当ブログは移転しました。詳細はこちらに掲載してありますので、ご参照ください。

2009年02月27日

【改訂】不快や嫌悪の感情に対する法的保護の度合い

【お断り】
2月27日22時56分〜23時37分まで公開していた初版は、手違いで決定稿ではないものでした。23時37分を以って、当初予定していた決定稿に差し替えました。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200902260027.html
>>> 靖国神社の合祀者氏名削除認められず 大阪地裁判決
2009年2月26日

 太平洋戦争の戦没者らの遺族9人が、意思に反して靖国神社に親族を祭られ続け、故人をしのぶ権利を侵害されているとして、神社が管理する「祭神簿(さいじんぼ)」などから氏名を消すよう求めた訴訟で、大阪地裁は26日、遺族の請求をすべて棄却する判決を言い渡した。村岡寛裁判長は「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」と述べた。

 原告は近畿、中四国、北陸に住む64〜82歳の男女。父親や兄ら親族11人が40〜45年、ビルマ(ミャンマー)やフィリピンなどで戦死・病死して合祀(ごうし)された。「親族の死を殉国精神の高揚に利用されるのは嫌だ」として、国が持つ氏名や死亡年月日などの情報に基づく祭神名票(さいじんめいひょう)、それをもとにした祭神簿、儀式用の霊璽簿(れいじぼ)からの氏名抹消と遺族1人につき慰謝料100万円の支払いを求めていた。

 判決はまず、自衛官合祀拒否訴訟の最高裁判決(88年)が「強制や不利益の付与を伴わない限り、他者の宗教的行為で自己の精神生活の静謐(せいひつ)を害されたとする感情には、損害賠償や差し止めの請求を導く法的な利益が認められない」と述べた部分を引用した。そのうえで、遺族側の「靖国神社が戦没した家族のイメージを勝手に作り上げたことで敬愛追慕の情に基づく遺族の人格権が侵害された」とする主張を検討。「故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在し、故人に対する遺族のイメージのみを法的に保護すべきだとは言えない」と指摘した。さらに「合祀に強制や不利益の付与はなく、遺族以外の第三者は合祀の事実を知り得ないのだから名誉やプライバシーの侵害も認められない」と判断した。

 靖国神社と国の一体性については「合祀は靖国神社が最終的に決定しており、国の行為に事実上の強制とみられる何らかの影響力があったとは言えない」と判断した。

 今回の裁判は合祀の拒否をめぐる訴訟で初めて国だけでなく神社を被告とし、遺族が反対している場合も「英霊」として祭り続けることをめぐる初の司法判断となった。遺族らは、過去の判例を踏まえて、裁判所に合祀という宗教行為そのものの是非を問うのは難しいと考え、合祀取り消しでなく、合祀資料からの氏名抹消を求めていた。同様の訴訟は東京、那覇両地裁でも起こされている。
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 本件判決裁判長
遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない

 「全国犯罪被害者の会」(「あすの会」)が朝日新聞社に送付した質問状(チュチェ97年7月8日づけ)
殺害犯人と同じ空気を吸っていると思うだけでも耐えられず、被害者の払う税金が死刑囚が生きていくための費用に使われていると考えるだけでも怒りがこみあげてくるのです。
 
 「あすの会」の主張する「怒り」という感情は、不快感・嫌悪感の一種になると思います。となると、本件裁判長の言葉どおりに行けば、「あすの会」型の遺族の要求もまた、退けなくてはなりませんが、その割には刑事裁判の判決文にはしばしば「遺族の処罰感情」云々を刑罰選択理由の一つとして挙げているのは気のせいですか。

 2月19日づけ「判例の重要性」でも書きましたが、裁判官は国家権力の代行者である以上は、本件民事裁判においては「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」と言ったかと思えば、別の刑事裁判では「遺族の処罰感情」云々を刑罰選択理由に引っ張り出すのはどうかと思いますよ。どうせ日本は法治国家、つまり、いくら遺族が熱心に要求したとしても法定外の刑罰を処すことは出来ないし、また、現行判例においても、刑罰選択の主眼は犯罪行為の刑事責任の重さなのですから、わざわざ「遺族の処罰感情」を刑罰決定の根拠付けとして引っ張り出す必要は無いでしょう。むしろ出すほうが混乱を招くような。


