連盟賞、東海テレビ番組2本が受賞 07/04(金) 19:24更新残念ながら、東京には東海テレビの電波は入ってこないので、件の番組は鑑賞できなかったのですが、同番組特設ページに掲載されているコメント欄は、良い意味・悪い意味の両方の意味で興味深いコメントが寄せられており、その中には、どちらかというと、番組そのものの「感想」というより、この事件そのものに対する「演説」っぽいものが結構ありますので、「演説」を中心に幾つかピックアップします。(というか、番組見ていない身としては、番組内容に深入りしたコメントについては批評できない)
東海テレビが制作したドキュメンタリー2本が、日本民間放送連盟賞中部・北陸地区審査会の報道部門と教養部門で最も優れた番組に選ばれた。報道部門で1位となったのは、「光と影〜光市母子殺害事件弁護団の300日〜」。光市母子殺害事件の弁護団の密着取材を通して刑事事件の弁護活動や弁護士の職責などを描いた。また、教養部門で1位となったのは、「黒と白〜自白・名張毒ぶどう酒事件の闇〜」。「黒と白」は事件から47年が経ったいまも無罪を主張し裁判のやり直しを求めている名張毒ぶどう酒事件の奥西勝死刑囚の当時の自白とその矛盾点に焦点を絞り自白に依存する日本の司法について疑問を投げかけた。ドキュメンタリー「光と影」と「黒と白」は、今年8月に東京で開かれる中央審査会に出品される。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=10
どんな理由があったとしても、犯罪を犯したらそれなりの罰を受けなければならない。それがたとえ少年であったとしても…。光市の事件の内容を今日改めて見てそう思いました。もし4月に出た判決が死刑ではなく、弁護団の望むような判決が出たとしたら、きっとその後にまた同じような事件が起こっていたと思う。何故なら人はそう簡単に心を入れ替えて更生する事なんてできないから…弁護団の言葉を聞けば聞くほどそう思えて仕方がありませんでした。少年だから、未成年だから守るのではなく悪い事をしたら、成人もそうでなくても同じように罰を受けなければいけないと思う。昨今、よく聞かれる言説です。この手の言説は、その根底に「人殺し」を生まれつきの異質な存在と見ることがあるがゆえに成立するものでありますが、当ブログでもチュチェ97年6月30日づけ『誰でも「殺人犯」になりうる』をはじめとして、以前から指摘してきているように、所謂「人殺し」の発想というのは、何も特別異質なものではなく、「庶民」を自称する方々の中にもある、ごくありふれたものです。
また皆様におかれましては、小学校時代から「歴史の授業」というものを受けてこられたと思いますが、なぜ「歴史を学ぶ」のでしょう?それは、人間の考えることというのは時代や地域が違っても大体、同じであるからこそ、将来を予測するための知識として学ぶのです。
もし、人間というものが個人によって考え方が予測不可能なまでに決定的に違うとしたのならば、「歴史を学ぶ」意味はありません。現代世界の情勢を学ぶ「地理」と、現代世界の制度を学ぶ「政治・経済」あるいは「現代社会」のみを学べば良いのです。
しかし、実際問題として、特に大学受験などでは、文系では「日本史」「世界史」を入試科目として科す大学が多くあります。むしろ、「地理」を2次試験で選択できる大学のほうが少ないです。また、「政治・経済」あるいは「現代社会」は、センター試験での受験を必須にする所は多いですが、2次試験でこれらの科目を科すところはそれほど多くはありません。
先に「将来を予測するための知識として」歴史を学ぶと書きました。しかし「文系」というのは、何も皆が皆、社会の未来を予測して現実の政策を模索する統治者になるわけではありません。しかしそれでも、歴史的知識を持つことを求められています。これはすなわち、時代的・地域的差異はあれども、人間が似たような行動をとる傾向があるがゆえに、たとえ統治者にならないとしても、過去を知り未来を予測することによって、自分の社会が妙な方向に行かないように権力を監視する能力を身につけるために学ぶのです。
しかしこのように書くと、「犯罪を犯さない人もいる。やっぱり、あいつらは生まれつき異質なんだ」という反論を戴くものと予測します(←この「予測」も、人間の考えることが大体同じだからこそ成り立つ)ので、ここでさらに「人間の本質」についての考察を深めたいと思います。
「人間の本質」というと、本当に色々な説があり、研究が進むにつれて、むしろ分かりにくくなってきてすらいますが、特に有名且つ基本的なものとして「性善説」と「性悪説」というものがあることは、皆様もご存知だと思いますので、この2者の視点それぞれについて検討してみます。
まず、人間の本質を「性善説」と取った場合について。孟子によると、人間の本性というのは「天から授かった善き道徳性(四端の心)」であり、その善き本性を全面的に開花させるためには、「徳を育てる修養」が必要であるそうです。
