http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080821ddm012040006000c.html
>>> 青森・八戸の3人殺害:長男の逆送決定 青森家裁「保護処分の限界超す」
青森県八戸市で1月、母子3人が殺害された事件で、殺人などの非行事実で家裁送致された無職の長男(18)について青森家裁は20日、責任能力を認めたうえで「保護処分により処遇する限界を超えている」として検察官送致(逆送)を決定した。
決定で小川理佳裁判長は「長男は資質上の問題を抱えているとみられるが、統合失調症でみられる幻覚や妄想の症状はなく、犯行時は意識障害に陥っていなかった」として責任能力を認定。「犯行態様は残忍で猟奇的とはいえ、書いた文章や空想の内容に照らせば一貫している」と指摘した。
長男は地検、家裁双方による精神鑑定を受け、鑑定医はいずれも「治療が必要」とした。地検側はこれを受けて「人格障害はあるが、刑事責任能力はある」。家裁側は「精神疾患があり、責任能力は完全に失われていた」と判断が分かれていた。小川裁判長は検察側の鑑定結果を採用。「医療措置で性格などを改善する可能性がないとは言えないが、資質上の問題が根深く、不都合な現実は否定したり、空想に逃避するなど矯正教育には困難が伴う」と判断した。
医療少年院送致を求めていた付添人の猪原健弁護士は「保護処分の範囲内で矯正は可能。家裁は責任を放棄した」と批判した。
決定によると、長男は1月9日、同市根城(ねじょう)の自宅アパートでパート従業員の母(43)と中学3年の次男(15)、同1年の長女(13)=いずれも当時=の首をサバイバルナイフで切って殺害、アパートに放火した。【矢澤秀範、喜浦遊】
◇まず罪の理解必要−−沢登俊雄・国学院大名誉教授(少年法)の話
家裁は罪の意識が希薄な状態で医療と矯正を施しても効果はないと判断したのだろう。少年が刑事裁判を受ける中で罪を理解できた時点で、家裁へ再送致し保護処分にしてもいい。罪を認識することが医療、矯正の大前提だと考えたとすれば、家裁の決定は正しい。
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<処分決定要旨>
青森家裁の決定要旨は次の通り。
◆責任能力
何らかの資質上の問題を抱えていたとみられるが統合失調症でみられる幻覚、妄想などの症状はなく本件前後の記憶の状況などからも幻覚、妄想に支配されていたり、意識障害に陥っていたりしたものではない。犯行態様もまったく了解不可能ではなく一貫して合目的的である。
◆動機・態様
3人に対する殺人は少年法20条2項のいわゆる原則検察官送致事件に該当する。動機について、少年は分からないなどと述べて具体的に語らない。しかし、家族への愛憎や疎外感、閉塞(へいそく)感などを募らせてきたが、資質的な要因などのため、そうした感情を十分に自覚し適切に表に出すことができず明確には意識されない攻撃性、衝動性として内面に蓄積され、殺人衝動として自覚されるようになった。一方、空想で殺人や死体損壊の疑似体験を繰り返し何らかの契機で飛躍的に高まった殺人衝動が家族に向けられ、殺人や死体損壊の行為を実現させるに至った。
◆少年の特質
少年は、現実感に欠ける姿勢に終始し、いまもナイフに対する強いこだわりを示すなど真摯(しんし)な反省の情は見受けられない。適切な医療的措置などを施すことで改善する可能性がないとはいえない。しかし資質上の問題性が根深いうえ自己に不快なことや不都合な現実は否定したり空想に逃避したりする構えを強くしていることからすると、矯正教育には困難が伴うことが予想される。
◆結論
犯行は極めて悪質で遺族らの被害感情も強く、社会に与えた影響も大きい。少年に有利な事情を最大限考慮しても、保護処分によって処遇する限界を超えているといわざるを得ない。
毎日新聞 2008年8月21日 東京朝刊 <<<
http://www.asahi.com/national/update/0829/TKY200808290235.html
>>> 八戸母子殺害、18歳長男を起訴 家裁が逆送
2008年8月29日17時10分
青森県八戸市で1月、母子3人がナイフで首を切りつけられて殺害された事件で、青森地検は29日、青森家裁が検察官送致(逆送)を決めた長男の少年(18)を殺人や死体損壊など四つの罪で青森地裁に起訴した。弁護側は無罪を主張する方針で、あらためて精神鑑定を求める。
この事件では、青森家裁が今月20日、犯行の冷酷さや社会的影響などから「保護処分によって処遇する限界を超えている」として、少年の逆送を決定した。 <<<