 続いて、本件判決について。
 私としましては、被害者・遺族の要望が全く実現されないのも問題ですが、かといって何でも実現するというのも問題であるし、また、裁判の感情中心化をさける必要性もあるために、「遺族が主張する感情は不快や嫌悪の感情としかいえず、法的に保護するべき利益とは言えない」というのは少し言いすぎではないかとも思いますが、「感情」を「根底」とする関係者の要望に対する法的保護の度合いを制限する必要はあると思います。

 そのような視点で本件判決をみると、たしかに、故人と深い繋がりのある遺族としてみれば、事実上何の繋がりも無い靖国神社が勝手に手前の宗教行事に使う、つまりダシにしているというのは余り気分の良いことでは無いというのは良く分かります。しかし裁判長の「故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在し、故人に対する遺族のイメージのみを法的に保護すべきだとは言えない」という指摘は「ごもっとも」としか言いようが無いために、本件判決が、(前述の)「法的保護の度合いを制限する必要」のある事例というのは、まあそういわれればそうかもしれません。

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2009年02月20日

ヘタレが萎縮して不当が罷り通る

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090219-00000006-jct-ent
>>> はっぴいえんどCD販売中止 「音楽に罪はない」と疑問の声

2月19日21時5分配信 J-CASTニュース

 伝説のバンド「はっぴいえんど」の元メンバー逮捕によるCD販売中止に、批判が上がっている。メンバーによる犯罪と音楽とは別だ、などというものだ。さらに、編曲や楽器演奏だけのCDと、どこで線引きするのか、との疑問も出ている。

■レコード会社「事件の重大性や社会的影響」

 バンド名を聞いて、当時の新鮮な驚きを思い出した人は多いだろう。

 大麻所持の現行犯で2009年2月17日に警視庁に逮捕されたミュージシャン鈴木茂容疑者(57)は、1970年代初めに一世を風靡した「はっぴいえんど」のギタリストだった。この伝説的バンドは、英語でしか表現が難しいとされたロックを日本語でやってのけ、当時の音楽界に大きな衝撃を与えた。

 70年のデビューアルバム「はっぴいえんど」に続き、名盤とされる「風街ろまん」など計3作を次々にリリース。72年に解散したものの、同作内の曲「風をあつめて」は08年にビールのCMにも起用されている。

 当時のメンバーは、後にJポップの世界で大物になった。YMOとして活躍した細野晴臣さん(61)、ミリオンセラーアルバムを出した大瀧詠一さん(60)、作詞家として売り上げ2位を誇る松本隆さん(59)だ。

 鈴木容疑者は、解散後に細野さんらとの音楽ユニットなどで活躍。現在は、編曲やバックギタリストなどの活動をしている。ところが、突然、大麻で逮捕され、18日になって、「はっぴいえんど」時代などのCDが次々に販売中止になった。

 ポニーキャニオンでは、「はっぴいえんど」「風街ろまん」の2作を18日に再発売したが、昼過ぎから急きょ出荷停止に。ライブ盤発売予定やネット上での音楽配信も中止した。また、キングレコードが3作目の「HAPPY END」など関連するアルバム4枚を、日本クラウンが鈴木容疑者の関わる14枚を、それぞれ販売中止した。

 その理由について、各社とも、ホームページ上などで、世間を騒がせた事件の重大性や社会的影響を考慮して決めたと説明している。

■編曲や楽器演奏だけの場合と線引きできる?