その点、現実を性善説的に見れば、「人殺し」をはじめとした所謂「犯罪者」というものは、その「徳を育てる修養」が足りなかった、逆に「前科の無い人」は「徳を育てる修養」が十分だったと見ることが出来ます。孟子によれば、人間の本性は善き道徳性とのことなので、「徳を育てる修養」、つまり「教育」によって、その善き本性が全面的に開花できるでしょう。
逆に人間の本質を「性悪説」と取った場合。荀子によると、人間の本性は「生来の欲に従う心」であり、欲望のままに行動する心を放置すれば争いが起こり社会は混乱するので、「礼」による教育であると指摘しています。
その点、現実の「犯罪者」というものは、「礼による教育」が足りなかった、逆に「前科の無い人」は「礼による教育」が十分だったと見ることが出来ます。荀子によれば、本性が「悪」であっても、「礼による教育」、つまり「教育」によって立派な人格が形成されるとしています。
このように、「人間の本質」についての2大学説は、いづれも現実に存在する「犯罪者」と「前科の無い人」の根底は同じであるとした上で、その差異が「教育」によってもたらされると指摘しています。(というか、こう考えないと現実を説明ができない)
ゆえに私としては、安易に「人はそう簡単に心を入れ替えて更生する事なんてできない」と断ずることは、「人間の本質」に対する考察が不足していると感じざるを得ません。そして、以前から繰り返しているように、この考え方が極端化するとポル・ポト体制になることを決して忘れてはならないことを、重ねて申し上げます。
もちろん、だからといって誰でもやり直せるかといえば、それはまた違う。その点、私としては、少年法と刑法を同時に改正し、肉体年齢に関わらず、本人の素質と事件の性質をケース・バイ・ケースに判断することも、とるべき策の一つではないかと最近考えています。その点、「少年だから、未成年だから守るのではなく」という部分には共通する認識があるかもしれませんが、「成人もそうでなくても同じように罰を受けなければいけない」というのは、必ずしもそうではなく、ケース・バイ・ケースで判断すべきだと先に述べましたので、やはり、ちょっと違いますね。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=1
二児の母 6/10 3:27太字部分。昨今流行の「厳罰化」を支持する世論というのは、いろいろあると思うのですが、こうした感覚も、その一つとして見逃せないものではないかと思います。
私は何気なくこの番組を拝見しました。愕然としたのは犯人が12歳くらいの少年のままではなかったか?ということです。私は学生の頃に心理学を選考し、特に多重人格についての本を読みあさったことがあります。かれこれ10年以上も前の話なのでうる覚えですが、少年が目の前で殺された母に姦淫をして生き返らせようとしたというものでした。それと同じなのでしょうか?ただし、これが事実ならばどうすべきか?なぜなら、私たちにとってはとても受けいられず、信じがたく、あってはならないことなのです。そういった、いわゆる精神異常(多重人格者)や精神的に未成熟である人だからといって刑を軽くしてしまうこの法律に違和感を感じるのではないでしょうか?なぜなら、今日、私たちの安全な生活を脅かすのはそういった人たちが大半なのですから。昔は、怨恨の線でほとんどの人が罪を犯したのがほとんどです。それが今では凶悪といわれるゆえんはやはり、見ず知らずの人に簡単に殺されてしまう、またはなんの落ち度もない人が被害者になりうるということなのです。最後に私は思います。少年がトイレの水を流してくださいと言って歩き回り、最後に被害者宅で上げられ、感謝の意を述べられたとありました。その行為がなければ殺されずにすんだかもしれません。でも、被害者の母はきっと生後八ヶ月の赤ちゃんを守ろうとして感謝の意を述べたのではないかと思えて仕方がないのです。他人を家に入れるときの緊張は計り知れません。私も電話工事などで主人がいないときに上がってもらわなければいけないときの緊張感を知っています。きっと「何事もなく、無事に終わって帰ってください」と心のそこでは思っていて、作業が終わり、帰ろうとしたので不意にそのような感謝の言葉がでたのではないかと思います。そして私でもそうするでしょう。何が目的で何をしようとしたかなんて怨恨以外にないのではないのはないのでしょうか?事実は何の落ち度もない母親と赤ちゃんが安全な家の中で見ず知らずの人に殺されたということだけなのです。だからと言って弁護士の人に「弁護なんかするんじゃない」とも思いません。こういった犯罪が多くなる前になぜ?を究明するのが弁護士だと思うのです。そして、亡くなって何も言えない被害者の言葉を代弁できるのも検察だと思うのです。ただ、考えていきたいのは罪の償いかた、、、量刑も含めて日本はわかりにくいと感じています。
こういった感覚に基づく「厳罰化」を求める世論については、私としては、医療処置などの内実を明らかにするとともに、医療処置の効率性を上げることによって対抗するというのが得策ではないかと考えます。
この手の人たちは幸いにして、オノレの黒い欲望を満たさんがゆえに「厳罰化」を支持しているわけではなく、単に「怖いから隔離してほしい」というだけなので、取り込み工作もそんなに大変な作業でもないんじゃないかな、、、?