本件は、被害者家族であると同時に加害者家族でもある少年の実父は「おまえ死刑になれ」とは確か言っていたと思う(記憶が曖昧)し、20日づけの決定でも「遺族らの被害感情も強く」と書かれているにも関わらず、なぜか「世論」からは「被害者と遺族のために死刑を!」という声が余り聞かれません。それ以前に、本件に関する「世論」そのものが殆ど無いと言った有様です。「家族だろうがなんだろうが結果論で見れば死刑」という、信念のある死刑推進派が若干いましたが、全体から見れば、やはり全然盛り上がっていません。
2月16日づけ「「光市事件」と「八戸事件」のメディアにおける扱いの違い」のコメント欄においても話題になりましたが、やはり、「身内殺し」というのは、「世論」を沸騰させるのには力不足であることは本当なのかもしれません。
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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
数十年前までは、最高法規が法の下の平等を謳いながらも「尊属加重規定」が存続するくらい、身内(特に親)殺しには敏感だった国ですのに。不思議ですね。
孔孟的別愛思想が薄れて、墨子的兼愛思想になったというわけでもなさそうですしw
これも「身内殺し」なんですが、偽装のために赤ん坊を殺してるんですがね。
>五葉さん
本当に不思議なんですよねー
>EzoWolfさん
検索していたら面白い指摘がありました。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3368251.html
>宮城の方は、計画的とまでは言えないとして、検察側が死刑の求刑を出しませんでした。通常は求刑より重い判決は出ません。
(中略)
>あと、被害者が、浮気相手と、自分の子供です。どこで読んだか忘れましたが、親殺し・子殺しの事件では、検察は死刑を求刑するのを躊躇するようです。「家族を死刑にして、被害者が浮かばれるのか?」という心理が働くそうです。
このような心理が事実として存在し、かつ、報道関係者にも「伝染」しているのならば、報道が控えめになるというのも分かりますし、そうすれば必然的に扇情的報道も少なくなる。とすれば、「世論」の沸騰もある程度抑えられる。。。
そう考えると、報道関係者の感性次第で「世論」が操作されているということになりますね。所謂「庶民の感覚」というものがいよいよ恐ろしく感じます。
この点に関しては、下記ブログで取り上げられている漫画実話ナックルズ2007年9月号の記事が参考になるかと思います。
http://anarchist.seesaa.net/article/49097931.html
一言で言えば、犯罪報道にはその事件のニュースバリューによって、報道される優先順位が(報道側に)存在すると言う内容です。
要点を箇条書きすると、
●ホームレスの変死は記事にならない
●ホテルの自殺は絶対にNG
●マルセーの案件はご法度
●もちろん最大のタブーは警察の不祥事
とりわけ興味深いのが「報道の優先順位」についてです。以下引用します。
『事故よりも事件。男による殺人よりも女が関わる殺人。男が男を殺すより、女が男を殺す事件。成人女性より幼女。単独犯行よりは複数。単発で行う犯行より連続する事件。「報じるバリュー」ってのが問題となる。つまり、いかにして一般大衆が喜ぶような事件となるかが重要視されることとなる。』
これは大変衝撃的ですが、しかしある意味言われてみれば腑に落ちる・・・と言うのも事実ではないでしょうか?
(なお、コメ欄で「警視庁捜査1課担当の元記者」と言う人物が内容の修正を求めていることを付け加えておきます)
トピずれした話になりますが、先月起きた厚生省事務次官殺害事件では、加害者を賞賛する声があっただけでなく、捜査の内容に疑問符をもつ声も少なからずありました。これは被害者が官僚という「悪玉」であったことに由来すると思います。
逆に言えば犯罪事件に対する「世論」の関心の度合いは、その実被害者の属人性によるところが大きいのではないでしょうか?例えば被害者が幼い子供であった場合には世論の「死刑」を望む声がよりいっそう高くなる、等。
こういった点を考えれば、おっしゃるとおり「世論」乃至「庶民の感覚」なるものが極めてあやしい代物であることは自明かと思います。
長文失礼しましたm(__)m
コメントありがとうございます。
「いつか自分もこんな目に遭うのでは・・・・」という意味で自分の問題として捉えることも大切なことですが、「いつか自分もこんなことをしてしまうのでは・・・・」という点については、いかがお考えでしょうか?