 ところが、ネット上では、伝説的バンドの名盤まで販売中止にしたことについて、反発する声が広がっている。

 2ちゃんねるやはてなブックマークには、「過剰反応だな」「作品や楽曲には罪は無いんだよ!」「これはおかしくね?新曲ならまだわかるけど」といった書き込みが相次いでいる。

 音楽プロデューサーの小室哲哉さんが2008年11月4日に逮捕されたときも、今回と同様な理由で、レコード会社がCDの販売を次々に中止。ファンらから「やり過ぎだろ」といった声が上がっていた。なぜ、犯罪があるとこうした対応を取るのか。

 ポニーキャニオンでは、「社内で協議した結果で、ホームページで書かせていただいたことがすべてです。音楽の歴史的価値は重々分かっており、残念な思いはありますが、刑事事件になりましたので致し方ないと思っています」と話す。また、キングレコードでは、「過剰反応ということではなく、世間をお騒がせした状況を考慮したということです」と説明。日本クラウンでは、理由を含めて、「特別にお答えすることはありません」としている。

 一方、鈴木茂容疑者は、他のミュージシャンのCDに、編曲者やバックギタリストとして参加している。ネット上では、販売中止の線引きをどうするのかについても、疑問の声が出ているのだ。実際、水谷豊さんの曲「カリフォルニア・コネクション」は、鈴木容疑者が編曲しているが、それが収録されたアルバム「ゴールデン・ベスト」は販売中止されていない。

 ポニーキャニオンでは、編曲などの場合は、販売中止するまでもないとの考えだ。「アーティスト本人ではなく、スタッフということになりますから。ちょっと意味合いが違うと思います」と説明する。キングレコードでも、「販売中止するのは、アーティストとして表に立っている作品です」としている。
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 私も以前から時折書いてきているように、芸能人や歌手が何かの容疑で逮捕されたときに、その人物が出演したり関わったりしたものを全て封印する昨今の芸能界・音楽界の風潮には違和感を感じております。百歩譲って犯行(から刑期満了まで)に収録・製作されたものが流通中止されるならまだしも、犯行のものならば、その当時は少なくともまだ「善良な市民」だったのですし、そもそもまだ「逮捕」であって「有罪確定」ではないのですから、お蔵入りさせる正当性が無いような気がするんですが、まあ「去る筋」から抗議がくるからトラブル予防のために引っ込めるんでしょうな。

 本件は「刑罰」(「制裁」とか「償い」とも言い換えられると思います)がどこまでを対象するのか・すべきなのか、すなわち、問題となった犯罪行為だけをピンポイントで償うべきか、あるいは、犯行の瞬間までの人生全体を対象とすべきなのか、はたまた法的制裁を受けたあとの社会からの「前科者」としての冷遇も含めた全人生を含めるのか、という問題をはらんでいたりするので、案外、深い問題です。

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2009年02月19日

判例の重要性

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090218-OYT1T00266.htm
>>> 江東・女性殺害、星島被告に無期判決…地裁「死刑重すぎる」

 東京都江東区のマンション自室で昨年4月、2部屋隣に住んでいた会社員東城瑠理香さん(当時23歳)を殺害し、遺体を切断して捨てたとして、殺人やわいせつ目的略取、死体損壊などの罪に問われた元派遣社員星島貴徳被告(34)の判決が18日、東京地裁であった。

 平出喜一裁判長は「殺害行為は冷酷ではあるが、残虐極まりないとまでは言えない。自ら罪を悔いており、死刑は重すぎる」と述べ、無期懲役(求刑・死刑)を言い渡した。

 判決はまず、最高裁が1983年に死刑適用基準として提示した「永山基準」に触れ、「殺害された被害者が1人の事案で死刑を選択するには、相当強度の悪質性が認められる必要がある」と指摘したうえで、星島被告の情状を検討した。

 判決は犯行を、「被害者をあたかも廃棄すべき物のごとくあつかったもので、自己中心的で卑劣」と厳しく非難。その一方で、〈1〉包丁で首を1回突き刺すという殺害の仕方は執拗(しつよう)なものではない〈2〉わいせつ行為には至っていない〈3〉殺人には計画性がない――などを被告に有利な事情として指摘した。

 また、検察側が、星島被告が東城さんを殺害後、遺体を細かく切断して捨てたことを死刑にすべき情状として強調したことについては、「死者の人格や、遺族の心情を踏みにじる極めて卑劣なものだ」としたものの、「殺害後の死体損壊状況を過大に評価はできない」と述べた。

