余り更新していないのに、アクセス数統計を見ると、毎日ある程度のご訪問を頂いているようで、せっかく来ていただいているのにネタを供給していなくて申し訳ないです。あまり個人的なことを書いても仕方ないのですが、まあいろいろあって(´・ω・`)
研究していないわけじゃありませんよ。一応、今まで取り上げてきたテーマは細々とではありますが、ある程度はやっているつもりです。特に2月10日づけ「「理性派」の「感情屋」的側面」で取り上げたテーマなんかは、共産党や民青同盟の発表や、私の周りの、「科学的」という言葉が大好きな人たちの言動をもとに、とりあえず「『理性派』はどの程度『感情的』なのか」を、比較的頻繁に考えていたりします。ちなみに、このテーマがある程度固まったら、そのうち「なぜ『理性』を掲げながら実際は『感情的』なのか」を考えたいと思っています。
ただ、「『理性派』の『感情屋』的側面」って、なかなか取り上げるキッカケが無いんですよね。今の時代って「理性派」といえるような人たちの影って薄いですから。あらゆる場面で「感情」とか「感覚」、広く言えば「庶民目線」とかそういうのがもてはやされている時代ですから。
でも、あえて今日、ここで一つ書くとすれば、前掲2月10日づけ記事でも取り上げた「シロクロ二分法」について。いかにして彼らは「シロ」と「クロ」に二分割するのだろうかという話です。
私の周りの「理性派」ならびに「理性派」の無神経で高慢な発言の被害にあった同務たちの話を基にしているので一般化できるかは分かりませんが、やっぱりこの手の人たちって「そんなに簡単に行ったら苦労しないよ」というようなことを声高に掲げてくださいます。私が言いたいこと分かりますよね?何となく。うん、たぶん今、あなたが頭に浮かんだようなことです。
みんないい年しているんで、いちいちそういうことに反応せずに無視したり、あるいは「へぇー」とか「そんなこと知らなかったよー」くらいしか言いませんし、私もそういう風に受け流していますが、彼ら、TPOを余り考えないので、たとえば飲み会で愚痴話が始まったりしても、それを単なる愚痴話として流してくれないんですよ。愚痴って、主たる目的は「共感してもらうこと」なのに、共感もそこそこに、聞いてもいない「解決策」、それも突拍子のない「解決策」、ほとんど実現可能性のない「解決策」なんかを提示されると、愚痴の内容やその日の感情の波、酔いの程度によっては、「そんなこと言ったってしょうがないでしょ!」「そんな言い分、通用するとおもってんの?!」と言ってしまったりします。まあ仕方ないよね。
さてここからが問題です。「シロクロ二分法」で物事を考える自称「理性派」に歯向かってしまいました。敵認定されてもおかしくありません。でも、同じようなことを言っているのに、敵認定される人もいれば、されない人もいるんですよね。されちゃった人は可哀想なことに、あることないこと言い立てられる一方で、されなかった人は逆に、懇切丁寧に啓蒙の対象にされるんですよね。私の周りでも、反対姿勢をうっかり口にしてしまったのに、なぜか、そっち系に好意的に扱われ、懇切丁寧な啓蒙を受けている人(本人は相当、迷惑そうだけどw)もいれば、たいしたことは言っていないはずなのに、何だか敵認定されちゃった人がいるし、、、
この辺の違いって何なんでしょうね? 社会レベルで見れば、「敵味方の認定をする主体たる自称『理性派』の人間的な器の大きさの違い」という解釈も可能ですが、同一の認定主体のレベルに拡大倍率を上げると、認定対象によって、同じようなことを言っているのに、ある人に対しては「敵」、ある人に対しては「啓蒙対象」の認定をしているように、一見すると恣意的である。実に不思議です。どこまでが「許され」て、何処からが「許されない」んだろう? どこまでが「無知が故」で、何処からが「敵対思想の持ち主」なんだろう?
とまあ、こんなことを考えていたりします。残念ながら、この問題について暫定的見解はまだありません。なんか思いついたら、つらつらと書こうと思います。更新頻度のみならず、内容も気分次第の日記になりますが、ネタ供給できるように頑張ります(`・ω・´)