1年生の時、野宿者向けに友人がやっている炊き出しを見に行ったのが貧困問題とかかわるきっかけになった」と話す。

 平成13年に「もやい」を立ち上げ、困窮者の生活支援や生活保護申請の支援をしており、講演料や著書による印税が収入という。昨年、『反貧困−「すべり台社会」からの脱出』(岩波新書)では大佛次郎論壇賞を受賞している。

 派遣村の構想自体は、12月上旬に労働問題を専門にする労働弁護団から提唱されたようだ。労働組合のナショナルセンターである連合、全労連、全労協も足並みをそろえて支援メンバーに加わった。他に、非正規労働者の支援活動で実績のある「派遣ユニオン」「首都圏青年ユニオン」「反貧困ネットワーク」など15団体ほどが実行委員会に加わった。

 駆けつけたボランティアは実数で1674人。トイレ掃除、炊き出し、食料買い出し、清掃などを一部の村民も混じって行ない、村を支えた。

 「自分は発案者ではなかった。でも、組合系は炊き出しなどをやったことがない。現場経験がある自分が村長の役回りになった」と話す湯浅さん。運営関係者によれば、「さまざまな労働団体とつきあいがあるため、村長という御輿に担ぎ上げられたのではないか」という。

 多くの野宿者らと接してきた経験を持つ湯浅さんは「いったん雇用を失うと、すべり台を落ちるように再貧困にまで転落するのが日本の社会」「日本では自己責任論が幅をきかせすぎている。がんばりすぎる前に、支援事業にアクセスすべきだ」と主張している。

 ■厚労省開放

 運動の1つの山が、2日夜に厚生労働省の講堂が宿泊場所として開放された時だ。実行委員会の用意したテントの宿泊能力は150人分。村には300近い人が集まっていた。

 決断したのは厚労省の大村秀章副大臣(自民)。湯浅事務局長とは労働問題をテーマにしたNHKの番組で名刺交換していた。2日昼過ぎ、湯浅事務局長から入った「テントに入りきらず病人も出ている。受け入れ施設を用意してほしい」という電話に、「直感的にヤバイと思った。あの現場をみたら助けないわけにはいかないだろう」と振り返る。

 開放できる施設がないか、千代田区長にも電話を入れるが断られ、厚労省幹部も危機感を抱いていた。村を訪れた野党政治家らも河村建夫官房長官や舛添要一厚労省に電話を入れ支援を求めたため、午後5時過ぎ、「講堂に暖房を入れろ!」と大村副大臣が指示。9時過ぎには260人の村民が講堂に入った。

 ある厚労省幹部は「目の前の日比谷公園で、失業者が凍え死んだとなれば批判を浴びるどころか、内閣が吹っ飛んだかもしれない」と振り返る。

 実行委側が、会場にあえて日比谷公園を選んだ作戦が成功したわけだ。

 ■厳しい世間の反応

 だが、派遣村の村民たちに対する世間の目は、同情や理解ばかりではなかった。政党やイデオロギー色が強くなるにつれて、反発や厳しい意見が目立つようになってきた。

 産経新聞のネットニュースMSN産経ニュースで、10日から派遣村に関する意見を募集したところ、9割方が村民に対して厳しい意見を寄せた。

 「貯金はしていなかったのか」「職の紹介を受けているのに、選り好みしている場合か」「ゴネ得ではないか」…。「最初は同情していたけど、だんだんできなくなった」という声もあった。

 坂本政務官の発言に理解を寄せる声も多く届いた。これについては12日の東京新聞で、同紙の投書欄担当者が「非難が相次ぐ一方で、一定の支持が集まった」と書いている。各新聞社とも、似たような読者反響を得たのだろう。

 その後、村民らは東京都が用意した都内4カ所の施設を出て、その後は実行委員会が用意した都内2カ所の旅館を拠点にしながら、生活の再建準備を進めている。宿泊費などは全国から集まった約4300万円のカンパや、すでに生活保護支給が決まった人はそこから拠出されている。

 都の施設を出た12日の時点で、村民は約170人。日比谷公園を出たときには約300人いたため、130人が巣立っていったことになる。この300人のうち、生活保護の受給が決まった人はこれまでに290人。申請者のほぼ全員に、しかも短期間に生活保護が認められるのは異例なことだ。実行委員会では「やる気になれば、今の法律の枠内で、生活再建の足がかりを得られることが分かったことは大きな成果」と意義を強調。

 民主党の菅代表代行も「後世から見れば、派遣村が日本の雇用、労働問題の転機になったと言われることは間違いない」と話すが、全国にはなかなか生活保護が認められない人や、特に地方で派遣切りにあった人の中には、日比谷公園までやって来れなかった人もたくさんいる。生活保護は、私たちの税金から拠出されているのである。

 実行委では今後、全国各地に派遣村をつくり、放り出された人たちを支援していきたい考えだ。すでに、ノウハウの提供などを求める声が寄せられているという。

 だが、厳しい意見もあることを意識してか、15日の集会では名誉村長の宇都宮健児弁護士が、こんな言葉を漏らしている。「活動が広がるか。それは1人1人の村民のこれからにかかっている」。
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 ちょうど今、一連の「派遣村」関係の記事編集に一区切りつけるために、「派遣村」に対するネット上に見られる批判的言説を総括する記事を準備しているんですが、批判する予定の言説が結構揃っていてワラタwつまり産経は「ネット世論」レベルのことを記事にしているわけですよ。

 さてさて、見所は数多ありますが、一番の見所は以下でしょうな。
>>>  ■潜むイデオロギーと政治色

 派遣村は12月31日に開設されたが、日にちが経つにつれ、政治、イデオロギー的なものが色濃く出るようになっていった。

 立ち上げ当初から、目立ったのが“野党色”だ。民主党は菅直人代表代行、共産党の志位和夫委員長、社民党の福島瑞穂党首らの姿も村で何回も見られた。国民新党、新党大地の姿もあった。1月4日には、村民たちを前に新党大地の鈴木宗男代表が「非正規労働者の雇用と住居の確保を求める国会決議」を提案。その場で他の野党が賛同するなど、村は野党共闘の舞台ともなった。

 村が5日に、日比谷公園から、都内4カ所に用意された施設に移動した時には、イデオロギー色がより鮮明にでる場面があった。実行委員会が企画した、村民らの日比谷公園から国会までのデモの場面だ。

 デモ隊の先陣は共産党とのパイプが太い「全労連」「自治労連」の街宣車。車の屋根には「憲法を守ろう」のスローガンが大きく書かれている。

 霞が関周辺でよく聞く甲高い声の女性がマイクを握り「消費税値上げ反対」「総選挙で政治を変えよう」「大企業の金儲けは許さないぞ」と、シュプレヒコールの音頭をとっていた。デモ隊の周囲には、交通整理の警察官と、公安刑事らの姿があった。

