派遣労働者の“反乱”が始まった!世の中には時期ごとの労働需要に大きな差がある企業がある以上は、「派遣を全廃」するというのは極論であると言わざるを得ず、そもそも、派遣労働者関係の問題における主要な問題点は、低賃金と雇用の不安定にあるのですから、同一労働同一賃金保障や、あるいは、派遣先から解雇されることはあっても派遣元からは滅多には解雇されず、次の派遣紹介があるまでの派遣労働者の生活は派遣元が責任を持たせることが必要であり、それが現実的な解決策なのではないかというのは、以前の記事においても書いたとおりです。
●もう小手先改善ではダマされない
東京・秋葉原の無差別殺傷事件をきっかけに派遣労働が注目されている。派遣だから犯罪を起こすワケではないが、確かに彼らの生活は悲惨で、派遣労働者の犯罪も目立つからだ。労組系団体などは国や企業に待遇改善を求める要望書を提出。静かな派遣労働者の“反乱”が始まっている。
トヨタなどの下請け会社の労働問題に取り組む愛知県の「非正規労働者共同センター・名古屋駅前グループ」ら5団体は13日、派遣法の規制、セーフティーネット確立などを求める文書を舛添要一厚労相に提出した。
「今回の事件で特に問題視しているのは、犯人が『住み込み付き』の派遣労働者だったことです。多くの企業は『社員寮は管理、維持コストがかさむ』として、派遣会社に人材と住む場所をセットで求めている。そのため、派遣労働者はクビになると職だけでなく、住居も失ってしまうのです。全国のネットカフェには職を失った派遣労働者が寝泊まりしている。国は企業に、労働者が次の職を見つけるまで住居保証させるべきで、そうした要求を考えています」(愛知連帯ユニオン・元座委員長)
同グループ以外でも、ガテン系連帯(東京)が20日、加藤智大の派遣先「関東自動車工業」に問題点改善を申し入れるという。
こうした現場の声を受け、自民、公明両党の「与党新雇用対策に関するプロジェクトチーム」は10日の初会合で、労働者派遣制度の見直しを議論。町村信孝官房長官も11日の会見で、派遣制度の在り方を見直す必要があるとの認識を示した。「今ごろ、遅いよ」だが、人材派遣大手のグッドウィルグループのデタラメも発覚し、政府も重い腰を上げざるを得なくなったのである。蟹工船のような労働派遣は改善されるのか。
「派遣法は小泉内閣で大幅に規制が緩和され、今日の事態を招いている。同じ穴のムジナである福田内閣に抜本的対策ができるかどうか。一部見直しなどの小手先でなく、抜本対策を急がないと形だけの改善でお茶を濁されてしまう懸念があります」(労働問題に詳しい国立大教授)
この際、派遣を全廃するくらいやらなければダメだ。
いやはや、さすがゲンダイ。世の流れに中途半端に乗っかっているがゆえに、こんな極論を書いてしまったようですな。
そして、例によって「世論」を採取していると、「派遣を全廃」という部分に噛み付いている人がいます。多くは、「全廃したらしたで、そのあとどうすればいいの」という、至極妥当なものが多いのですが、しかし一方で、昨今流行の「自己責任」論を振りかざして眼をそむけようとしているのもあります。
最初から派遣の仕事を選ばなければいい。またも勉強中の身でありながら、僭越ながらチュチェ思想的発想を援用して。。。
なぜ、派遣の仕事を選んだか、その場所にたどり着く過程をもう一度見つめなおせばいいと思う。
派遣の仕事を楽しんでる人だっているわけだし、なぜ、派遣が悪いという結論にいくのかが理解できません。
派遣会社で働いていた人間の犯罪が多い?
笑わせるなって感じです。
ゆとり教育世代の犯罪が多発したときは、ゆとり教育が悪いとかいってなかったっけ?
これで、派遣会社がなくなったら、今派遣会社で働いている人はどうするつもりなんでしょうかね?
もし、この事件が原因で派遣会社がなくなって、働く場所がなくなった人が同じような事件を起こしたら、次はどこに矛先が向くのでしょうかね?