ヒキ男さんがそうだと言うわけではないのですが、昨今の日本社会では、被害者になる可能性については、それなりに考えられているものの、自分が加害者になる可能性については、ほとんど考えられていません。
それが、「犯罪者と自分は違う」といった観念に繋がっていると思います。しかし、「犯罪者」と「善良な市民」の差は、そんなに大きくないはずです。それは歴史を見れば分かることです。
「日本社会では、被害者になる可能性については、それなりに考えられているものの」
皆はその時に口にすれど直ぐに忘れているので考えているとは到底思えません。自分は自慢じゃないですが酷く怖がりで物音がしただけで心臓がバクバクなったりします(今でも蕁麻疹ができる程度にはなります)。自室のある2階へ行く時には1階の部屋の窓が開いているとは知らず風で「ドドドドドッ!ガタッガタッ!」という音を聴いた瞬間に飛び跳ねるほど驚き声を上げ何故か茶の入ったコップを投げ捨て一目散に自室に逃げ込みました。鍵がないのでドアの前で待機して2時間後に母が買い物から戻ってきました。部屋から出てみると当たり前ですが目の前にはお茶によって色が少し白くなった床とガラスの破片が散乱していました。
>「犯罪者」と「善良な市民」の差は、そんなに大きくないはずです。
自分はそんなこと一言も言っていません。穿った見方をして申し訳ないのですが管理人さんは加害者寄りでしょうか?と言いいますが何で自分が怖くなるかわかりますでしょうか?不特定多数や不確定性に恐怖しているからです。
「それが、「犯罪者と自分は違う」といった観念に繋がっている」
犯罪者と自分を同一視しても同一視なくてもどちらでも結構です。問題は「犯罪者と自分は違う」ではなく「殺されるかもしれない自分に恐怖している」ということなのですから。そして自分に気が狂わんばかりの恐怖を与えてくる犯罪者が憎いだけです。そして殺してやりたいとも心の中では思っています。でもそれは憎しみから犯行に及んだ犯罪者と同じです。そこに矛盾が生じるわけですが兎にも角にも憎いということであります。
閑話休題。確かに殆どのことは後天的なことによるものです。環境によって人格が形成されるわけです。自分の家の場合は姉や兄がいるのですが姉は結婚して嫁ぎ兄は都会で働いています。自分はと言えば14年間引きこもっています。1年間で外に出るのは多くても5回程度です(庭なら何回か出ます)。「甘えるな!全てお前の責任だ!」こう言う人がネットには多くて正直言って腹立たしい気持ちでいっぱいです。でもだからと言って「環境の所為だ!全て環境の所為なんだ!」とはあまり言いたくはありません。お前の所為だ!環境の所為だ!この2つはどちらにしても極論ですね。お前の所為だ!というのはあまりにも環境のことを察してあげてないです。次に環境の所為だ!というのはあまりにも人間の努力や意思を無碍にしていると思います。依存させることなく環境のことを汲み・その上で努力を促すことはできないのでしょうか。これは犯罪者にも適用できますが個人的には殺人犯(特に星島のような無期懲役囚)はTHE ENDです。
「自分が加害者になる可能性については、ほとんど考えられていません。」
被害に遭うのでないか?ということばかり考えますが偶に自分が加害者になったらというのは考えます。ただ管理人さんが思っているようなことではなく「自分がもし殺人をするのなら精神病の所為にして減刑を望むのではなく死刑を望む」という具合に考えています。それと「最悪の展開になっても時と場合だろう。相手が悪ければ致し方なし」というふうにも思っております。一方で関係のない外には向けては駄目だと思っております。問題は対を成す場合がほとんどです。その対を成す問題で外に矛先を向けていたら目も当てられません。「それも社会の問題だ」という人がいますが勝手に一緒にしないでほしい。何で遠くの県の人間の問題が自分の問題なのだろう?と。それを言うなら世界中の紛争も自分の所為でしょうか?自分の身に切り刻み込まれて然るべきことなのでしょうか?自分はそうは思いません。
「なぜ犯罪者が自由の平等を取り上げられて拘留されるかといのも全く同じ理由である。つまり、強盗や窃盗などが財産を盗むと、他者の、自らの財産を自らが使う自由という、自由の平等性が、それをされた人間の財産所有権が侵害されて、著しい不平等が存在他者と比較すると存在するからである。その結果相互性が破られるわけである。」