 1月15日には、派遣村実行委員会らが主催した集会が開かれた。タイトルは「やっぱり必要! 派遣法抜本改正〜派遣村からの大逆襲〜」。場所は千代田区の日本教育会館。日教組の本部が入る建物だ。約400人が集まった集会の最後は、派遣法改正に向けた「ガンバロー」の大コールで盛り上がった。

 彼らの“支援”があったからこそ、派遣切り問題が大きくクローズアップされたことは間違いないが、弱者を政治的に利用していたという側面はなかったのだろうか。
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 おいおい、1月17日づけ「「派遣村の背後に共産党がいる」について」でも書きましたが、全労連=共産党に主導権を握られたことを恥じなさいよwwwwwwwwww

 それはさておき、批判的「世論」を集めるたびに思っているんですが、「弱者を政治的に利用」ということは果たして問題なのでしょうかね?だって政治団体って、現実に社会に存在する問題を自分達が掲げている政策を通して解決することを目的としているのでは?もちろん、チュチェ97(2008)年8月6日づけ「河野澄子さんを政治利用する死刑推進派」において取り上げたような事例、すなわち、当事者が言っていないことを「代弁」することは「政治利用」として批判されて当然です。しかし、「派遣村」に関しては、前述の事例とは異なるように思われます。

 私としましては、「問題ある政治利用」と「問題の無い政治利用」の2つを峻別する必要があるのではないかと思います。すなわち、前者は当事者を盾にして当事者の主張していない主張をこじ付ける「政治利用」、後者は当事者の要求に沿った形で運動を展開する「政治利用」です。

 ところで、「大事なところ」の数値データがネット投票をもとにしているのは編集的にどうなんでしょう。これだけ「ネット世論」を軸にブログ記事編集している私でさえ、「ネット世論」なんて正確に現実を反映しているわけではないことは重々承知の上であえてやっている(この辺の詳しい経緯はどっかの記事のコメント欄でご質問があったので詳しく書いておいたんですが、どの記事だったか忘れてしまいましたw)んですが、なんか産経は「ネット世論」と現実の世論をマジで接続しているような気がしてなりません。まあ今年も産経に「期待」しましょうww
posted by s19171107 at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月18日

「人情」では対抗できない

 当ブログにもときどきコメントを下さる放蕩息子さんのブログ「土曜の夜、牛と吼える。青瓢箪。」の1月9日づけ「個人的にはこういうことをいえる人はすごいと思う。」について。記事の内容は、「派遣村」の「村民」がタバコをふかしていた件について文句を垂れるアレな人を批判するもので、放蕩息子さんは「弱者に寄り添おうと思っていたらこんなコメントはできないだろう」とか「おい、日本の伝統はどこにいったんだよ?人情なんて言葉はどこかに消えたのかね?」と仰っています。

 私としても全く同感なのですが、残念ながら、「弱者」云々や「人情」云々では「彼ら」に対抗できません。といいますのも、当方は以前より長いこと「彼ら」の言説を取り上げ、分析してきましたが、その経験から、「彼ら」の物事の判断基準は全て「自分」であることがわかって来ました。以前にも書きましたが、判断基準がそもそもズレている人が相手では「人情」のような、個々人の価値観を基にする言説では対抗できません。また、以前ならば「視界が狭い」とか「若いなあ」といえば大体の人は自己の見解の甘さを認識し、暫くは大人しくしているものでしたが、昨今は、自分自身の見識の浅さを恥じるどころか、むしろ開き直る恥知らずすら出てくる始末であるため、一層、従前の「人情」に訴えるタイプの反論は通用しなくなりつつあります。

 では、このような言説に対してはどのように対抗すればよいのでしょうか。私としましては、チュチェ97(2008)年1月20日づけ「実利優先主義的理論のすすめ」においても書きましたが、個々人の価値観を基にする言説ではなく、徹底的に実利主義、あるいは当ブログでしばしば使う「人間の本質」といったような、議論の余地が少ない分野から攻めることが必要であると考えます。以下、この視点から「派遣村」の「村民」のタバコ所持について考えみようと思います。


 人間は、生存のための「苦行」(「嫌なこと」)をする必要がありますが、同時に休養・気分転換といった「楽しいこと」をする必要もあります。どうも「世論」を見ていると、「楽しいことは嫌なことの対価」として捉えている人がいるようですが、「人間の本質」から考えるに、「楽しいこと」と「嫌なこと」は並立する存在であると同時に、「嫌なこと」を克服するためのモチベーションを向上させるものです。

 その点、タバコというものは、気分転換を通して「嫌なこと」を乗り越えるモチベーションを上げることのできる安価且つ手頃な手段であります。昨今の「派遣村」すなわち「公園テント暮らし」は、「村民」たちにとっては十分「嫌なこと」に値すると思われます。いままさに「嫌なこと」をしている彼らに対して、タバコ程度すらも禁ずることは、長期的な視点で見た場合、この状況を乗り越える効率の低下に繋がります。また、「楽しいこと」を他人が強引に規制すれば当然、当人には強い不満がたまり、場合によっては、その不満が変な方向に発散されてしまいかねません。

 ゆえに私としましては、タバコ程度の「楽しいこと」を禁止することは、効率面・そして社会安全面から見ても問題のある行動であると考えます。

 あるいは中には、「オレはタバコも吸わずにどん底から這い上がった!」と不幸自慢する方もいらっしゃるかもしれません。ご苦労様です。やせ我慢せず、タバコくらい吹かしながらやっていれば効率性も上がり、もう少し早く「這い上がれた」かもしれないのにね。

 上記では、「人情」といったような個々人の価値観を基にする言説は一切使わず、徹底的に「人間の本質」から考えました。先にも書きましたが、「人間の本質」というのは、「本質」だけあって意識的に変更することは相当困難、普通の人にとってはほぼ不可能です。こういう、個人個人の試みでは左右させることが不可能なものを取り上げれば、さすがの「自己責任論者」も反論はしがたいのではないのでしょうか。もしそれでも反論してきたら、そういう人はどっかのぁゃιぃ教団の関係者なので放っておくのが宜しいかと思います。

posted by s19171107 at 19:56| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月17日

「派遣村の背後に共産党がいる」について

 田中康夫氏の「派遣村の背後に共産党がいる」という発言が、昨今の「派遣村」批判の文脈の中でよく見られます。私としましては、昨今の「派遣村」に象徴される非正規雇用労働者の雇用情勢を以前から繰り返し取り上げてきた同党が、この問題の「背後」にいても何の不思議も感じないのですが、それはさておき、「派遣村の背後に共産党がいる」と主張している方々には、ひとつ猛省をしていただかなくてはならないと思います。

