>>> 被害者遺族らが死刑「冷静判断」訴え…都内でシンポ死刑制度存廃問題をめぐっては、特に存置派が「遺族感情」をその主張の中心にすえるがゆえに、対する廃止派が「死刑を求める遺族ばかりではない」と応ずることがしばしばあります。このシンポジウムもまた、その論争の典型的一例であるといえます。
犯罪被害者遺族の立場から死刑制度を考えるシンポジウム「被害者は死刑を望むのか」が20日、東京都内で開かれ、約150人の参加者を前に、韓国から来日した遺族らが「死刑を求める遺族ばかりではない」などと訴えた。
主催したのは市民団体「フォーラム90」など。韓国では死刑執行が事実上停止されており、2003年10月に起きた連続殺人事件で家族3人を失った高貞元(コジョンウォン)さん(66)は「事件直後は犯人を殺してやりたいと思ったが、家族を失ったことで命の大切さを知り、犯人を許すことができた。人の命を奪う死刑には反対」と語った。
1983年1月に弟を殺害されたものの、死刑制度には反対している原田正治さん(62)も「犯人を許す気持ちになったことはないが、裁判員になった人には、様々な考えの遺族がいることを理解してもらって冷静に判断してほしい」と訴えた。
(2009年6月20日20時01分 読売新聞) <<<
確かに「死刑を求めない遺族」が居ることは確かです。もちろん、「死刑を求める遺族」だっています。これは、どちらが正しくてどちらが正しくないという問題では無いということは、以前にも書いた記憶があります。
であるからこそ、この対立軸に深入りしすぎた場合、下手すると「じゃあ、各事件の遺族感情次第で被告人を死刑にするかどうかを決めよう」という流れにだってなりえることを意味しています。裁判がまさに「被害者感情」に支配される。最も恐れるべき事態です。
このような視点で考えると、「死刑を求めない遺族」がいることは事実である以上、その存在を世間に知らせること自体は何ら悪いことではありませんが、だからといって、この対立軸に余りに深入りしすぎることは、近代司法制度そのものまでもを「処刑台」に送ることになりかねないのではないかと考える次第です。
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