<落書き>伊紙「あり得ない」 日本の厳罰処分にコメント欄より。
7月1日22時12分配信 毎日新聞
【ローマ藤原章生】「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」−−。イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。
イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。
フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。
一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は、落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
イタリアの町には落書があふれている。だから、日本人が落書をしてもかまわない、と思ってはならない。欧州人にあまり縁のない日本人の「恥の文化」を、誇りをもって彼らに知らしめたほうがいい。「厳罰は当然である」と。日本文化が「恥の文化」であるところまでは良いですが、「"恥の文化"だから厳罰が当然」という展開は本来的な意味における「恥の文化」とはちょっと違う気がするのは気のせいでしょうか。
というわけで、一生使える山川出版社の倫理用語集を参照しましたところ、以下のようにありました。
恥の文化つづいて掲載されている、ベネディクト氏の著書『菊と刀―日本文化の型』の説明文
他人にどのように見られているかを気づかい、他人に恥をさらすことを嫌う日本文化の特色の一つ。文化人類学者のベネディクト(R.Benedict 1887-1948)が主張した。それによれば、西洋文化がキリスト教に基づく倫理観を確立し、神の教えにそむくことを罪と考える文化であるのに対して、日本文化は集団の和合を重んじ、他人から非難を受ける行為をさけようとする恥の文化である。
『菊と刀―日本文化の型』以上2点を見るに、「恥の文化」なるものは個人の内面における自主的な営み・内的な圧力であるようです。一方で「厳罰」というのは、社会が個人に対して、社会的な善悪基準にもとづいて科す外的な圧力です。とすると、「"恥の文化"だから厳罰が当然」という展開はどうも直結していないように思うんですが、いかがでしょうか。
アメリカの文化人類学者ベネディクトの著作。キリスト教に基づく西洋文化を「罪の文化」、共同体の調和を重んじる日本文化を「恥の文化」と特徴づけた。集団との和合を重んじる日本人は、みずからの行為の内容の善悪よりも、それが他人にどのように見られるかを気づかい、恥をかかないように行動する傾向がある。
あーなるほど、日本人をひとくくりにして、それにおける「恥の文化」というわけですか。それなら何となく話が繋がるかもしれません。
中川氏に関しては数年前からアルコールが原因での失態が何度も取り沙汰されていたにも関わらず、海外で「醜態」つまり「恥」を晒して初めて、公に問題視され、ようやく具体的な処遇がなされた、といった感じですね。
そして、片やイタリアはじめ海外の反応は意外にあっさりして冷静なところにも妙に共通点を感じます。
>amanoiwatoさん
たしかにそうですね。この点についても今後、注意深くアンテナを張ろうと思います。