それにしても、「病気」というものは難しいものです。病気というものは基本的に、なりたくてなるものではなく、発病について誰かの責任を咎められるものではありません。
世の中には、寝たきりなど、病気のせいで自身の身体が言うことを聞かず、本人の意志に反して「何も出来ない」方々がおります。社会はそういう方々に対して社会保障給付という形で生活を支援していますが、これは、病気というものは、本人の責任でなるわけではないからであります。
「本人の意思に反して」という点では、精神疾患によって事件を起こしてしまう人もそうであります。私としては、「病気のせいで自身の身体が言うことを聞かず、本人の意志に反して何も出来ない」人と「病気のせいで自身の身体が言うことを聞かず、本人の意志に反して自身の行動の統制が利かない」人に、果たして差があるのだろうかと思う次第です。
その点、「精神的に未成熟である人だからといって刑を軽くする」というのは、治療とセットにするのならば、あってしかるべき措置であると考えます。もちろん、単純に刑を軽くして、「じゃあ、刑期満了後は自分でどうにかしろよ」というのには、社会秩序の維持という観点と、病気の人を放置する不道徳という2点から反対ですけどね。
しかしこのように書くと、「被害者がやられ損じゃないか!」という批判をよくいただきますが、しかし、責任を取れない人に対して、履行不可能な義務を科したところで、結局「やられ損」には違いないのではないでしょうか。それ以前に、そもそも加害者を処罰することで被害者の損失(主に、心理的損失と金銭的損失の2点があると思います)を補填できるんでしょうか?
本当の意味での心理的損失の補填のためには、カウンセリングなどによって解決するしか道はありませんし、金銭的損失に関しては、チュチェ97年5月25日づけ「本村洋氏講演会@鴻巣市 参加報告記録(1)」において本村洋氏の提言としてご紹介した、「福祉としての犯罪被害者への補償」という道こそが、現実的選択ではないかと思います。少なくとも、加害者を厳罰に処すこと、それも本人の責任能力を超越するような過重な責任を吹っかけることによって「被害者の損失」が補填されるとは、到底思えません。
困った人の一例。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=2
名古屋人 6/7 19:17http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=6
非常に不愉快でした。どう考えても弁護団側に有利な作り方では?こういう問題を取り上げるのなら完全中立であるべきです弁護士には取材しているのに 被害者の取材は無しですか?一番不愉快なのは 被告人の言葉を読み上げる声の気持ち悪さです!聞くに堪えない!!!せっかく寺島さんの淡々としたナレーションがあれで台無し!真面目に番組をつくるなら被告人の言葉も主観が入らないように淡々と感情抜きの声で伝えるべきです。番組への苦情などしようと思ったことなど今までありませんでしたがあまりにも気持ち悪かったのでメールする気になりました。
ねずみ 6/7 15:20確かに報道というものは、主要な対立2者の意見を平等に扱うことが肝要です。しかし、殊「ドキュメンタリー」に関しては、私としては、対立するもう一方を取り上げた別番組を同じ時間枠で制作するのならば、一方に「偏った」ものを作ることは良いのではないかと考えます。一つの番組で完結するか、二つの番組で完結するかの違いだけであって、最終的に2つの意見を平等に伝えるのならば、問題ないような。。。
番組を見ました。終始弁護側の視点であり、被告人が友人に出した手紙の話や遺族の方を死刑廃止の人たちの集まりに呼んだこと等のことについて触れていない部分に関してフェアな番組ではないと思いました。光と影、本当はどうだったのかを改めて見直すにも、見栄えの悪い部分を見せない演出、編集の仕方はなんともマスコミ的であり、報道というものの危険性について考えさせられます。逆に言えば、今回の死刑も最初の見せ方の良し悪しなのかもわかりませんが、報道する側は商売であり、作る人間には多少なりともイデオロギーがある、それを国民がもっと自覚してマスコミなどの情報をもう少し冷静に見つめることができれば今回の事件に関しても世間の注目、理解はもう少し違ったものだったのかもしれません。死刑にしろ無期懲役にしろ、人が二人も殺されている。今後このような犯罪がなくなるような取り組み、番組作りをぜひお願いしたいと思います。