 そのうえで、星島被告が公判でも反省の態度を見せていることなどから、「終生、罪の重さを真摯(しんし)に考えさせ、被害者の冥福を祈らせるのが相当」と述べ、無期懲役を選択した。

 星島被告は公判で、起訴事実を認め、自ら「一日も早く死刑にしてほしい」と訴えていた。

 判決によると、星島被告は昨年4月18日午後7時30分ごろ、乱暴目的で東城さんの部屋に押し入り、帰宅したばかりの東城さんを自室に拉致。約3時間後、包丁で首を刺して殺害し、その後、遺体を細かく切断して、肉片や骨片をトイレに流したり、近くのごみ置き場に捨てたりした。

(2009年2月18日13時43分 読売新聞)
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 記事中にもありますが、本件で死刑が選択されなかった要因として、判例を踏まえたことが挙げられます。これについて「世論」は、例によって「人数は基準とすべきではない」というものが見られますが、中には判例を踏まえることそのものから否定する言説があります。たとえば、「みのもんた」こと御法川法男氏。氏は日テレ系列の午後の番組のニュースコーナーにおいて、「刑罰は判例ではなく事件ごとに決めるべき」と仰いました。たしかに聞こえは良い主張ですが、実際問題としては失当であるし、不可能な要求であると言わざるを得ません。

 刑罰とは国家権力の行使であり、これはすなわち、国家としてその犯罪に対してどのように立ち向かうかという意志表明であります。ゆえに、実際に刑罰を決定する裁判官というのは、国家の意思表明の「代行者」という位置づけで理解すべき立場です。

 このような視点で「裁判官」という立場を理解すると、裁判官の下す判決は、どこの裁判所のどの裁判官によるものであっても、同一の判決である必要があります。

 「判例」はまさにそのための基準です。「判例」を無くすというのは、全国の裁判官が拠って立つ共通の基準をなくすことを意味します。全国の裁判官が拠って立つ「判例」を基準とする、所謂「判例主義」下の現在においても、同じ事件の裁判であるにも関わらず、各級裁判所でそれぞれ違った判決が出ることがしばしばあるんですから、ここで「判例」を無くしたらそれこそ大混乱となり、裁判官ごとに異なる判決が出かねません(裁判官が死刑廃止論者の潜入工作員だったらどうするんですか感情屋さん!「社会のあちこちに死刑廃止論者が潜んでいて、隙あらば死刑廃止のための策謀をめぐらせている」ってこの前まで言っていたじゃないですか!)が、これでは裁判の公平性と信頼に大きな疑問符をつけざるを得ません。

 また、ある事件に対する刑罰は、過去や同時並行の類似事件との均衡も図る必要もあります。過去の類似事件とのバランスを考えた判決でなくては、「なんであの事件はションベン刑ですんだのに、それよりも軽い本件がこんな厳罰なんだ?」ということになりかねないからです。ある事件は死刑で、似たようなある事件は無期懲役。と思ったら、はるかに悪質な事件なのに何故か懲役18年。裁判官が拠って立つ基準である「判例」がなければ、このようなことだって起きかねません。

 先にも書いたとおり、裁判官は国家権力の代行者であります。その代行者が、ある者はAと言い、ある者はBと言っているようでは、これは国家権力の威厳に関わります。「判例に捉われない判決」の失当性はここにあります。

 また、それ以前に、何を以って「残虐」とか「悪質」とするかも基準が無くては設定できません。「判例」はその基準でもあります。「判例に捉われない判決」が実現不可能であることの主因はここにあります。

 もちろん、「判例が示す基準がおかしい」として、基準の改訂をすべきだという主張や、ある事件をどの事件群に分類するかについては大いに議論の余地があります。しかし、「判例に捉われない判決」つまり、「共通の基準無き裁定」というものが如何に問題のある言説であるかということは、上記をお読みいただければご理解いただけるのではないかと思います。

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2009年02月16日

2・16

 本日は偉大な金正日将軍の生誕記念日です!遠く日本の地から精一杯のお祝いを申し上げます!