自分は直接的に被害に遭ってないので自分に決定する権利はありませんが(自分の所為かもしれませんが間接的には被害を受けています)この説を採るのならば殺人というのは回復不可能なこと・・・つまり命には命をもって償うしかありません。自分または身内が亡くなり相手は生きる。これほどまでに差ができることがありますでしょうか?究極なる「差」だと思います。ただ殺人と一括りにするべきではなくケース毎に判断するべきだと思います。人間の判断なので自分の思いとは別の判断が下されることもあるでしょう。「何で!何でわかってくれないんだ!クソ野郎!」と思うでしょう。でも実は自分も向こうと同じ人間なのだということを忘れています。つまり自分も向こうと同じように勝手に判断して行動したり決定したりすることがあると(それによって相手は著しい不利益を蒙ったり)。重大な問題ですから熟考に熟考を重ねて判断させるべきですが一方で自分の主張ばかりできると思ったら大間違いだとも思っています。厳しいようですが人間ですから不平等はある程度仕様がないです。そうこうして工夫を重ねながら判断するしかないです。ただ個人的に永山事件の判例に沿うのは反対です。4人が基準と一裁判官が示したことを判例にするとか愚行もいいとこです。思考停止ですので絶対にやめてほしいな、と思っております。
閑話休題。小林は女児一人を絞殺で殺害して死刑になりました。一方で星島は女性の首を思いっきり包丁で刺して殺害して遺体を切り刻み鍋で煮込むなどしてトイレやゴミ捨て場などに棄てましたが無期懲役(模範囚なら20年以下で出所)になりました。自分には後者の方が酷いと思うのですが何故に小林は死刑になり星島は無期になったのでしょうか。聞くところでは星島は警察に嗅ぎ付けられたと思い自暴自棄になり咄嗟の行動で首に包丁を刺したらしいです。被害者は目隠しされ両手を後ろ手に縛られ刺された後は暫く暴れていたのですが雁字搦めにして5分ほどで息絶えたらしいです。供述ではこうなっていますが実は星島はダルマ女(両腕両脚が無い女)と呼ばれるジャンルの絵を好んで書き投稿していました。ネットで拾った週刊誌の情報によると「怪しい」とのことですが自分も同感です。星島にとってはどちらに転ぼうが自分の欲求を満たせます。ところで何で刑が軽いのでしょう?反省を示していると言いますが相手が反省していると何故にわかるのでしょうか?自分は子供の頃に先生に反省した振りをしましたが先生は騙されましたよ。ダルマ欲求という本心を探れないというのなら逆に反省したという本心も探れないと思うのですが違いますかね?ダルマ欲求には触れず一方で反省しているという本心だけを汲み減刑にする。ふざけすぎだと感じます。そういえば三島の事件でも被害者一人で死刑になりました。
何か自分には裁判所が「子供っぽい人間=内向的」に甘いような気がしてなりません。例えば小林はオタクと言ってもスナックに通いママと会話するなど行動的なことがありました。逆に星島は活動はしていましたが内向的でした。稚拙な人間は赦すべきだとなっているのでしょうか?自分は数年で三十路ですが自分の本当の姿を知ったら「とても三十路には思えないな」と思われるでしょう。それに幼稚なことしてますが其れが何か情状酌量の意味を持つことになるのでしょうか?稚拙=幼稚というのは=残虐ということでもあるんですよ。そして容易に洗脳できるかと言えば違う。自分は特に自己中心的ですから幼稚といえど相手に従いたいとは思っていない。つまり最低な事件を起こしたとしても矯正不可ということです。でもたぶん小動物的に泣いたり弱さを見せれば減刑させられそうな気もします。裁判に顔は関係するでしょうか?もし関係するのなら有利に働くのかな?
そういえば書き込んでいる最中に気づきましたが上の方で人間だから仕様がないと自分で書いていましたね。自分で書いておきながら星島の刑には不満というのだからホント勝手なものでした。すみません。いやでもホント無期懲役(模範囚なら20年以下で出所)というのは短すぎる気がするんですよ。自分が14年間引きこもっているということも関係していると思います。尤も刑務所での時間と自宅での時間の流れは一緒ではないでしょうが喉元を過ぎてしまえばどれも早いです。例え:20年間7300日分を思い出すわけではないです。偶に放置か虐待で衰弱死の場合に10年以下の懲役が出ますがアレには開いた口が塞がりません。諸々の環境の所為だとはいえ死という究極の「差」を作り出した本人が数年の刑期でいいのだろうか?なんだろう・・・・星島に殺された成人女性のこと考えると「他人にとっての命ってこんなに安いものなのか・・・・」と思わされます。人に命の重さを決定される不快感。誰でも優先順位があるのでしょうが気分が良いのもではありませんね。たぶん自分が殺されたとしても相手は無期懲役か病気か未成年という理由で20年以下なのでしょう。安いものですね。そんな価値しか自分にはないということですかね・・・・はあ。