その点、光市事件報道に関して言えば、本村氏の言説が四六時中、無批判に垂れ流されていたので、東海地方のみで放送されたこの番組を以ってしても、まだまだ「平等な扱い」には程遠いといわざるを得ませんね。
NHKの政治的要素のあるドキュメンタリー番組の実況スレなんか見ていると、ときどきこういうのが沸いてくるんですよねぇ。。。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=5
なし 6/7 15:31
番組を見て、一体なんのためにこのような番組を放送するのか疑問に思う。弁護士の1人が、おそらくは弁護士としての誠意を込めて元少年と接見や文通をつづけていたことはわかったがそのことで今回の一連の出来事に対して何か別の見方をすることはできないと思った。例えば、「ぼくをなめないで頂きたい」という一言に対する弁護士間の討論の場面をみても、弁護士と一般の人間の感覚はずれているという感想しか持てない。総じて、弁護団が何をやっていたか、何を悩んでいたか・・など、ほとんど伝わってくるものはなかった。全てにおいて、尻切れトンボな印象。製作者が、この番組をとおして、一体何を伝えたかったのか、または、何を考えさせたかったのか、どんな一石を投じたかったのかが全くわからない。とても中途半端。期待してみただけに、非常に腹立たしい。被害者である本村さんはただ1人、自身の言葉と態度を持って世間に訴えかけてきた。たった1人で。いつも、自分の責任で。その言葉や態度が、どれほど説得力を持つものだったか。それに比べ、この番組は浅薄としか言いようがない。これでは、取材に協力して下さった弁護士さんも気の毒です。
( ゚д゚ )
相対する二つの意見。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=5
こころ 6/7 15:24http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=0
凶悪な少年犯罪を弁護する大変さは確かにあるだろう。しかし犯罪者の人権・精神鑑定を優先する弁護士のやり方を個人的に理解はできない。確かに、十人十色の考えはある。ならば、被害者・被害者家族の人権はどこに行ってしまうのだろう?心を痛めた重さは被害者とその家族のはずだ。我が国はすべての人に守られる権利は与えられているが、それを当然のように犯罪者が守られるのは許せない。本村氏の気丈な態度にただただ頭が下がる。きっと、大声で泣き叫びたいだろうと思う。
tororo 6/11 13:36みなさま、どちらを支持されますか。私としましては、この話題については、チュチェ97年5月25日づけ「本村洋氏講演会@鴻巣市 参加報告記録(1)」をはじめとして何度も取り上げてき、立場表明をしてきていますので、ここでは割愛します。
良い番組でした。光市事件について、報道その他をずっと関心を持ってみてきました。よく「被害者の人権」と「加害者の人権」という言葉を使って、あたかも加害者の人権が守られることが罪悪であるかのように語られます。しかし、本来「人権」は、「何人もがもつもの」であり、「何人の人権も守られるべきもの」であるはずです。「被害者の人権」が守られていないとするなら、それが守られるような施策を求めるべきであって、そこに「加害者の人権は手厚く守られているのに」という枕詞をつけるべきではないのです。私は、1人の大人として、元少年の不幸な育ちを支えられる社会を作れなかったことに責任があると思っています。元少年をはじめて人として扱い、尊重している弁護団の活動を、冷静に追った今回の番組に、敬意を表します。全国に放送され、多くの人たちに観て欲しいと思います。スタッフの方々に、感謝の気持ちをお伝えください。
ところで、先日ご紹介した美人局事件はその後どうなったんでしょうね?「落ち度のある人の権利は無限に剥奪しても良い」という考えに基づけば、確かに「自力救済の禁止」にはひっかかりますが、道徳的には非難されるようなことじゃないですよね、美人局って。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=6
カマ 6/7 15:17http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=7