 つづいて、当方の近況をご報告いたします。「病は気から」なのか「気は病から」なのか良く知りません(ほぼ同時だったため)が、ここ最近ずーっと、そのどちらの調子も悪うこざいます。まあ、今までも何度かこういうことあったので大したことないとおもうし、傍から見れば全然平気そうに見えると思うんですが、今まさに「低空飛行中」の身から率直に言わせて頂けば、結構大変だったりします。我ながら情けないなあ。

 さて、よく世間では、特に精神的不調について「甘え」と断ずる批判がありますが、こういうことが数年周期程度で来るらしい身から僭越ながら言わせていただくと、たとえその不調の原因が「甘え」であったとしても、大変なもんは大変なんですよ。何に対してどれだけ耐性があるかなんて人それぞれなので、ある人にとっては大したこと無い問題でも、他人にとっては深刻だったりするんですから。

 こういう分野においてもそうだし、たとえば、「派遣村」をめぐる議論においてもそうでしたが、どうも昨今は「甘え」をはじめとした精神論的な批判が流行っている割には、それに対する対策、言い換えれば、「甘えん坊」からの脱却のノウハウを教える広い意味での「教育」があまりなされていないように思います。ただ精神論に基づく批判を展開しているよりも、議論を呼ぶ方法ではあるものの、独自の解決策を提示して実践している「戸塚ヨットスクール」の方がまだマシなんじゃねえかとすら思えます。

 ところで「教育」で思い出したんですが、大阪の橋下知事が就任1年で黒字化を達成したとのことです。新聞の見出しを見た段階では「おお、案外やるじゃん」と思い、あるいは今までの見解を訂正しなくてはならないかもしれないと思っていたのですが、削ったものの内容をくわしくみると、教育や医療関係といった、削っちゃいけない、削るにしても最後の最後に苦肉の策としなくてはならないものを率先して、大々的に結構けずっているような気がするんですがどうなんでしょう。「なんかまるで借金取りの取り立て方だなー」と思いましたが、そういえば橋下って元は借金取りの顧問弁護士だったんだっけ。。。

 まあこの辺については、そのうち書こうと思います。ハイ。
posted by s19171107 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記じゃない雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

単なる「ネット中傷」ではない

http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/090205/tky0902051047003-n1.htm
>>> ブログ「炎上」ついに摘発 芸人を「人殺し」と中傷、18人を書類送検へ
2009.2.5 10:46

 お笑い芸人の男性(37)のブログに「人殺し」などと中傷する書き込みをしたとして、警視庁中野署は5日、17〜45歳の男女18人を名誉毀損容疑で近く書類送検する方針を固めた。ブログの悪質な書き込みが短期間に集中する現象は「炎上」と呼ばれ、著名人の言動をきっかけに始まり、ブログを閉鎖する事態に発展することも少なくない。こうした書き込みの一斉摘発は初めてという。

 同署によると、書類送検されるのは、札幌市の女子高生(17)、大阪府高槻市の国立大職員の男(45)ら。自宅や職場のパソコン、携帯電話から書き込んだことが確認され、事情聴取に「殺人犯だと思い込んでしまった」などと供述しているという。

 同署で通信記録を調べ、書き込みをした数十人のうち、悪質な書き込みを繰り返した18人を特定。18人は昨年1〜10月、男性のブログで「人殺しが何で芸人やるんだ」「死ね、犯人のくせに」などと事実無根の内容で中傷した疑いが持たれている。

 これとは別に、同12月に「殺してやる」と殺害予告の書き込みをしたとして、川崎市の20代の女が脅迫容疑で書類送検されている。

 男性の所属事務所が「(東京都)足立区出身の元不良」というキャッチフレーズで男性を売り出したことがきっかけで、インターネットの掲示板などで、平成元年に足立区で少年4人が起こした女子高生コンクリート詰め殺人事件に、男性が関与したとの書き込みが始まった。

 事務所が関与を否定しても書き込みは続き、男性が昨年1月にブログを開設すると、さらに悪質な書き込みが殺到。中傷は合わせて数百件に上ったという。男性はブログの書き込みを制限し、同8月に同署に被害届を出していた。
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http://www.yomiuri.co.jp/net/news/20090205nt19.htm
>>> 炎上ブログに「殺す」…脅迫容疑、29歳女を書類送検

