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2008年09月12日

自覚すらない「殺人者予備軍」たち

http://mainichi.jp/select/today/news/20080911k0000e040026000c.html
>>> 死刑:3人執行 保岡法相の命令は8月の就任以降初
 法務省は11日、3人の死刑を執行したと発表した。執行されたのは▽萬谷義幸(68)=大阪拘置所収容▽山本峰照(68)=同▽平野勇(61)=東京拘置所収容−−の各死刑囚。死刑執行は6月17日以来3カ月ぶりで、保岡興治法相の命令は8月の就任以降で初めて。

 死刑執行は法相の命令が出なかった約3年4カ月の中断後、93年3月に再開された。再開後に執行された死刑囚は計73人になった。また、確定死刑囚は102人になった。

 確定判決などによると、萬谷死刑囚は強盗殺人罪の無期懲役刑で受刑し87年に仮出所後4〜9カ月の間に、大阪市内で女性(当時19歳)を強盗目的で刺殺、女性(当時18歳)を鉄パイプで殴るなど4件の事件を起こした。

 山本死刑囚は04年、神戸市でいとこの男性(当時68歳)と妻(当時75歳)を刺殺し現金などを奪った。平野死刑囚は94年、以前に住み込みで働いていた栃木県市貝町の牧場経営者(当時72歳)宅に侵入し、経営者と妻(当時68歳)を殺害。現金などを奪い経営者宅に放火して全焼させた。

 平野死刑囚は死刑確定から1年11カ月での執行となった。2年未満での執行は異例だ。山本死刑囚は、期日間整理手続きが採用された公判で初の死刑判決を受けた。公判は3回の短期で結審した。

 保岡法相は00年7〜12月の第2次森内閣でも法相を務め、3人の死刑執行を命令した。鳩山邦夫前法相下では4回の執行がほぼ2カ月おきに行われたが、今回もそれに近いペースが維持された。

 保岡法相は11日午前、法務省で会見し「慎重厳正に審査し、法秩序を守る責任者として毅然(きぜん)と行った。時期を選んだわけではない」と説明。前法相に続き執行を会見で発表したことについては「重大事件を対象とする裁判員制度も始まる。可能な範囲で公開することは意義があると思う」と述べた。
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 例によって「世論」。この手の話題に対する「世論」は金太郎飴の如く濫造されているので、代表として一つだけご紹介します。
>>> 被害者の感情として死刑は肯定します。
勝手な衝動、勝手なご都合で命を奪われてしまった人や、その遺族はなぜに相手の更正を望める?
仕返しは人間として非道だと?
うっさいんじゃ、ぼけ!!!
どんどん死刑にしろ!!
殺人犯の人権?
うっさいんじゃ、ぼけ!!!
すぐに死刑にしろ。
どうやって殺したらいいかを被害者に決めさせてあげろ。
「最も苦しむ方法で殺してください」
と、私なら言う。

死亡ひき逃げ犯なんかが罰金刑だけで済んだり、5〜10年で交通刑務所から出てきて普通の暮らしをするなんて間違ってる。

遺族が運転する車で、時速20キロ位の遅いスピードで、加害者が死ぬまで何度も何度も轢いてやればいいんだよ。
しかも、加害者の家族の前で・・・・・。

卑怯な犯罪で人の命を奪った奴に人権?

うっさいんじゃ うっさいんじゃ ぼっけ〜〜〜〜〜〜〜!!!!
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 感情論を根拠にした支持・推進派としては「教科書どおり」の典型的一品です。本当にこの手の方々は、予想通りの金太郎飴的の反応を見せてくれるものです。一つずつ吟味してみましょう。

>>> その遺族はなぜに相手の更正を望める? <<<
 なんか日本語として変な感じがしますが、「遺族が相手の更生を望むだろうか」という風に解釈しました。この解釈を前提に話を進めます。

 「?」がついていますが、文脈から見て反語表現であることは明らかです。つまり、「遺族が相手の更生を望むわけない。遺族の感情を重視して死刑にしろ」というものになると思われます。

