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2010年06月15日

「違法だから」

 昨今、新聞紙面等を騒がしている角界の野球賭博問題に関して、Yahooニュースで「賭博」と入れて出てきた幾つかの記事とそのコメント欄を2〜3分程度で読んだ限りにおいて、例によってコメ欄の動向について。

 コメ欄に常駐している方々は、たとえば人命に関わる刑事事件において、自分の感覚(感情)にそぐわない処分がくだされたりすると、「庶民感覚」なるものを、法律よりも優越する概念として持ち出します。つまり、彼らにとっては「自己の感覚・感情>法律」です。しかし今回の一連の問題においては、「違法だから」という理由を以って、関係者への厳しい処分を求める声が少なくありません。

 この現象は2つの点において興味深いです。すなわち、ひとつに、彼らの法律観が透けて見えているところ、そしてもうひとつに、彼らの賭博観についてです。

 法律観について。先にも書いた通り、コメ欄の中の人たちは「自己の感覚・感情>法律」です。なのに今回は、「違法だから」と口にしています。この矛盾している行動の違いからは、彼らの、自説に都合の良いものならば何にでも、たとえ普段は省みもしないものであっても、飛びつくという性質が良く現れていると思われます。

 賭博観について。確かに賭博にはしばしば893の影がちらついているので、反社会的かといえば反社会的である可能性は決して低くないのですが、しかし必ず893が絡んでいるかといえば、そういうわけではなく、ただ単に、仲間内で金銭を賭けていただけかもしれません。賭博罪には、賭博行為を違法とすることによって保護される法益があると説明されていますが、一見する限りでは、殺人罪のように万人が認めるほどの保護法益ではないようにも思います(「違法だからやんないけど、別に良くね?」という人は少なくないと思います)。しかし、コメ欄は非難一色。実はコメ欄の中の人たちが法律をものすごく勉強している人たちだったというのならば話は別ですが、そんなわけないことはいつもの調子を見ていれば分かります。果たして彼らの、ここまでの強硬姿勢と何なのでしょうか? 今日の段階では私には分からないです。
posted by s19171107 at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月02日

「障害者の犯罪」と「世論」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100528-00000013-mai-soci
>>> <詐欺罪>無賃乗車の男性 障害考慮し逆転無罪…東京高裁
5月28日2時33分配信 毎日新聞

 タクシーに無賃乗車したとして、詐欺罪に問われた千葉県香取市の無職男性(52)に対し、東京高裁が1審の有罪判決を破棄し、無罪を言い渡していたことが分かった。金谷暁(かなやあきら)裁判長は「1審は精神障害を考慮せずに詐欺の故意を認めた点で誤りがある」と指摘した。検察側は控訴期限の26日までに上告せず、男性の無罪が確定した。

(以下略) <<<
 リアルでタブー視されていることがネット上では大々的に取り上げられるということは往々にしてあります。障害者に関する話題もその一つです。「障害者の犯罪」ともなると、責任能力の問題から、リアルで話題にすることは一層のタブーとなり、その反動からか、ネット上での言説はますます過激で攻撃的なものになります。

 本件は、そんな「障害者の犯罪」であり、そのネット世論については、「普段、口にすること自体が抑圧されているが故の反動」という要素を考慮に入れ、ある程度、その表現の毒々しさを差し引かなければならないと思いますが、しかし、それを差し引いてもなお、指摘しなくてはならないことがあると思います。

 すなわち、少なくない「世論」曰く、「障害があるからといって許されるのはケシカラン」と。おなじみの勧善懲悪です。確かにそういう角度から「障害者の犯罪」を見ることは、妥当かどうかは別にして、可能であります。しかし、別の角度から「障害者の犯罪」を見ることも可能なはずです。すなわち、「善悪の判断もつかないような障害者を、ちゃんと鎖に繋いでおかなかったのは誰だ!」という角度です。

 この角度は、触法障害者本人の行為責任は問わず、その監督者の監督責任を問うものです。まさか、この手の人たちが「障害者を鎖に繋げなんて人権侵害だ!」などと言い出すとは考えられないので、やはり妥当かどうかは別として、出てきてしかるべき角度だと思います。しかし、実際はそれほど多くは見られない。何故でしょうか?

 私としてはこれは、「怒り」を、問題の構造的な部分に注目せずに、分かりやすくて手身近な対象にぶつけているがゆえではないかと考えます。すなわち、犯罪において、分かりやすくて手身近で「怒り」の対象として妥当な存在は、「犯罪実行者本人」です。しかし、実際は「犯罪実行者本人」は、問題の構造の中では「発動機」(←決定的役割を果たす)ではなく「歯車」(←決定的な役割は担わず、他の要素の作用次第では現象化しないことがあり得る)でしかないということは往々にしてあります。彼は「発動機」なのか「歯車」なのかを見極めるには、問題の構造を見なければなりませんが、彼らはそれを見ようとしません。だから、彼らは短絡的に怒りをぶつけているのではないのでしょうか?

 ではなぜ、問題の構造を見ようとしないのでしょうか? 分かりやすくて手身近な対象に感情をぶつけたほうが手っ取り早いという単純明快な理由ももちろん考えられますが、そのほかの理由も考えられると思います。そのヒントは光市事件場外乱闘にあると思います。すなわち、光市事件では、被告側の主張に対しては、賛同するか否か以前に、その主張を聞こうとすること自体が悪とされていました。つまり、事件の背景・構造を知ろうとすること自体が「禁止」されていたのです。

 なぜ、事件の背景・構造を知ろうとすること自体が「禁止」されていたのか、いるのでしょうか? それは、事件の背景と構造を探り、そこに原因を求めることは、行為主体を免罪することであり、彼らの機械的単純勧善懲悪趣味に対立するからではないでしょうか? たとえばそれは、「派遣村」に代表される昨今の雇用問題をめぐる原因論争において、「自己責任」論者が、ほんのわずかにでも原因に「社会構造」を持ち出されると、徹底的な「自己責任論」の立場からの、しばしば根性論(=当人の根性が足りないのが悪い、当人が100%悪いのであり、同情や免罪は、してはならない)すらも含む「反論」を見せる(昨今の雇用問題の原因は「自己責任論」にも「社会構造責任論」にも一元的還元にはできず、複合的な現象だと思います)ことからもお分かりいただけるのではないでしょうか。

 もちろん本件のように、「障害」という背景・構造をもとに行為主体を「免罪」するという場合だってありえます。しかし、それは当然にあり得ることです。人間が自己の意識を常に、完全に統御統制できるというのは思い上がりです。

 このように考えると、結局、「障害者の犯罪」の「世論」において、「善悪の判断もつかないような障害者を、ちゃんと鎖に繋いでおかなかったのは誰だ!」ではなく、「障害があるからといって許されるのはケシカラン」がもっぱらである理由というのは、分かりやすくて手身近にいる対象に短絡的に怒りをぶつけているから、あるいは、問題の背景や構造に原因を求めることは行為主体を免罪することであり、機械的単純勧善懲悪趣味に対立するから、というのが考えられると思います。そして、この機械的単純勧善懲悪趣味の背後には、人間が自己の意識を常に、完全に統御統制できるという思い上がりが潜んでいると考えられます。
posted by s19171107 at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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