 戦後の左派陣営の動静を見れば分かるとおり、共産党は、組織的敏捷性が緩慢な割には、ある政治的潮流において自党が主導権ないしは中核的位置づけを得られないと、とたんにスネて、場合によってはその運動に対して妨害まがいのことをする、ちょっと困った政党です。その党が昨今の「派遣村」の「背後」にいるということはすなわち、あの共産党に「先を越された」ということであり、それは自身の社会情勢に対する感覚が極めて鈍っている紛れも無い証拠であります。ゆえに私としましては、「派遣村の背後に共産党がいる」などとあちこちで触れ回ることは、同時に「私はボンクラです」といっていることと等しく、まともな感覚であればノコノコと言っていられない猛省モノだと思うのですが、いかがでしょうか。

 もっとも、田中康夫氏があの発言をしてから随分たった今日になってノコノコとこんな記事を書いている私が一番猛省モノなんですけどねwwwwwwwすまんせんwwwwwwwwww
posted by s19171107 at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

「派遣村」に対する根源的誤解

 「派遣村」関係の「世論」、特に批判的なものについては大体出尽くした感があり、また、何となくパターン化しつつあります。それらについては随所にて反論が進んでいますし、また当ブログでも、反論とまでは行かないまでも幾つか指摘してきたとおりですが、ここにきて、「派遣村」の「村民」に昨今の情勢で放り出されたのとは関係ない、いうならば「もともとホームレス」が混じっているらしい件について、「正体がバレた」などのような批判が見られるようになってきました。

 しかしながら、「派遣村」の実行委員会は、昨年12月31日の「開村」の時点で以下のように宣言しています。
http://hakenmura.alt-server.org/article.php/20081231111417594
>>>  つづけて湯浅誠村長からの挨拶です。「派遣切りされたと言われた8万5千人は氷山の一角。既に建設業・サービス業にも余波は及び始めている。路上支援が定着している池袋や渋谷でも炊き出しに例年の1.5倍の人がやってきている。私たちも今回はじめてこの地で支援を行うが、もともとこの周辺に野宿しているなかまも、東京駅周辺のなかまも、もちろん区別なくみなさんを受け入れる。不況になったとたんに職を奪い住を奪う、こんなのは刑事犯罪ではないか! 工場のある地域では派遣労働者が住まいを追い出されて空き家だらけなのに路上生活者が増えるというこんな世の中はおかしい! ということを、怒りを共有しながら来年以降訴えていこう。」 <<<
 上記のように、「もともとホームレス」も受け入れることを言明しています。ゆえに、「正体がバレた」のではなく、「いえ、最初からそういっているんですが」といったところでしょうか。
posted by s19171107 at 00:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

「調整者」という視点の欠如と、それによってもたらされるもの

 社会保障関係の世論を集めていると、権利行使による受益について受益者が批判されるケースが少なくありません。たとえば昨今の「派遣村」関係では、多くの人が生活保護を申請し、実際に保護が認められたわけですが、なぜか受給者に対して批判が集中しています。しかし私としましては、これら受給者に対する批判は全く見当違いであると言わざるを得ず、また、このような批判は社会全体に対して重大な悪影響を及ぼすものと考えます。

 現行法では、各人は、自分が保護を受ける必要があると思った場合において生活保護を請求する権利を行使することが認められています。たしかに全国広く見渡すと、生活保護受給者の中には本来的な趣旨とは外れる者、すなわち、過剰な保護を受けている者ががいることはしばしば報じられるとおりですが、先にも書いたとおり、生活保護の請求は国民の権利であるので、私としましては、たとえ過剰受給であったとしても、その責任は受給者にはないと考えます。もし誰かの責任を追及するのならば、それは各人の請求の可否を判断する「調整者」にあります。簡単に言えば、過剰な権利請求があったとしても、それは認めなければ良く、現実に過剰な請求が認められていたのならば、それは認めた人物に責任があるのです。請求されて困る権利なんか最初から認めるな。

 同様に考えると、長期的な権利請求が認められた場合に良く見られる、所謂「ごね得」という半ば中傷に近い批判的言説の失当性も見えてくるものと思われます。すなわち、請求者にとってはその主張は継続的に請求し続ける価値のあるほど必要性の高い案件であります。そして、その請求が認められたということは、「調整者」がその請求の必要性を理解し、請求に応じることを決定したことを意味しています。逆に言えば、どうみても必要ない請求ならば拒否することもできたわけです。その点、批判するならば、必要あって請求していた「請求者」(=「受益者」)に対してではなく、その請求の可否を決定する権限を一手に握っている「調整者」に対してすべきです。

 このように考えると、昨今の社会保障制度に対する批判の多くは、「調整者」という視点を失っているがために、その批判がおかしな方向に向かっていると思わざるを得ません。そして、このようなおかしな方向に向かっている批判は、長期的に見ると社会の歪みを生むことになると考えます。なぜならば、人間社会というものは面白いもので、全ての人に公正に権利と利益が回らないと、必ずどこかで行き詰まる宿命です。しかしながら、各人の必要は他者には分かりません。ゆえに、各人は自分の必要を他者に訴え、そして理解を得て認めてもらわなければなりませんが、昨今のように、権利請求者を批判する言説が大手を振っていると、一部の人が権利請求に対して萎縮しかねないからです。百害あれども一利も無い権利請求者叩きです。

 この傾向、すなわち、「調整者」を叩かず見当違いの方向に批判を集中させる現象は、社会保障関係に限りません。たとえば刑事裁判などにおいては、ある殺人事件被告人が無期懲役刑になったり、あるいは有期懲役刑の判決を受けた場合、しばしば弁護人を攻撃する人が現れます。曰く、「弁護人が弁護したからあいつは死刑にならなかった!」と。しかし、弁護人が幾ら弁護してもその弁護内容が判決に全く影響を及ぼさない事案など数多あります。なぜならば、刑事裁判の判決は、法廷の「調整者」である裁判官によって決定されるからです。つまり、ある事件の判決に対して不満を抱くならば、その不満の矛先は弁護人ではなく裁判官に向けるべきなのです。

 既に刑事弁護人をやっている弁護士資格保持者は、「世論」から叩かれることを承知の上でやっているので、前述のような萎縮現象を起こすことはまず無いと思いますが、しかし、刑事弁護人の「後継者」に対する萎縮効果はかなりあると思います。昨今のような刑事弁護人叩きが今後も横行するならば、刑事弁護人を志望する人は減少しかねず、それは結果的に痴漢冤罪をはじめとする冤罪事件の弁護担当者をも減少させることに繋がりかねません。

 やはり、見当違いの批判は、長期的には社会全体に対して大きな悪影響を及ぼすものと思われます。

 ところで、このような言説をもたらす「根底」とは何でしょうか。私としましては、チュチェ97(2008)年12月15日づけ「「感情屋」と「自己責任論者」の共通性について」に対してポールさんより頂いたコメントにおける分析が結構いい線行っているのではないかと考えます。今後、詳しく分析してみたいと思います。
posted by s19171107 at 22:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月11日