あの事件、弁護団の報道に関しては常に腹立たしさを感じていました。弁護団からの目線でドキュメンタリー等を組むのか?と色んな意味での興味を持って番組を拝見させて頂きました。最後残り5分の時点(最高裁の裁判員の判決)で多少弁護団の方の努力を簡単に否定されてしまっている結果に対してはやった甲斐が実らなかったんだ・・と思いましたがやはり弁護団の方々がどうがんばっても、犯人から見て一切無関係・無害であった女性と赤ちゃんを殺し姦淫をしたという結果にはいかに、きれいにまとめようとしても無理があると思います。犯人の過去、悲しい事実があったとしても全く殺された人には関係の無い事であり、弁護団のがんばりは、やればやる程自分達の自己満足にしか取れないと思います。弁護士としてのプライドと意地だけ・・にしか見えません。そこに被害者の人生・気持ちを汲むという感覚は無いのでしょうか。名古屋の弁護士さんが主だっていましたが、事務所の机にはお子さんの写真が置いてありました。被害者遺族と自分を置き換えて考えた事がないのか・・生きている方を優先して更生される・・死に損ですよね。やはり、何を言おうが死刑に値する事件だと思います。
りえ 6/7 15:7チュチェ97年3月30日づけ「綿井健陽の『逆視逆考』トーク 第1回「光市母子殺害事件〜裁判で何が争われてきたのか」参加記録(5)」でご紹介した、河井弁護士の言葉を思い出しました。彼は本当に立派な弁護士だと思いますよ。
番組を拝見しました。重大な事件を起こした者には被害者以上の苦しみを負うべきである。加害者に不遇な生い立ちがあり、反省さえしていれば減刑されるのは被害者家族でなくても納得できない。万死にあたいする。加害者弁護団は自分の家族にこの事件が発生しても同じ主張をするのか?弁護士に本当の正義があるのか?弁護士のあり方に疑問を感じずにはいられない。判決により犯罪を犯したらどのような報いを受けるのか世間に知らせ、犯罪の抑止力としなければならない。人を簡単に一人でも殺めた者は死をもって反省すべきと思う。
ところで、「加害者弁護団は自分の家族にこの事件が発生しても同じ主張をするのか?」という反語表現は、結局のところ、「被害者遺族の言うことは無条件に正しいから実現させろ」に繋がる発想だと思うんですが、そろそろ前近代的な発想から脱却するときじゃないですかね?
客観的な裁判の結果として死刑判決が出るのはいいんですが、「被害者遺族が求めているから」というのは、以前から指摘しているように、被害者に家族がいないときとかはどうなるんですか。あるいは、殺人事件に限らず、刑事事件一般に話を拡張させた場合、たとえば、過失致死だとか、あるいは傷害事件に対して、被害者やその遺族が死刑を求めるといった、「罪と罰の均衡」を全く考えていない非常識な要求を突きつけてきた場合などは如何対処するんでしょうか。
http://www.tokai-tv.com/interpost2/message_disp/disp.php3?item_id=4365&page_num=9
昭和20年生まれ 6/4 12:47「事実なんだから事情は関係ない」というのは、昔から良く聞く言説です。
弁護団の言われる事は良くわかります。幼い考えの未熟な人間だったと。計画的ではなく突発的だったと。殺すつもりはなかったと。こんな言い訳をしてどうなるのですか?新事実とはどんなものですか?どんな事実が出て来たとしても若い母親と幼い子供が殺された事実に変わりはありません。感情的な世論が多いように言われてますが感情的に処理しようとしているのは弁護団の方だと思います。犯人は事件を起こした時に精神異常な状態だった事は想像できます。人間として正常な状態で人を殺す事などできませんから。だから誰でもそういう精神状態になったら人を殺すことがあると言えるし私もそうなるかもしれません。しかし社会生活する中でいろんな人間としての規範を学んでいくわけですがそれが彼には欠けていたんでしょう。しかしそれを以って死刑回避につながるのかどうか。弁護団は更正出来ると言うのでしょう、そう・・出来るかもしれませんしかし母子は帰ってきません。二人を殺したという事実は厳然として残るのです。有史以来いろんな宗教が出るなかで一貫して日本人を律してきた人間としての心、人間らしい行いという考えはこれからも持ち続ける事が大事だと思います。どんな事実であれ遺族からすれば言い訳にすぎず受け入れることはできないでしょうし犯人が本当に悪かったと謝るならばこんな言い訳などすることは無いとおもいます。これが感情的と言うなら巷間どこにも理性的な人は居ないでしょう。
でも、こういう人に限って、役所がマニュアルどおりに申請を却下すると「頭が固い」だとか文句垂れるんですよね。面白いもんですよ。
