>>> ヤマト運輸が函館でメール便1万7000通未配達 委託配達員解雇へ10月15日づけ「「けしからん!!! おわり。」」に続くヤマト運輸の配達不祥事。今回はコメ欄がついていなかったので、リンクされている記事(現時点で14件)を読みましたが、「運送員の意識を上げよ」(裏を返せば「けしからん」)といったレベルの感想しか見られませんでした。
11月24日16時43分配信 産経新聞
ヤマト運輸(東京)は24日、北海道函館市内の配達を受け持つ委託配達員の男性(46)が平成19年2月から今月にかけ、配達予定だった商品カタログやダイレクトメールなどのメール便1万7321通を配達せずに自宅に放置していた、と発表した。
同社では今年8月、10月にも兵庫県などでメール便の放置が発覚。社をあげて点検作業を進めるなかで新たな未配達が発覚した。
同社によると、この配達員は19年2月ごろから、ほかの配達員の分も自らすすんで配達を申し出るようになり、配達しきれなかったメール便を自宅の物置にため込むようになったという。未配達の場合に苦情が来そうな定期刊行物や個人間の配達物は優先的に配達し発覚を逃れていた。
委託配達員は「お金がほしかった」などと話しているという。同社は近く懲戒解雇する方針。 <<<
私としましては、前回の記事にも書いたように、この問題は決して「けしからん」とか意識云々で済ませられる問題ではなく、背景において経済的な構造があるのではないかと思います。少なくとも、その可能性を検討する必要はあると思います。すなわち、本件に焦点をあわせるならば、「お金がほしかった」という動機に基づき「ほかの配達員の分も自らすすんで配達を申し出るようにな」り、そして案の定、破綻すれば「配達しきれなかったメール便を自宅の物置にため込むようになっ」た、という本記事の文脈に、昨今の運輸業界の低価格競争、たとえば、たびたび報じられるライバル社:郵便局の「ゆうパック」運送員の疲弊振りを付け加えて考えれば、あるいはヤマト運輸の運送員は、このような無茶をしない限りたいぶ収入的に苦しい環境にあるのではないか、という仮説をたてられるのではないでしょうか。
にもかかわらず、例によって今回もまた「けしからん」レベルの感想でテキトウに済ませてしまった「世論」。実はそれほど問題だと思っていないんじゃないかとも思わないでもありません(飲酒運転死亡事故の遺族のように、問題は痛切であっても、最近はちょっと変わってきたようですが、それでも基本的に「けしからん」路線を貫いている人たちもいますから、分かりませんけどね)。
ところで、このような「環境原因説」とか「構造原因説」と言い得るような仮説をたてると、たとえば「派遣村」においても顕著だったように、「がんばっている人もいる」という風な「反論」をいただき、それを以って「にもかかわらずこういうことをやるのは、やはり、当人がけしからん人間だからだ!」という結論を導き出そうとする人がいます。今回はサンプルが少なかったので、直にそういう議論を展開している人はいませんでしたが、先にも書いたとおり、「派遣村」ではそういう議論の展開を見せた人がいたことは、皆様も良くご存知かと思います。
確かに「けしからん」かと言えば「けしからん」のですよ。しかし、私が繰り返し申し上げているのは、「果たして『けしからん』 だ け で済ませてよいのか」と言うことなのであります。すなわち、たとえば本件では、もし経済的環境が本件のような不祥事の原因であるならば、もちろん経済的に困窮しているからといってこういうことをやってよいという免罪符にはならないものの、こういうことが起き続けることは避けられません。その点において私は、本件を「けしからん」で済ませてはならず、「経済的環境原因説」に基づいて実証的に分析することは重要であると考えます。また、もし「経済的環境原因説」が正しいならば、昨今の低価格競争がその根本にあることは疑いないことになると思われます。とすれば今後、更にキチガイ染みた低価格競争が続けば、単にこういう不祥事が続くのみならず、「けしからん」で物事を済ませたがる人がしばしば引き合いに出す「がんばっている人」たちが、市場から退出することもありえることは、実に容易に想像できることであり、その点においては、あるいは本件は、このままの状態が続いた場合における運送業の将来を示す「シグナル」ともいいうる問題であるともいえるでしょう。やはり、決して「けしからん」で済ませられる問題ではありません。
ところで、では何故、「世論」は何事につけ「けしからん」で済ませようとするのでしょうか。私としましては、「世論」の思考回路においては、物事の「分析」に際して「規範的に分析する」ということと「実証的に分析する」ということに分化しておらず、常に何事も「規範的」に分析しようとする傾向にあるからなのではないかと考えております。
「規範的に分析する」ということと「実証的に分析する」ことの違いとは何か。どのように見極めるのか。それほど難しい話ではありません。典型的な前者的分析の語尾は「べきである。」であるのに対して、後者のそれは「である。」という違いです。すなわち、前者は事実に対して主体が如何思うか(どうあるべきか)というレベルであるのに対して、後者は事実を述べている(どうであるか)という点において相違があります。
本来ならば、「規範的な分析」を下すためには「実証的な分析」が不可欠であることは言うまでもありません。しかし、「規範的な分析」と「実証的な分析」の違いが分化していないがゆえに、こういう「実証的な分析」が不可欠な問題に対して、単に「けしからん」で済ませてしまったりする。この傾向がひどくなると、「規範的に分析」しようにも実証の下積みが無いために、結果的に妄想で穴埋めしたりすることに繋がるのではないでしょうか。
「なぜ、常に何事も『規範的』に分析しようとする傾向が生まれるのか」については、ちょっとまだ見解を公表するほど資料が集まっていないので、その点については今後の研究課題としたいと思います。