【ちょっと補足】武蔵野市議会議員・安江清治氏による「派遣村」関係の記事について

(1月12日0時5分ごろに、あちこち補足しました)

 1月6日づけ「公的扶助を減らすためには」のコメント欄にて、太郎さんよりご質問を戴きました。ご質問ありがとうございます。

 ご質問の内容は、武蔵野市議会議員の安江清治氏が、自身のブログに掲載した「派遣村」関係の記事について「自分の死んだ父親を引いて「派遣村の連中は甘えている!けしからん!」と言っていますが、これについてどう思われますか」でした。元の記事は現在は削除されていますが、googleキャッシュに残っています。以下。
>>> うちの親父は事業で失敗した。いろんな人に迷惑をかけた。
無念に思いながらも最後は死んでいった。悔しかったよ。

でも、親父は失敗の原因を政府や政治や世の中のせいにしたことはない。
それは俺の誇りだ。

自分がどこまでやったか、なにが悪かったのか。どうやったらうまくいくのか。
そこを最後まで悩んでいた。

派遣村・・・・・政治のせいにするのはいいよ、でもおまえら何をやろうとしてるのさ。

自分で死ぬ気でやってんのかよ。
政治は魔法じゃねぇんだよ!


世の中のせいにする前に死ぬ気でやってみろよ!


傷をなめあってんじゃんぁねえよ!
甘えるなよ!人のせいにするなよ!


世の中を変えていくのは若者だ。
みんなで頑張ろうぜ!変えていこうぜ!


本気でがんばってるやつを俺は本気で死ぬ気で応援する。
志を同じくするよ。命をかけるよ。


なんか文句あるか!



いい世の中に「俺達の力で」していこうぜ!


投稿者 seiji 日時 2009/01/05 23:41
<<<
 削除後の言い訳は以下。
>>> <追記> 1月9日 お詫び

やすえ清治です。

大変大勢の方からご意見をいただきました。あらためましてこの場でお詫び申し上げます。
私の発言に対し、言葉足らずかつ誤解を招いた部分もあったかと思います。また、認識不足だった点もございました。あらためて関係者各位にお詫び申し上げます。誠に申し訳ありませんでした。

発言の趣旨は、決して今回の派遣村を運営された方やそこの集う皆様に非難ありきの発言を意図的にするつもりはございませんでした。メッセージは「がんばっていこう」という意味を強調したいと思って、発信したつもりでした。

私自身も一年半ほど、派遣社員であったことがあります。もちろん雇用について不安もありました。この経験から、なんとなく派遣で働く側の気持ちがわかった気でいたのだと思います。

多くの皆様からご批判も頂き、また応援のコメントも頂きました。心から感謝を申し上げます。また、ご批判に関しては真摯に受け止めます。
「一生懸命頑張っている人たちが報われる社会を作っていきたい」という気持ちを持っています。そして応援していきたいと思っております。

皆様からお寄せいただいたメールはすべて読ませていただき、また返事も書かせていただきます。(量が多く、一件一件読んでおりますので、多少お時間をください)

不快な思いをされた方もいたと思います。ここにあらためて先の発言について反省し、撤回することを表明し、ただ本当に自分が言いたかった「みんなでがんばっていこう」という気持ちはこれからも持ち続けていきたいと思いますし、議員としてその気持ちを原点とした、政策を述べていきたいと思っております。

未熟な点も多いと思いますが、今後ともご指導よろしくお願いいたします。

やすえ清治 拝


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やすえ清治です。
この日に書きましたタイトル「派遣村」に関して多くのご意見をいただきました。
自分としては率直な思いを示したつもりですが、理解していただけなかった部分もあるかと思います。

コメントの中には明らかな誹謗中傷もございましたので、これ以上公表しておくのも、さらなる混乱を招くと判断し、甚だ自分としては不本意ですが、いったん記事を削除させていただきます。

この件に関してはまたあらためてまた見解を記したいと思います。
また、賛同の意を示していただいた方、否定的な意見をいただいた方、大勢いらっしゃいましたが、反響が多かった点についてはありがたく思っております。決して偽りの気持ちを述べたわけではありません。

コメントにつきましては、できる限り残したいと思っておりますが、コメントをいただいた方にも、混乱の影響が及んでしまうのは私の本意ではありませんので、とりあえずいったん制限させていただきます。
コメントしきれなかった方へは、できる範囲で個別にメッセージを送らせていただきます。

今後も率直な意見は申し上げていくつもりですし、また忌憚のないご意見も頂ければと思います。ありがとうございます。

やすえ清治 拝
<<<
 安江氏の一連の言説をまずまとめて見たいと思います。

 「派遣村・・・・・政治のせいにするのはいいよ、でもおまえら何をやろうとしてるのさ」という記述と、「本気でがんばってるやつを俺は本気で死ぬ気で応援する」という記述をあわせて考えるに、私としましては、安江氏としては、本当に困っている非正規労働者に対する支援は拒まないが、「派遣村」に今いる人たちは「本当に困っている人」なのか?という問いかけをし、まだ自助の余地のある人には「もうちょい頑張れ」と訴えたいのではないかと読みます。自分の父親の話を引っ張ってきた意味は良く分かりませんが、「メッセージは「がんばっていこう」という意味を強調したいと思って、発信したつもりでした。」の部分をみるに、「自分の父親は自力更生したからお前らもやれ」ってことでしょうかねえ。わざわざ書かなくても良かったような気がします。

 以上の読みを前提としますと、私としては「安江氏はもうちょっと頭を使えばよかったのに」思わざるを得ません。なぜならば、「派遣村」は企業やハローワークなどが年末年始の休業に入る時期に屋外に放り出された人たちの緊急避難のための「テント村」です。いくらテントがあるにしたって、年末年始のクソ寒い時期に好き好んで公園にテントを張って過ごそうという人がいるでしょうか。また、本人に「努力」をしいたって、先にも書いたように、企業もハロワも休業しているときに何をしろと言うのでしょうか。さらに、昨今は「貯金しなかった自己責任」という言説も出回りつつありますが、いくら「自己責任自己責任」と喚いても、事ここまで至ったら、責任問題などを追究している場合ではありません。「アリとキリギリス」が現実世界に当てはまらないことは、チュチェ97(2008)年12月25日づけ「「アリとキリギリス」主義の破綻」において書いたとおりです。つまり、「派遣村」に今いる人たちは「本当に困っている人」なのか?という問いかけは、既に現実が答えを示しているのです。

 よって、太郎さんからのご質問に対しては、「甘いのは非正規労働者じゃなくて安江氏の見識」とお答えしたいと思います。私としましては、昨今の情勢においては非正規労働者に対して支援をすることは「甘やかす」ことにはあたらないと思います。

