2月27日22時56分〜23時37分まで公開していた初版は、手違いで決定稿ではないものでした。23時37分を以って、当初予定していた決定稿に差し替えました。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200902260027.html
>>> 靖国神社の合祀者氏名削除認められず 大阪地裁判決本件判決裁判長
2009年2月26日
太平洋戦争の戦没者らの遺族9人が、意思に反して靖国神社に親族を祭られ続け、故人をしのぶ権利を侵害されているとして、神社が管理する「祭神簿(さいじんぼ)」などから氏名を消すよう求めた訴訟で、大阪地裁は26日、遺族の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。村岡寛裁判長は「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」と述べた。
原告は近畿、中四国、北陸に住む64〜82歳の男女。父親や兄ら親族11人が40〜45年、ビルマ(ミャンマー)やフィリピンなどで戦死・病死して合祀(ごうし)された。「親族の死を殉国精神の高揚に利用されるのは嫌だ」として、国が持つ氏名や死亡年月日などの情報に基づく祭神名票(さいじんめいひょう)、それをもとにした祭神簿、儀式用の霊璽簿(れいじぼ)からの氏名抹消と遺族1人につき慰謝料100万円の支払いを求めていた。
判決はまず、自衛官合祀拒否訴訟の最高裁判決(88年)が「強制や不利益の付与を伴わない限り、他者の宗教的行為で自己の精神生活の静謐(せいひつ)を害されたとする感情には、損害賠償や差し止めの請求を導く法的な利益が認められない」と述べた部分を引用した。そのうえで、遺族側の「靖国神社が戦没した家族のイメージを勝手に作り上げたことで敬愛追慕の情に基づく遺族の人格権が侵害された」とする主張を検討。「故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在し、故人に対する遺族のイメージのみを法的に保護すべきだとは言えない」と指摘した。さらに「合祀に強制や不利益の付与はなく、遺族以外の第三者は合祀の事実を知り得ないのだから名誉やプライバシーの侵害も認められない」と判断した。
靖国神社と国の一体性については「合祀は靖国神社が最終的に決定しており、国の行為に事実上の強制とみられる何らかの影響力があったとは言えない」と判断した。
今回の裁判は合祀の拒否をめぐる訴訟で初めて国だけでなく神社を被告とし、遺族が反対している場合も「英霊」として祭り続けることをめぐる初の司法判断となった。遺族らは、過去の判例を踏まえて、裁判所に合祀という宗教行為そのものの是非を問うのは難しいと考え、合祀取り消しでなく、合祀資料からの氏名抹消を求めていた。同様の訴訟は東京、那覇両地裁でも起こされている。 <<<
「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」
「全国犯罪被害者の会」(「あすの会」)が朝日新聞社に送付した質問状(チュチェ97年7月8日づけ)
「殺害犯人と同じ空気を吸っていると思うだけでも耐えられず、被害者の払う税金が死刑囚が生きていくための費用に使われていると考えるだけでも怒りがこみあげてくるのです。」
「あすの会」の主張する「怒り」という感情は、不快感・嫌悪感の一種になると思います。となると、本件裁判長の言葉どおりに行けば、「あすの会」型の遺族の要求もまた、退けなくてはなりませんが、その割には刑事裁判の判決文にはしばしば「遺族の処罰感情」云々を刑罰選択理由の一つとして挙げているのは気のせいですか。
2月19日づけ「判例の重要性」でも書きましたが、裁判官は国家権力の代行者である以上は、本件民事裁判においては「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」と言ったかと思えば、別の刑事裁判では「遺族の処罰感情」云々を刑罰選択理由に引っ張り出すのはどうかと思いますよ。どうせ日本は法治国家、つまり、いくら遺族が熱心に要求したとしても法定外の刑罰を処すことは出来ないし、また、現行判例においても、刑罰選択の主眼は犯罪行為の刑事責任の重さなのですから、わざわざ「遺族の処罰感情」を刑罰決定の根拠付けとして引っ張り出す必要は無いでしょう。むしろ出すほうが混乱を招くような。
続いて、本件判決について。
私としましては、被害者・遺族の要望が全く実現されないのも問題ですが、かといって何でも実現するというのも問題であるし、また、裁判の感情中心化をさける必要性もあるために、「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」というのは少し言いすぎではないかとも思いますが、「感情」を「根底」とする関係者の要望に対する法的保護の度合いを制限する必要はあると思います。
そのような視点で本件判決をみると、たしかに、故人と深い繋がりのある遺族としてみれば、事実上何の繋がりも無い靖国神社が勝手に手前の宗教行事に使う、つまりダシにしているというのは余り気分の良いことでは無いというのは良く分かります。しかし裁判長の「故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在し、故人に対する遺族のイメージのみを法的に保護すべきだとは言えない」という指摘は「ごもっとも」としか言いようが無いために、本件判決が、(前述の)「法的保護の度合いを制限する必要」のある事例というのは、まあそういわれればそうかもしれません。
関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html