 バラエティー番組などで活躍した男性タレント(37)のブログが悪意の書き込みで炎上した事件に関連して、警視庁中野署は4日、このブログに男性の殺害予告を書き込んだとして、川崎市の派遣社員の女(29)を脅迫容疑で書類送検した。

 同署幹部によると、女は1989年に東京・足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人に男性が関与したと信じ込んで男性を脅しており、「許せなかった」と容疑を認めているという。

 同署幹部によると、女は昨年12月26日、自宅のパソコンから男性のブログのコメント欄に、「殺す」と書き込みをした疑い。同庁は、ブログを攻撃した17〜45歳の男女18人を名誉棄損容疑で書類送検する方針だが、その捜査の過程で女の脅迫行為が浮上した。

 男性を巡っては、ネット上の掲示板や、男性が昨年1月に開設したブログに、コンクリート詰め殺人事件の犯人であるかのような事実無根の書き込みが殺到。男性は昨年4月に書き込みを制限するとともに、同署に被害届を出していた。

 捜査関係者によると、女は、男性がブログの制限を解除した後の昨年12月24日、人気女性タレントの飯島愛さん(当時36歳)が渋谷区内の自室で遺体で発見された際、飯島さんのホームページなどを見て男性と飯島さんがこの殺人事件に関与したと誤解。「殺人のような犯罪に加担した人は許せないと思った」と供述しているという。

(2009年2月5日 読売新聞)
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 報道は被害者である男性芸人の視点から「名誉毀損」「ネット中傷」として報じていますが、当ブログでは以前より、刑事事件はあえて「加害者の視点」から考える立場をとっていますので、今回も例によって書類送検された連中の視点・言い分から本件を見てみたいと思います。

 本件に関する加害者本人の言い分は、以下の記事が詳しいと思います。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20090206-OHT1T00068.htm
>>> 悪質書き込み全員「犯罪になると思わなかった」

 ヨン様の物まねなどで知られるお笑い芸人・スマイリーキクチ(37)のブログに、本人が殺人事件の犯人であるかのような書き込みをしたとして、警視庁中野署は5日までに、17〜45歳の男女計18人を名誉棄損の疑いで書類送検する方針を固めた。また、別の1人が既に脅迫容疑で送検されている。

 スマイリーさんのブログに、脅しや中傷を書き込んだとされる19人全員が「犯罪になるとは思わなかった」と供述したという。ネット社会では匿名性に隠れる形で、犯罪性の認識が薄いことが浮き彫りになった。

 「正義感のつもりだった」。脅迫容疑で書類送検された川崎市の会社員の女は、ネット上でスマイリーさんが事件に関与したかのような書き込みを発見。「許せない」と思い、ブログのコメント欄に「殺してやる」と書き込んだという。

 昨年、韓国では国民的人気女優の崔真実さん(当時39歳)が、ネットで「金貸し」などとの中傷を受けて自殺したとされる。これを機に、書き込みの実名義務化などの法整備を検討する事態にまで発展した。

 IT分野に詳しいジャーナリストの佐々木俊尚さんは「ネットの世界では、他者の批判に乗っかってしまう人が多い。日本でも抑止力になるような規制が必要では」と警鐘を鳴らしている。

 炎上を防ぐ自衛策はあるのだろうか。ITジャーナリストの井上トシユキさんは「極端な表現や差別的表現、エキセントリックな内容を避けるべき。1人でブログを書いていると錯覚を起こしやすいのだが、常に見知らぬ人の前で大声でしゃべっているつもりで書かなくてはいけない」と指摘する。

 技術的には非難、中傷があった送り先に対して、アクセス制限をかけることも可能だが「やりすぎると『一方通行で議論に応じないブログ』という印象を与え、かえって炎上を誘発する要因になりかねない」(井上氏)ので注意が必要だ。