実際酷いところだってあるわけだから、派遣会社を擁護する気はありませんけどね。
この、“反乱”の結果はどうなるのでしょうかね・・・
ええとですね。チュチェ思想は、マルクス・レーニン主義の唯物史観を母体としています。その上でチュチェ思想は、歴史発展の原動力を、自主的に生きようとする意識性をもち、目的意識的発展志向で世界を改造・創造する「人間」に求めています。しかし、人間は現実に物質世界で生活している以上は、物質世界における客観的環境条件に左右されることも同時に指摘してます。
ゆえに私としては、人間には「自主性」という本質がある以上は、全てを「客観的環境条件」にせいにすることは誤っていると考えますが、一方で、その「自主性」は物質世界における客観的環境条件に左右される以上は、全てを「自己責任」に帰することも重大な誤りであると考えます。
その点、全ての原因を「自主性」に還元する「最初から派遣の仕事を選ばなければいい」というこの言説、すなわち、全てを「自己責任」に還元するにこの言説については、果たしてそのように認識することは正しいことであろうか、と疑念を感じざるを得ません。
もうひとつ、類似の記事と、それに対する反論コメントの一セット。
だったらなぜ派遣会社に就職したのか、と思うわけよ。
そういうリスクがあるのを知って就職するんではないのですかね?
知らずに就職するならば、勉強不足と言われても仕方ないだろうし
知ってて文句をいうのはお門違いだと思う。
他に道がなかったと言うならば、今までのことを振り返ってみたらいい。
働けて、お金が入ればどこでもいいっていう安直な気持ちで就職活動をやったならばその報いは受けなければならない。
さらにいうならばフリーターとかは派遣より状況がきびしいですよな。
派遣で福利厚生まで安定するなんてよほどの大手でもないと難しいのではないかね?。
通常の正社員ですら怪しいし。
1
ニュースから来ました。
失礼ながらあまりにも現実を知らないのではないかと。大学新卒でも底辺校だと日雇い派遣しか就職先がないという学生が多数います。正規雇用が控えられる中で他に選択肢がないから非正規雇用を選ばざるを得ないのです。
誰もが非正規雇用の不安定さは知っています。なりたくて派遣社員になる人がいるでしょうか?
2
↑
入学できればどこでもいいっていう安直な気持ちで大学受験をやった報いを受けているんでしょうね。
ニュースから失礼しました。
3
>>1さん
いらっしゃい。
だからね、派遣しか選択肢がない状態にしちゃった原因って何さ?って話ですよ。
底辺校ならば派遣しかないのが当たり前といいますが、だったらなんでそんなとこ入ったの?と言いたい。
大学入試の段階で将来設計とか難しいのでしょうかね?
4
>2さん
いらっしゃい。コメント付けてる間にわたしの言いたいことを言っていただいたようで。
そういうことなんよねぇ。
就職に限らず人生の岐路ではちゃんと考えなきゃならんよってこと。
5
ニュースから来ましたよこんにちは。
つまり、人生にやりなおしなんてありえないと言うわけだ?
派遣やフリーターの人には若い人も多いと思うんだけど、大学の選択や初めての就職先を間違えた段階で二度と這い上がれない人生が確定してしまっていいと、そういう事なわけだ?
もし、そこは一流だと思って就職した会社が潰れたら、人生も潰れてしまっていいと。
6ここまで来ると逆に爽快感すら感じます。一度レールに乗ったらもう後戻りできない。「自主性」もクソもあったもんじゃありませんね。
いらっしゃい。
イエスかノーかで言うならばイエスです。
もちろん、リトライのチャンスはあるに越したことはないけどね。
選択を誤ったことに対するペナルティはあって当然だと思います。
でも、取り返しのつかないミスってのは一発ではなかなか起きないもの。
是正できるときに是正すればある程度はなんとかなるもの。
転ぶのは当たり前にあるけど、転んだときに自分で起き上がれるような備えはしないとならんとは思います。
社会が悪い、制度が悪いというのは簡単だけど、やるべきことはやってからいわないと。
ところで、>>2のような「自己責任」論を振りかざす以上は、選択に際しては、社会的情報提供はしているんですよね?何、そこからして「自己責任」?それは「責任放棄」って言うんですよwwwwwww大体、大学進学するかどうかってときはまだ未成年ですよwwwwwwwwwwwwwww
それ以外に、いくつか眼に留まったものも記録します。
負け組は自己責任そしてモノをいった挙句に左遷・解雇というお決まりのコースをまっしぐらというわけですね!