 ところで、朝日新聞本日付には、昨今の情勢がもとで、日本共産党に対する支持が広まり、同党の党員が増加傾向にあることが1面の3分の1くらいと2面の半分を使って大々的に特集されています(全6ページの大型記事になりますが、ネット上でも読めます。1ページ目はこちら。)。

 そのなかから本件に関連して、以下の2箇所を引用します。
http://www.asahi.com/politics/update/0110/TKY200901100213_02.html
>>> 生きるしかない、でもそのすべがわからない。ふと「困ったことがあったら共産党に行け」という叔父の言葉を思い出し、地区委員会を訪ねた。 <<<
http://www.asahi.com/politics/update/0110/TKY200901100213_03.html
>>>  ■悲鳴拾えぬ二大政党

 「共産党をよく思っていなかった人も、『助けてくれるのはもうここしかない』と勇気を振り絞って接触してくるようになった」。ある地区委員会の幹部は言う。

 自民党に電話したら「一般市民の相談には応じない」と言われたという失業中の40代の女性。派遣切りで役所に相談に行ったら「そういうことなら共産党に」と勧められたという32歳の男性。「退職を強要されたが、役所も労組も閉まっていて、土日も相談に乗ってくれるのは共産党だけだった」という25歳の男性……。まるで現代の「駆け込み寺」だ。

 小選挙区制導入後、自民、民主の二大政党制が進んだ。しかし、「働く貧困層」のような新たな課題、地域固有の切実な問題に、政治はこたえきれていない。生活がそれなりに回っている時、不当に扱われて不満があっても、多くの人は抗議の声をあげなかった。だが、がけっぷちに立たされ、声を上げるしかない状況に追い込まれた時の足がかりとして、全国に約2万2千の支部を置く共産党やNPOのドアがノックされている。

 「仕事の悩み、一緒に解決しましょう」。共産党も2年ほど前から、街頭でまくビラを雇用問題に焦点を当てたものにするなど工夫をこらしている。実際、インターネットの検索エンジンに、「雇用」「派遣切り」「リストラ」といったキーワードを入れると、共産党のページが上位に並ぶ。それを読んで電話してくる人も多い。
<<<
 このような現実に対して、自民党(&民主党)は一体どうこたえるつもりなのでしょうか。
posted by s19171107 at 22:31| Comment(5) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

「派遣村」叩きの言説と人種差別・民族差別主義者の言説がダブってみえる

 昨今の非正規労働者問題のひとつの象徴である「派遣村」をめぐっては、それまで個別に新聞の特集記事などに対する「世論」というカタチで散発的に出現していた非正規労働者叩きの言説が、東京のど真ん中に年末年始6日間も開設されていた上に、行政が動き、政治も高い関心を示したためか、その数が激増し、且つ、継続的に出現しました。その結果、昨今の非正規労働者叩きの典型的言説が一様に会したように思います。当ブログでは以前より所謂「自己責任論」の研究をしてまいりましたが、その一環として現在、「派遣村」叩きの世論収集・分析を行っている最中なのですが、研究途中の所感として、「派遣村」叩きの言説の中には人種差別・民族差別主義者的思考回路に基づくものがあるように感じます。

 「派遣村」を叩く人たちの言説、いや、広く非正規労働者を叩く言説は、非正規労働者の人格攻撃を多く含みます。そしてその過程で、彼らは良いニュースは黙殺する一方で、悪いニュースには飛びつくという、まさに人種差別・民族差別主義者的行動を我々に見せてくれます。すなわち、「派遣村」報道においては、特にテレビ報道において、「人のあたたかさが身に沁みた。必ず恩返ししたい。」というような「村民」の声が報じられていたのは皆様もご存知かと思います。しかし一方で、「講堂の中は自由がきかず、なかなか寝られなかった。5日に追い出されると聞いていたので、取りあえずほっとしている」という「村民」の声も報じられています。どちらも500人の村民のうちの一人、同じ「500分の1」です。にもかかわらず、彼らは前者は黙殺し、後者を取り上げ、「500分の1の声」を「1の声」として扱っています。これはまさに世界各国の人種差別・民族差別主義者の皆様の常套手段です。

 まあ、もともとこの傾向は見られていました。たとえば、非正規労働者に対する典型的なバッシング言説として、「怠け者」というものがありますが、実際の非正規労働者は、もともとは正規労働者であったが、たとえば病気などの理由で正規雇用を放棄せざるを得ず、結果的に今、非正規労働者として生活せざるを得ない人も多く含まれていて、決して「非正規労働者は怠け者だから非正規労働者なんだ!」とは言えないのであります。今回の現象もそのひとつに過ぎないといえばそうですが、以前にも増して人種差別・民族差別主義者っぷりが鮮明に現れているように思います。
posted by s19171107 at 13:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

戴いたチュチェ97年9月・10月分のコメントへの返信を完了しました

 年を越してしまいました。

9月2日づけ「国策宣伝はこうして展開される」
http://s19171107.seesaa.net/article/105919333.html
mashさん、usopさん

9月3日づけ「検挙より予防」
http://s19171107.seesaa.net/article/105974030.html
天性の庇護者さん

9月7日づけ「「改革」となるか「文革」で終わるか」
http://s19171107.seesaa.net/article/106132126.html
らーめんまんさん、けらさん

10月2日づけ「単なる賠償命令にとどまらない重要な判決」
http://s19171107.seesaa.net/article/107483839.html
福岡在住の名無しさんさん、坪井さん、天性の庇護者さん

10月18日づけ「「共感」の名を借りた「一体化」がもたらすもの」
http://s19171107.seesaa.net/article/108277226.html
ポールさん

10月20日づけ「自分で自分の首をしめている」
http://s19171107.seesaa.net/article/108375003.html
けらさん

 長いこと放置しているくせに、大した内容の返信でなくて本当に申し訳ない次第です。
posted by s19171107 at 00:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 運営連絡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月08日

この期に及んで

 日本の調査捕鯨船の船員が海に転落したらしく、行方不明になっており、捜索中であることについては、皆様も報道等でご存知かと思います。ところで、日本の調査捕鯨船は、反捕鯨団体「シー・シェパード」から度重なる妨害を受けていることは有名で、今回行方不明になっている船員の捜索活動中にも、同団体の船が捕鯨船周辺に出没しました。そのことについて、日本鯨類研究所は以下のような声明を出しました。
http://www.icrwhale.org/090107ReleaseJp.htm
>>>シーシェパード、第二共新丸行方不明者捜索を妨害
2009年1月7日

共同船舶株式会社 社長     山村和夫
財団法人日本鯨類研究所 理事長 森本 稔

 第二期南極海鯨類捕獲調査船団が、行方不明になった目視調査船第二共新丸乗組員の白崎玄(しらさき・はじめ)操機手(30歳)の捜索を行っていたところ、日本時間1月6日午後8時00分頃、無灯火状態の船舶が突如出現し、捜索現場に接近しているのを発見した。その船型を確認したところ、シーシェパード所属のスティーブ・アーウィン号であると判明した。