(2009年2月6日06時01分 スポーツ報知)
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 また、上記読売配信記事においては、以下の部分が当てはまると思われます。
>>>  捜査関係者によると、女は、男性がブログの制限を解除した後の昨年12月24日、人気女性タレントの飯島愛さん(当時36歳)が渋谷区内の自室で遺体で発見された際、飯島さんのホームページなどを見て男性と飯島さんがこの殺人事件に関与したと誤解。「殺人のような犯罪に加担した人は許せないと思った」と供述しているという。 <<<
 産経配信記事では以下の部分が当てはまると思われます。
>>>  同署によると、書類送検されるのは、札幌市の女子高生(17)、大阪府高槻市の国立大職員の男(45)ら。自宅や職場のパソコン、携帯電話から書き込んだことが確認され、事情聴取に「殺人犯だと思い込んでしまった」などと供述しているという。 <<<
 典型的な「感情屋」の行動パターンを見せてくれています。

 さて、書類送検された連中が「感情屋」であることはほぼ確定したと言っても良いと思います。以前より当ブログでは、「感情屋」の言説を分析することを通して、彼らの思考回路の仕組みに迫ってまいりましたか、その経験から申し上げると、「殺人犯だと思い込んでしまった」というのは、言い逃れではなく真実であると思います。つまり本件の場合、連中の思考回路においては、男性芸人がコンクリ事件に関与していたということは「事実」であり、問題となった一連の行動は「疑惑追及」だったのです。言い換えれば、最初から言説の内容が虚偽であることが分かっていた、自分の行為が「中傷行為」であることが分かっていてもなお書き込み続けたのではなく、書き込んだ後からそれは事実ではなく、結果的に「中傷」にあたる内容であることを理解したのです。前者と後者は決定的に異なります。

 このような認識に立って本件を改めて見直すと、本件は単なる「ネット中傷」として片付けられる問題ではなく、広く「疑惑取材活動」にも関わる重大な問題であると言えると思います。なぜならば、疑惑取材活動というものは、取材実行時点では疑惑の真偽は不明であり、断片的な情報やウワサといった根拠とも言い得ないようないい加減なものをスタートラインとして、あちらこちらに取材活動することによって肉付けしてゆくものだからです。「書類送検(検察官送致)」というのは「逮捕」ではありませんが、もし、本件によって提起された問題が今後、逮捕を含めた規制拡大の出発点となるならば、それは結果的に「疑惑取材活動」を萎縮させることとなりかねません。

 民主国家を正常に運営してゆく上で「疑惑取材活動」は必要不可欠な活動であることには異論は無いでしょう。我々は「疑惑取材活動」の余地を守らなくてはなりません。そのためには、下手すると「疑惑取材活動」の規制のキッカケにもなりかねない本件の問題点を考えなくてはならず、やはり「加害者の立場」から考える必要があります。

 本件の加害者は先にも書いたとおり、典型的な「感情屋」の性質を見せています。すなわち、思い込みが激しく、自説に都合の良い言説ならばヨタ話であっても飛びつき、論理的な思考ができず、それゆえ一度こうだと思ったらとにかく突っ走る。

 上記のような「感情屋」の性質を踏まえると、結局、未だ疑惑の段階に過ぎないものを断定的に解釈してしまう連中の思考回路こそが本件最大の問題点、本件の諸悪の根源だったといえると思います。

 では予防策・解決策はあるのか。私としましては、刑事裁判を傍観する上での必須の心構え、すなわち、「話題は不確定な存在であり断定的に解釈してはならない」という心構えを常に持ち続けることこそが、本件のような問題の唯一の予防策であり解決策であると思います。

 先にも書きましたが、本件は単なる「中傷」ではありません。というか、実行者連中にとっては本件で問題になった言説は「事実」であった(と思い込んでいた)のですから、「中傷」の辞書的定義とは些か外れているとすら考えられます。もちろん、ここまで問題が大きくなってしまったし、連中の「根拠」のいい加減さときたら驚くほどなのですから、今回の書類送検は妥当な処置であると思われますが、しかし、民主国家を正常に運営してゆく上で必要不可欠な「疑惑取材活動」を規制する動きに繋がらないか、不断の警戒が必要であると思われます。


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