 ところで、死刑制度を「日本の伝統文化」とする人物が結構います。その代表格のひとりが、アルカイダ前法相でありました。『週刊朝日』5月2日号に掲載されている「鳩山邦夫の死刑執行論」(32〜33ページ)によると、「日本文明は歴史的に自然との共生を体現してきており、命をすごく大切にする。だからこそ、命を奪うことへの怒りも強い。死をもって報いるという文化がある」としており、彼の「死刑は日本の文化」論は広範の死刑支持・推進派の日本人に支持されました。

 そしてもう一人の代表格が、光市事件遺族の本村洋氏です。たしか、最高裁判決前後に発表されたものだったと思いますが、「死刑制度は武士道につながる」という自論を展開していました。彼が光市事件被告人に対して一貫して死刑を求めてきたことは余りにも有名ですが、彼の要求の根底には「死刑制度は武士道につながる」という思想があり、そして、相当規模の「世論」が、かくなる思想を持つ彼の言動を熱狂的に支持していたことは記憶に鮮明であります。つまり、日本社会のうちの相当規模の人たちは「死刑制度は武士道につながる」という思想を受け入れたといえます。

 なるほど確かに平安時代に一時期廃止されていた死刑制度を平安時代末期に復活させた主体は武士でした。平安末期には、今で言う「武士道」に相当するものはまだ確立はされていませんが、その後、「武士道」なるものが形づくられていった武家社会においては、最後まで死刑制度は維持されつづけたので、「死刑制度は武士道につながる」という考え方は的確なのかもしれません。

 本村氏の言う「自らの死を以って事件の責任を果たす」という武士道的贖罪の歴史的な基本的且つ典型的方法は切腹自害です。これはすなわち、武士道的贖罪は自己の犯した罪の自覚が必要であることを示しています。なぜか。たとえば皆さん、もし道端で突然、公安関係者に呼び止められて「刀貸してやる。介錯もしてやる。だから今すぐここで切腹しろ。」といわれたらどう思いますか。「何で?」と思うことでしょう。ここでなぜ「何で?」と思うのかといえば、自分は切腹しなきゃならないような心当たりが無い、つまり、罪の自覚が無いから「何で?」と思うわけです。

 「日本の死刑制度は、武士道的贖罪としての伝統を継ぐもの」という本村氏の論理にもとづけば、死刑囚が罪の自覚を持つことが必要であることは論理的に帰結すべきものであり、本村氏の「伝統」論理を相当規模の人たちが熱狂的に支持していた日本社会としては、死刑囚に罪の自覚を持たせ、その上で処刑しなくてはなりません。

 にもかかわらず、「遺族が相手の更生を望むわけない。遺族の感情を重視して死刑にしろ」という趣旨の今回のコメント。今回は紙幅の関係上、代表としてこのコメントだけをピックアップしましたが、この手の「世論」というものは本当に金太郎飴の如く濫造されています。アレだけ全面的に本村氏の言動を支持していた人たちは一体どこに行ってしまったのでしょうか。それとも、己の黒い欲望を満たさんがために、本村氏の遺族感情にただ乗りしていたということでしょうか。

 続いて以下。
>>> どうやって殺したらいいかを被害者に決めさせてあげろ。「最も苦しむ方法で殺してください」 と、私なら言う。 <<<
 人間という生き物は恐ろしい生き物です。自分がひとたび「敵」だと思った対象については、この部分が象徴しているように、徹底した攻撃性を示すのですから。

 その点、原田正治氏や河野義行氏のような方々がいる以上は、殺人事件被害者遺族の100%全てとは言いませんが、しかし、かなり数の遺族は、加害者を最早憎しみの対象としか見ていない、人間とは見ていません。となれば、人心の根底にある徹底した攻撃性が加害者に対して発露することは想像に難くありません。

 しかし、以前から繰り返し申し上げてきていますが、基本的に、社会的存在としての人間は、他者の権利を侵害することは許されません。しかし、殊「犯罪者」に限って言えば、権利を侵害されるに見合う罪を自らの意志で行ったからこそ、「正当な権利侵害」「因果応報」として例外的に認められるのです。それが刑罰というものです。これは逆に言うと、罪に不相応の刑罰を科すことは「不当な権利侵害」であります。