 スティーブ・アーウィン号は捜索中の船団に対し日本語で「行方不明者の捜索に来た」と呼びかけた。これに対し、調査船団側は「つい先頃も調査船団に妨害を加えたシーシェパードからの捜索の援助、捜索の協力等は一切受け付けません。我々は我々独自で捜索を行います。」と返答した。しかしながら、スティーブ・アーウィン号は「捜索が終わり次第、調査船団への妨害活動を行なう」と宣言した後、捜索活動中の目視調査船第二共新丸に0.2マイルにまで異常接近するなど、船団の捜索活動を妨害した。

「残念な事故が発生し、その捜索活動を行なっている最中であるにもかかわらず、スティーブ・アーウィン号が捜索に来たとしつつ終了後は妨害を加えることを明言した上で日本側の船舶の航行を妨害する行為をとったことに対し、強い憤りを感じる。シーシェパードは直ちにこうした行為を中止すべき。」と共同船舶株式会社山村和夫社長が述べた。

「シーシェパード船は明らかに救難信号を利用して妨害活動にやって来た。このような行為は人道的に許されるべきではなく、関係各国はコンセンサスで採択されたIWCでの非難決議に沿って乗組員の安全を脅かす執拗な妨害活動には断固たる処置をとる必要があると考える。」と日本鯨類研究所森本稔理事長が述べた。
<<<
 最終段落において日本鯨類研究所の森本理事長は、「シー・シェパード」をの行為を「人道的に許されるべきではな」いと厳しく非難していますが、以下の報道記事も踏まえて改めて考えると、私としては、果たして「シー・シェパード」だけが「非人道的」なのだろうかと疑問を感じざるを得ません。

http://www.asahi.com/national/update/0107/TKY200901070157.html
>>> シー・シェパード、捕鯨船団に再三接近 不明者の捜索中
2009年1月7日13時32分

 日本鯨類研究所に入った連絡によると、日本時間6日午後8時ごろ、南極海で日本の調査捕鯨船団が行方不明となった目視調査船「第2共新丸」の乗組員白崎玄(はじめ)さん(30)の捜索を行っていたところ、反捕鯨団体・シー・シェパード(SS)の船が接近した。SS側は「捜索が終わり次第、調査船団への妨害活動を行う」と宣言した後、4時間にわたって接近を繰り返して立ち去ったという。

 SSの船は無灯火で突如、捜索していた海域に現れ、船舶無線で「行方不明者の捜索に来た」と呼びかけた。調査船団側が「シー・シェパードからの捜索の協力などは一切受け付けません。我々は独自で捜索を行う」と返答したという。

 日本側は3隻で捜索を行っていたが、うち1隻にSS側が約370メートルまで接近したため、停船して一時、捜索を中断したという。
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http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20090107AT1G0701907012009.html
>>> シー・シェパード、捕鯨中の不明者の捜索船に接近

 6日午後8時ごろ(日本時間)、南極海で調査捕鯨中に行方不明となった目視調査船「第2共新丸」乗組員の白崎玄さん(30)を捜索していた日本の調査船団に、米環境保護団体シー・シェパードの船舶が異常接近した。薬品を投げるなどの行為はなかったという。捜索当局が発信した救難信号から船団の位置を割り出したとみられる。

 シー・シェパードは「(白崎さんの)捜索活動に来た。捜索が終わり次第妨害活動をする」と日本語で呼び掛けてきたが、調査船団側は「妨害を加えた団体からの捜索協力は受け付けない」と返答。調査捕鯨を実施している日本鯨類研究所は「異常接近は捜索活動の妨害で、人道的に許されない」と批判した。

 第2共新丸を所有する共同船舶によると、接近した「スティーブ・アーウィン号」は7日午前零時ごろまでの約4時間、第2共新丸から約370メートルの距離に接近した。
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 朝日配信記事第2段落、日経配信記事第2段落。朝日配信記事は伝聞調、日経配信記事は本文がかなり短いという点を考慮しなくてはなりませんが、もし事実ならば、調査船団側は、人一人が行方不明になっているこの期に及んでこういう詰まらない政治対立を持ち込んでいるということになります。いいじゃん、手伝ってくれるなら「シー・シェパード」でも。そんなに鯨が大切か。

 「捕鯨は日本の伝統」とのことですが、その伝統継承者が、こんな低レベルなことをしているのは何だか情けなく感じます。
posted by s19171107 at 01:07| Comment(4) | TrackBack(1) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

9条・25条

 「派遣村」の会場に、護憲関係のアイテムがあったことに対して文句が出ているようです。以下より一部抜粋。
http://news.livedoor.com/article/detail/3962551/
>>>  そして問題の思想宣伝だが、やはりいた。「9条改憲阻止!」のタスキをかけた男性が、ビデオカメラを片手に歩き回っているのだ。報道腕章や所属を明示するものは着けていない。明らかなルール違反。しかも、腕章をしている報道陣でさえいちいちスタッフから呼び止められるのに、記者が見た限り「9条改憲阻止!」男は誰にも呼び止められていない。これは“9条特権”なのか、それとも、みな気持ち悪がってかかわりあいになりたくないのか。それとも、すべてのボランティアに顔が知れているほどの「派遣村」幹部なのか?

 失業者支援は、関係者の思想を問わず、その活動自体に大きな意義がある。同様に、失業問題に便乗した思想宣伝行為は、その思想の内容を問わず愚かしく恥ずかしい。労組が一堂に会した「派遣村」だけに、なおのことそれに便乗した思想宣伝が見苦しく思えた。「派遣村」主催者は、報道陣を締め付けるなら、同様に“空気が読めない思想宣伝”も何とかしたらどうか。
<<<
 「派遣村と護憲活動は関係ないはずだ」という考えに基づく批判です。しかしながら、実は、「派遣村」的試みと護憲活動って、考えようによっては密接なかかわりが無いともいえなかったりします。以下、私の無理矢理な解釈を。

 「派遣村」は有志が集まって始めたものですが、本来はこの手の活動は行政がまずやるべき業務であり、その根拠は大元を辿れば憲法にたどりつきます。日本国憲法は、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を3本柱とし、その下に沢山の条文を引っさげていますが、ところで何故この3本柱を建て、あれだけ沢山の条文を引っさげているのでしょうか。これについて私は、国民が幸福を追求できる基盤を保障するための環境的条件を整備するためであると考えています。