安易な厳罰化に対抗するためには、厳罰化支持者の様々な言説や発想について、ひとつずつ反論を構築しなくてはなりませんが、先にご紹介した「不安」を理由にした厳罰化支持と並んで、「事実なんだから事情は関係ない」という言説についての反論も準備しなくてはなりませんね。
以上、幾つかご紹介しましたが、全体的感想として、番組を評価する人というのは事件を一歩引いた立場から、全体を見晴らすように観ているのに対して、文句垂れている人というのは、「沼にはまっている」というか、とにかく何処かしらかの定点から、見えるところ・見たいところだけを見たがっているように見えます。
もちろん、刑事事件というのは、全体を見晴らすように見なくてはなりません。その点、こういう定点から見えるもの・見たいものだけを見たがっている人たちが、来年から始まるとされている裁判員制度に関わるとなると、なんか嫌な予感がしてなりませんね。。。
それと、そろそろ刑事弁護に対する理解を深めてほしいんですけどねぇ。弁護人が被告人一辺倒の弁護活動をするとことは、たとえばチュチェ96年10月3日づけ「司法:刑事裁判における弁護活動に対する誤解を解くには裁判をディベートの一種と捉えると良いかもしれない」などでも書いたように、当たり前で、必要なことなんです。そして、判決というのは別に弁護人の主張を必ず取り入れなくてはならないというわけではなく、あの手の方々が好んで使う「社会正義」というのは、判決によって初めてもたらされるものであって、法廷というのは「社会正義」を実現させるための「散らかった作業場」なんです。
なんか、「作業場」にすぎない法廷における動静についてケチつけている人を見ると、ちょうど部屋の掃除のときに、机の中から本棚まで全てひっくり返して、必要なものと要らないものを仕分けている作業を見て「こいつは部屋を掃除するといいながら、逆に散らかしている」とか難癖つける頭の悪い人と被って仕方ありません。裁判にしても、部屋の掃除にしても、お願いだから「作業中」に決め付けるように批評しないでくださいよ。
司法関係関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
>殺人事件に限らず、刑事事件一般に話を拡張させた場合、たとえば、過失致死だとか、あるいは傷害事件に対して、被害者やその遺族が死刑を求めるといった、「罪と罰の均衡」を全く考えていない非常識な要求を突きつけてきた場合などは如何対処するんでしょうか。
被害者(遺族)といっても、その価値観や感情は様々でしょう…何をもって死に値する罪とするか、という判断もそれぞれだと思います。昔には皿一枚割った女中を殺したり、悪口を言った上司を殺そうとしたりした人もいたことですし。その辺りの、それぞれの均衡を図るのが司法なんでしょうが。
私的に心配なのは、安易な厳罰化によって、むしろ被害者(遺族)へのケアが疎かになってしまうのではないか、ということです。世間は加害者が望み通り成敗されればそれでスッキリするでしょうが、被害者(遺族)の苦悩は、たとえ加害者が首尾良く始末された後にも、ずっと続いていくわけですから。
そして、すべての犯罪者を死刑にするわけにはいかない以上、加害者には心から反省、更生してもらわなければ被害者(遺族)も救われません。そのためにも、事実の精確な検証が必要になってくるでしょう。
>法廷というのは「社会正義」を実現させるための「散らかった作業場」なんです。
この喩えは非常に分かりやすいです。
「被害者(遺族)といっても、その価値観や感情は様々」というご意見、全く同感です。だからこそ近代法治国家は司法を被害者感情とは一線を画したところに位置づけてきたのに、昨今はそれに逆行する風潮が本当に強い。。。この辺は近いうちに再び取り上げる予定ですので、そちらのコメント欄でも是非、見解を伺いたく存じます。そのときはよろしくお願いいたします。
安易な厳罰化によって、真に必要とされる被害者に対する諸処置が後回しにされるという危惧に対しても、認識を同じくするところがあると思います。「被害者・遺族のために厳罰を」などと公判中に喚きたてている人たちが、死刑確定後の被害者遺族の状態について積極的に調べている痕跡は全くといってよいほど見られない昨今なので、もし「あらゆる殺人に対しては無条件で死刑確定」というような法律が出来た日には、被害者は全く省みられなくなる可能性があります。その点、安易に厳罰化に傾くと、いよいよ被害者に対する関心が薄まる危険性がありますよね。。。