 「正当な権利侵害」や「応報」ならまだしも、それらの範疇を逸脱した、「新たな犯罪」とも言い得る過重処罰に、なぜ社会が付き合ってやる必要があるのでしょうか。「被害者」という肩書きさえ持っていれば、応報の域を逸脱するような何を要求してもいいんでしょうか。「被害者特権」とも言い得る失敗の例は、既に部落解放運動における、一部腐敗分子が行ってきた横暴の数々で既に明らかになっています。

次。
>>> 遺族が運転する車で、時速20キロ位の遅いスピードで、加害者が死ぬまで何度も何度も轢いてやればいいんだよ。しかも、加害者の家族の前で・・・・・。 <<<
 先ほどご紹介した「最も苦しむ方法で殺してください」というくだり以上に、人間の恐ろしさというものを強く感じさせる部分です。私としましては、この発想は、「人殺し」の思考回路と完全に一致するものであると考えます。

 このように書くと、「あんな事件を起こした奴は人間じゃない!人間の姿をした化け物だ!」というような反論をときどき戴きます。本人にしてみれば、自身は正常であり、自身の要求は妥当なものであることを証明するために言っているつもりらしいのですが、人間のカップルからは人間しか生まれません。たとえ所謂「人の道」から外れることをしたとしても、やはり「人間」であることは間違いありません。にもかかわらず、その人物の行動を以って「こいつは人間ではない。だから殺しても良い。」と考えるその思考回路は、異教徒であるイスラム教徒を大量虐殺した「十字軍兵士」という名で呼ばれる「人殺し」たちや、新大陸征服の過程で原住民を大量虐殺した「白人植民者」という「はるばる海の向こうからやってきた殺人者ご一行」と同じものを感じます。

 「殺人者」に対する死刑を支持する言説のなかにはよく、「殺人者といえど、人を殺すことにはかわりないので抵抗感はあるが、出所後同じ社会で暮らすのは怖い。もう出てこないでほしいから、死刑もやむなし。」というものがあります。しかし、今回ご紹介した「世論」を見る限り、周囲は勿論のこと、本人も恐らく自覚していない「殺人者予備軍」が社会に存在することを示しています。私たちは全ての犯罪を可能な限り予防する必要性を負っている以上は、「自覚すらない殺人者予備軍」に対する対策も講じなくてはなりませんが、現実的施策としては、以前から繰り返し申し上げてきているように、「犯罪がおきる隙の無い社会」を作るしかありません。しかし、そのような社会が実現すれば、「社会防衛としての死刑」は存在意義を失います。その点を考えると、死刑制度って、巷で言われているような効果が本当にあるのかなあ、それは死刑制度が無いと維持できないのかなあ、と思わざるを得ません。

 そういえば、「十字軍兵士」も新大陸への「白人植民者」も一神教徒であるキリスト教徒の仕業でした。先にアルカイダ前法相の死刑論の「日本文明は歴史的に自然との共生を体現してきており、命をすごく大切にする。だからこそ、命を奪うことへの怒りも強い」というくだりをご紹介しましたが、これも一種の一神教的思考回路なのかもしれません。多神教文化の中の一神教的発想というのも面白いもんですね。

 いやはや、それにしても本当に恐ろしいものです。「自覚すらない殺人者予備軍」のご機嫌を損ねたら、何されるか分かったもんじゃありません。ホント、前科者対策ばかりやって、この手の「自覚すらない殺人者予備軍」たちを放置している限りは、犯罪が減ることはないでしょうな。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
posted by s19171107 at 00:04| Comment(0) | TrackBack(1) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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[物申す]そんな日に死刑執行する、日本。
Excerpt: Japan executes three inmates: justice minister - Yahoo! News Japan is the only major industrial nat..
Weblog: おこじょの日記
Tracked: 2008-09-12 09:20
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