 つまり、憲法の各条文というのは、「幸福追求のための基盤を保障する」という目標を具体的なものとして変形したものにすぎず、その「根底」は全て同一であると考えます。また、憲法の各条文は「根底」の目標の変形であるという視点で考えると、憲法の各条文は互いに支えあって一つの憲法(目標)として成立していると言えると思います。たとえば、25条(以下、「〜条」は全て日本国憲法の条文を指す)の生存権を通しての「幸福追求のための基盤保障」は、戦争放棄という形を通しての「幸福追求のための基盤保障」を謳っている9条の環境的条件があってこそ正常に成り立つものですし、各個人の生存権が保障されていない社会では生活困窮者を中心に「新天地」を欲する傾向にあるという歴史的傾向をふまえると、9条は25条の環境的条件があってこそのものです。

 本来は憲法の理念に沿って行政が行うべき「派遣村」は、有志が行政にかわって憲法の理念(たぶん25条あたり)を実行したものであるといえます。先にも書きましたが、25条は9条あっての25条です。その点、「派遣村」が25条の精神で開設されたものとするならば(←仮定条件)、それは9条(とその他)の環境的条件によって開設されたものですので、「9条擁護」あるいは広く「護憲」を掲げても何の不思議もないのではないでしょうか。

 最初にも書きましたが、上記は全て私の無理矢理な解釈なので、本当に「派遣村」の中の人たちが、私の考えるような論理でやっているかについては、私は全く責任をもてません。本記事によってお伝えしたいことは、「考えようによっては、このような活動と9条護憲運動は結びつかないことはないよ」ということですので、参考程度に聞き流してください。決して「派遣村」の中の人に本記事の内容を問い合わせないように!

2009年01月06日

公的扶助を減らすためには

 東京・日比谷公園で開かれていた「年越し派遣村」をめぐる、「世論」をザッと目を通したところ、ある特徴が見えてきました。すなわち、開設初期の、まだ有志による慈善活動にすぎなかった時期においては、そもそも派遣村関係の「世論」自体が少なかったのですが、厚生労働省が使用していない講堂を開放した頃から批判的意見が噴出しはじめ、今や批判的意見が相当数見られるようになっています。それらの批判的意見の多くは、「派遣労働を選んだのは自己責任だから公的援助は必要ない」というもの、あるいは、「まじめに働いているのがバカらしくなる」というものでした。両者とも、昨今の公的扶助関係の「世論」において典型的に見られるものです。

 前者の失当性、というか危険性については、チュチェ97(2008)年12月31日づけ「「自己責任論」の危険性」にて指摘したとおりなので、今回は後者、すなわち、公的扶助は「まじめに働いているのがバカらしく」させるという言説について考えて見たいと思います。

 正直、いまの「派遣村」が「まじめに働いているのがバカらしくなる」ほど過剰な公的扶助にあたるとはとても思えないのですが、それはさておき、一般的に、過剰な公的扶助が勤労意欲を損ねるというのは、私としては特に不思議には思いません。人間なんてその程度のものにすぎませんからね。では、真面目な勤労者の勤労意欲を損ねない一方で、チュチェ97(2008)年12月31日づけ「「自己責任論」の危険性」で指摘した「危険性」を予防するにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、「まじめに働いているのがバカらしくなる」という意識の「根底」、つまり、どういう思考回路が「まじめに働いているのがバカらしくなる」という意識をもたらしているのかというところから考えてみなければなりません。

 「世論」を分析するかぎり、先にも書いたとおり、開設初期の、まだ有志による慈善活動にすぎなかった時期においては、そもそも派遣村関係の「世論」自体が少なかったのですが、厚生労働省が使用していない講堂を開放した頃から批判的意見が噴出しはじめ、今や批判的意見が相当数見られるようになりました。また、一般的にも、彼らは無差別平等受益の生活保護は批判しますが、基本的に保険料負担経験者限定の共助制度である社会保険に対しては、制度運営に対する批判はあっても、制度の存在そのものに対して批判するということは余り見られません。つまり、このような意識をもたらし、結果的に公的扶助体制に対する攻撃をさせる思考回路の「根底」には、ある人物が一方的に負担をしている一方で、ある人物が一方的に受益していることに対する反発があるように思えます。となれば、解決策は「一方的負担感」を軽減させることのほかありません。

 私としましては、「一方的負担感」を軽減させるためには、何よりも勤労者各人の雇用を安定させ、一刻も早く自立してもらうしかないと考えます。そしてそのためには、今現在既に自力ではどうにもならなくなってしまった人に対しては、再スタートのための公的扶助が必要不可欠であると考えます。つまり、公的扶助を減らすためには公的扶助をするしかないのです。ちなみに、公的扶助をせず、自力で再スタートをさせるべきだという昨今流行の言説については、チュチェ97年8月24日づけ「どん底から這い上がる「自己責任」?」とチュチェ97年12月31日づけ「「自己責任論」の危険性」にて批判したとおりです。

 ところで、公的扶助制度についての世論を集めていると、公的扶助制度意義そのものは認めているものの、「どうしても働こうとしない奴がいるから、そういう場合は救貧院的発想で対処すべきだ」という言説に出会うことがあります。たしかに私も一時期そういう考えを持っていたことがあるのですが、チュチェ思想の人間観に出会って以来、すこし慎重になってきました。前掲、チュチェ97年8月24日づけ「どん底から這い上がる「自己責任」?」の最後において、「支援の必要性は認めながらも救貧法的発想に至る人もいましたが、時間的関係から割愛します。」と書いたまま、それ以降取り上げてこなかったので、以下、少し考えてみたいと思います。

 その前に、「チュチェ思想の人間観」についてご説明しなくてはならないでしょう。以前から何度か書いてきていますが、チュチェ思想においては、人間の本質とは自主性と意識性、創造性の3属性をもった社会的存在であり、自主性を持つがゆえに人間は、自然の束縛と社会のすべての従属に反対するものであると指摘しています。確かに歴史上、古代奴隷制・中世農奴制における、一種の強制労働による生産性は極めて低い一方で、近代以降の所謂「野心家」たちによる労働の生産性は極めて高く、世界各国はいち早く市民革命を経て中世的封建体制から脱したところから順に発展してきました。

 このように、人間の本質という点から考えると「救貧院的発想」というものは、かなり「強制労働」の色合いが強く、労働生産性の点で些かの問題があるように思えます。言うまでも無く公的扶助は税金でやっている以上、元は取れないにしても最大限効率的にありたいものですから、なるべく労働生産性をあげられるようにすべきです。

 しかし、だからといって公的扶助受給者に対して無制限の「自主性」を保障すれば、それは今度は議論が最初に戻ってしまいます。私としては、結局、この辺の線引きは、民主的討議によって負担者の理解が得られる範囲内を模索するのが一番現実的だと考える次第です。
posted by s19171107 at 01:23| Comment(3) | TrackBack(1) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

なんだかなあ

 昨年につづき、宋文洲氏の「なんだかなあ」な記事に出会いながら正月休みをダラダラと過ごしております。今年も残すところ360日余りとなりました。皆様、来年もよろしくお願いいたしますwなんてね☆

