>>> 阿久根市長、人件費張り紙はがした職員を懲戒免職http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090731-00000050-mai-pol
7月31日13時20分配信 読売新聞
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長は31日、市役所内に掲示していた職員人件費の張り紙をはがしたとして、40歳代の男性職員を懲戒免職にした。
竹原市長は「行財政改革を支持する市民に対する挑戦的な行為」と説明しているが、職員は「処分は重すぎる」として市公平委員会に異議を申し立てる方針。識者からも「免職にする事案とは言えない」との指摘が出ている。
市長はさらに、監督不行き届きとして、総務課長を文書訓告、市民環境課長と総務課長補佐を口頭注意処分にした。
処分後、竹原市長は「人件費削減を公約としており、張り紙は公約実現の手段の一つとして行った。職員から提出された顛末(てんまつ)書にも反省は見られない」と説明。「市役所の指揮、命令機能の危機的状況を明らかにした。事件の重大性にかんがみ、処分することにした」と述べた。
一方、男性職員はこれまでの取材に「張り紙があると職員が萎縮(いしゅく)し、ミスが増える。これでは市民のためにもならないと思い、はがした。免職は納得できない。まずは公平委員会に申し立て、処分の不当性を訴えたい」と話していた。
市職員労働組合(203人)の落正志委員長は「法を犯しているわけではなく、軽微な事案。裁判闘争も視野に断固、処分撤回を求めていく」と話している。
昨年8月の市長選で初当選した竹原市長は、自身のブログなどで職員の厚遇批判を展開。今年2月、市のホームページで268人の全職員の給与について、1円単位での公開に踏み切った。市議会との対立が深まった4月16日、「平成19年度の人件費総額16817万円(正規職員26名分)」など、市役所の各部署の出入り口に、2007年度の所属職員の総人件費などを記した紙を張り出した。
しかし、翌17日、市議会が2度目の市長不信任案を可決し、竹原市長が失職した直後、すべての紙がはがされた。竹原市長が出直し市長選で再選後の6月上旬、男性職員が「自分がやった」と名乗り出た。
市の懲戒処分は、戒告、減給、停職、免職の順に重い。市の基準によると、免職は公金横領や飲酒運転による事故などに適用し、退職手当は支給しない。2007年、飲酒運転で事故を起こした職員を懲戒免職にした例がある。市は、男性職員に対して賞罰委員会を6月に計2回開き、いずれも文書訓告が妥当との判断を示していた。
鹿児島大の平井一臣教授(政治学)は「懲戒処分を行うには、男性職員の行為が市民の不利益につながったとの明確な理由が必要。市長が考える市民の利益に反したと言うだけで、懲戒処分を行うのは妥当ではなく、理解に苦しむ。一般的に考えても懲戒免職処分を行う事案だとは言えない」と話している。
最終更新:7月31日13時20分 <<<
>>> <阿久根市長>給与の張り紙はがした職員を懲戒免職なんというか、「この手の方々」の言い分と手口の典型的なところをやってくれますねえ。すなわち、「市民に対する挑戦的な行為」と称して、「市民」を引き合いに出し、「その市民から信任されたオレの決定は絶対」といわんばかりの勢いで、識者も首を傾げるような極端な処分を出して威圧する。
7月31日13時43分配信 毎日新聞
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長は31日、市役所各課に掲示した職員給与総額張り紙をはがした男性係長(45)を同日付で懲戒免職処分にすると発表した。市の賞罰委員会は「文書訓告が相当」と市長に報告していたが、竹原市長は「自ら判断した。懲戒免職は妥当で重過ぎるとは思わない」としている。係長は市公平委員会に処分取り消しを申し立てる構え。市職労は「あまりに厳し過ぎる処分。取り消しを求める」と強く反発している。
「張り紙」は竹原市長が職員人件費の高さをアピールするため、4月16日、各課ごとの給与総額を記した張り紙を各課窓口に掲示させた。総務課には「総務課平成19年度人件費総額16817万円(正規職員26名分)」などと記した。
市長が議会の不信任案再可決で失職後の4月18日、すべてはがされ、同20日に再掲示された。5月の出直し市長選で再選した竹原市長が「張り紙をはがした者は名乗り出るよう」求めたところ、係長が6月、名乗り出た。
竹原市長は処分理由を「市長失職中であっても市長の命令は有効。それに違反したのだから処分した」としている。
係長は31日、記者会見に応じ「張り紙をはがして世間を騒がせたことは軽率な行為だったと思う。しかし懲戒免職に該当するほどの行為とは思っていません」と話した。【馬場茂】
最終更新:7月31日14時13分 <<<
この手の思考回路の何が問題かって、「正義」と行かないまでも、少なくとも「優位」の側に立つ人が、その「優位」をいいことに己の思想の全て、行動の全てがあたかも絶対的・普遍的に正しいかのように振舞うというところだと考えます。たとえば本件は、確かに、日本は国政・地方自治共に間接民主制をとっている以上は、主権者たる国民・住民の決定は、少なくとも「優位」です。ということはすなわち、その国民・住民が、ある個人を首長として信任するという決定も「優位」であるし、その信任された個人の、信任に基づく業務もまた「優位」です。ですが、いくら「優位」の決定だからといって、さすがに本件みたいな事案に対して懲戒「免職」処分を課すのはどんなもんかというのは、疑問に思わざるを得なかったりします。(失職した市長の命令の有効性というのも論点なのかもしれませんが、そこまで法律に詳しくない私は、その辺の法的事情は知りません)つまり、立場としての「正義」「優位」は、実務における「手段」と「内容」を絶対には正当化しないのです。
もっとも、こういう思考回路は本件に限らず、刑事裁判においても良く見られます。すなわち、「”犯罪者”は”悪”であるから、どんな刑罰を課しても良い。刑罰は”正義の制裁”だからだ。」という思考に基づく、犯行に対して2倍・3倍の刑罰を求める「世論」の典型的な反応です。
「正義の味方」と「悪の権化」という、幼稚園生や小学校低学年むけのヒーローショーみたいな善悪単純二分法も、現実はそんなに単純にできていない以上は、こういう見方は問題の本質を見誤るという点において十分問題のある思考回路ですが、それ以上に、「”正義の味方”ないし”優位”は絶対的な正当」という思考回路は、問題というよりは危険であるとすら言えるのではないでしょうか。
追記
そういえばAML閉鎖のときも、「元はといえばあっちが悪い」の「正義」を盾に、いくらなんでも勘弁してくれよという「糾弾」が原因だったんだっけ。