なぜか。
負け組にだって日本国憲法で保障された様々な権利があるし、選挙権・被選挙権も平等にある。偽装請負でも、実態から判断して労働者なら、労働者として様々な権利を有する。
小林多喜二の時代であれば、文庫本『蟹工船』をポケットに入れて歩いているだけでも逮捕された。
しかし、今は自由にモノが言える。結社の自由もある。
負け組自らがこれら権利を行使せず、エネルギーを社会変革へ向けようとしていない以上、やはり全て己の責任とも言えるのではないか。
高校の政治経済の授業の記憶によると、憲法に定められた結社の自由は直接的には私人間には適用されなかったはずなんですけどね。いつの間にか変ったんですか?それとも私のひがおぼえ?
秋葉原の事件について、こういう観点からの報道が全くされなかった事は、各報道機関が如何に視聴者の興味を引くかを優先しいて、社会問題の解決には無関心である事の証明だと思う。私はチュチェ思想をガチで勉強している身であるため、やはりそっちに共感ある人間であります。その私としましては、ここ数百年の資本主義社会発展の原動力であった、「より良い生活へ突撃する向上心」については否定しません。それはチュチェ思想において、「人間の根本」と定義されている「自主化」への願望と、そう大きくは違わないと考えるからです。そして、「より良い生活へ突撃する」過程において自然発生する「競争」についても、これそのものについては否定しません。だって自然発生するんですから。
加藤容疑者を『25歳、塗装工』ではなく『25歳、派遣社員』と表現する機関ばかりだった事からも、派遣社員という立場を容疑者の言う『負け組』の一つとして認めている事が伺えるし、又、あのような犯罪に至る原因を容疑者自身の欠陥・問題に求めようとする報道ばかりだった。
その様な見方をする事が、容疑者の様な立場の人達を追い詰めてるのに。
マスコミが揃いも揃って、そういう価値観を撒き散らすというのはどうなの?
確かに、社会的地位を競う勝負に負けたからそこに居るのだけど、何人かに一人という確率で誰かが負けるんでしょ?
それだって、社会の一端を担っている事には変わりは無いはず。
いくら資本主義社会と言っても、そういう人達も努力すれば生きて行ける様な社会にしないといけないと思います。
じゃなければ資本主義なんて勝者が弱者から色々な物を奪い取る為のルールにしか過ぎないし、そんな社会で弱者が生きて行く意味なんて、なくなって当然とも言えるんじゃないかな。
しかし、私が「資本主義」ではなく、「チュチェ思想」の方に傾いているのは、昨今の「資本主義」においては、「より良い生活へ突撃する」過程で他人を踏み台にしていないか、もっと言えば、「他人の自主化への願望を踏みにじっていないか」という点において、どうも良くない方向にあるのではないか、と考えるからであります。
その点、チュチェ思想においては、「集団主義」という概念を掲げています。ここで注意しなくてはならないのは、「全体主義」との違いでありますが、これについては以前の記事で書きました。要するに「個人の利己的利益よりも、社会全体の利益を優先させるが、それは個人の基本的人権に不利益が及ばない範囲内においてである」といったところでしょうか。チュチェ思想においては、我々日本に住む者が普段「利己主義」と呼ぶものを「個人主義」と語句定義している関係上、日本的文脈におけるそれと言葉のニュアンスがズレることには注意が必要です。
まあ私自身、まだまだチュチェ思想についての勉強が進んでいませんし、チュチェ思想に共感するところが「ある」といっているだけで、「チュチェ思想マンセー」ではないので、今後はチュチェ思想への「批判」も含めて、チュチェ思想の認識を中心にブログ編集をしてまいる所存であります。
「幹部の暴走を阻止しなかった or さっさと見切りをつけなかった自己責任」に216人民ウォン。
労使関係や再就職情勢は完全に無視ですよw