 さすがに4様とは違って、昨年とは違う焦点で記事を書いていらっしゃいますが、しかし私が「なんだかなあ」と思うところはちゃんと書いてくれています。以下。

>>>  皆さんは気付いたかどうか分かりませんが、最近世論からは急速に格差の議論が消えたと思いませんか。この格差の議論も作られたブームです。私はいつも言ってきました。日本は最も格差の少ない国の一つです。危機感がなかったからそんな言葉の遊びをしていたのです。 <<<
 新聞は株価一覧以外はご覧にならないのかしら、、、というのはさておき、「日本は最も格差の少ない国の一つ」という言説は本当に飽きるほど聞いてきました。そりゃそうでしょう。曲がりなりにも「一億総中流」、「世界で最も成功した社会主義国」とまで言われた日本です。その辺の国と比較してもらっちゃ困ります。そんなのはどうでもいいんですが、こういうふうに「下」と比べることに一体何の意味があるのか、私としては未だに全く分かりません。資本主義って、現状に満足せず、常によりよい段階に貪欲に突き進むのがウリなんじゃなかったかしら。いつから隠居者の思想になったんだ。

 しかし、この方がわざわざこういうことを書いてしまうという理由は、たとえば「消費者金融や人材派遣への嵐は左翼勢力と低所得層が合流したと思います」という部分をみれば何となく分かります。すなわち、「格差批判者=左翼」という図式。あるいは彼の思考の根底では「左翼=アカ ゆえに格差批判者=アカ」という図式ができあがっているのではないでしょうか。まあ真相は彼の脳味噌を「解剖」しないと分かりませんが、「格差社会批判者」の批判者の一部のなかには、本気でそういう思考回路をしているようであることは、チュチェ95(2006)年7月22日づけ「「格差」批判者はコミュニストですかそうですか」においても書きました。

 ちなみに私は、「白頭の革命精神」(ちなみに、「はくとうのかくめいせいしん」とか読まないように!)とか書いている以上、間違いなく「左側」なわけですが、しかし、「格差」すべてを悪いものとは見ていません。たとえば、各人が自己の創意工夫、すなわち、所謂「努力」と呼ばれるものの結果として得た財貨によって、より良い生活を享受することは私は何の異論もありません。どんどんやってください。ですが、昨今の「格差」をもたらす構造の中には、若干の問題点があるのではないかと考えています。まだ頭の中で構想がグルグルと回っているだけなので今回は書けませんが、今までの当ブログ記事をご覧になってきた方のなかで勘の良い方ならば、あるいは予想できるかもしれません。そのうち書きます。ちなみに、実は刑事裁判や死刑制度に関する記事を書きながら思いついたことなので、参照するならそちらをどうぞ。

 話を元に戻しますが、この言説のいい加減さはメディア報道というものの特性を鑑みれば更にくっきりと分かります。すなわち、チュチェ96(2007)年10月8日づけ「裁判:署名で罪が決まるとき」においても書きましたが、メディア報道というのは、その時間的・紙幅的制約から、公共性と時事性の高いモノから順に報道しなくてはならず、特に昨今は国際金融危機・国際経済危機という全国民に対して大きな影響を及ぼす大事件が起きている関係上、「格差問題」について報道量が減ることは何の不思議もありません。

 このように、メディアの報道量は相対的なので、必ずしも問題の絶対的深刻さを示しているわけではありません。メディア報道におどらされちゃダメですよ!


次。
>>>  人材派遣業がなければ日本の雇用情勢は本当によくなるでしょうか。違います。人材派遣がなければもっと悪くなるでしょう。もともと人材派遣業が成長した理由は企業に人員調整のニーズがあったからです。日本企業は「終身雇用」という建前にこだわるため調整の役割を全部派遣社員にしわ寄せしました。その結果、派遣社員の社会的地位と労働条件が悪くなるのです。正社員の特権化をやめ、差別のない労働条件契約を結べば日本社会の人材効率がもっと高くなり、人材市場の活気も取り戻されると思います。 <<<
 ここは慎重にならないといけません。「もともと人材派遣業が成長した理由は企業に人員調整のニーズがあったから」というのは、私もチュチェ97(2008)年4月20日づけ「派遣労働」において認めているところです。また、上記においては記述していませんが、「正社員の特権化」というのが派遣社員をはじめとする非正規労働者への皺寄せとなっている可能性も否定できません。しかしそれ以前に、経営側に努力すべき点は無いのか。昨今の議論に共通する現象ですが、そういう検証がこの記事では欠如しており、まず労働者側の「痛みの共有」が最優先となっていないでしょうか。

 ちなみに私は、この記事の最初においても触れましたが、以前から「下にあわせる」発想を厳しく批判していますが、しかし、本当にどうしようもないときならば、たとえば、ワークシェアリングといった形を通しての「下にあわせる」ことを批判するものではありません。しかし、このように、まだ余力のありそうな所や、あるいは自分自身に対してメスを入れずに、他者にばかり痛みを押し付けようとするこのような言説に対しては、「下にあわせる」発想と認識し、厳しく批判します。(「下にあわせる」だと能動的なニュアンスがするから、この場合は「下にあわさせる」、すなわち、使役的なニュアンスを出した方が良いかな?今後は「下にあわさせる」に切り替えます。)


最後。
>>>  しかし、今の政治家は世襲議員が多いのです。改革者と思われた小泉純一郎元首相が若い息子に選挙区という縄張りを渡すのだからこの問題の深さが伺えます。世襲議員達は狭いところに住んだことがないですし、自分の保有する資産価値を守るためにも不動産改革に消極的です。そんな硬直した政治を改革するのは最も重要な景気対策になるかもしれません。 <<<
 こういう形での「世襲議員」批判は斬新だ。。。しかし、「資産価値を守るため」に「不動産改革に消極的」な人物は、何も世襲議員だけではないような。。。有力資産家の支援を受けた「一世議員」でも十分、「守旧派の走狗」となりえる予感。

 昨今、所謂「世襲議員」がやたら問題にされますが、なんか中には些かズレた、半分機械的な、「なんだかなあ」な世襲議員批判多いような気がします。この記事において筆者である宋文洲氏が、派遣労働絶対悪論・消費者金融絶対悪論に対して「待った」をかけ、もっと慎重に考えるべきではないかと提言した点については、私は、その内容はさておき高く評価したいと思っているのですが、その宋文洲氏までもが「なんだかなあ」な世襲議員批判に走るのは残念。


 宋文洲氏は視点は面白いし、氏のブログ、たとえば「資本主義は勝ったか」なんかを見れば分かるけど、ガチガチの「資本主義マンセー」ではなく、資本主義の「毒」への真摯な認識と、社会主義の理想に対する一定の理解もあるので、そこらへんのアレなのと比べればバランスは相当良い方だと思うんだけど、やっぱり「なんだかなあ」。
posted by s19171107 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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