>>> 「死刑囚に会うの無理ですか」娘を奪われつらさ伝えたい遺族言うまでも無いことですが、報道記事というものは、印象操作を狙っている悪質なものを除いて、基本的にはタイトルが記事のテーマを表しています。本記事にしても、タイトルがテーマを端的に表している正攻法の報道記事です。
12月12日7時59分配信 読売新聞
24歳の娘の命を奪った男の死刑が確定して、1年9か月が過ぎた。
世間が事件を忘れても、遺族にとって、8年半前のあの日から、時間は止まったままだ。遺体とともに警察から返されたブルガリの腕時計は、ガラスの部分がすべて溶け落ち、焼け残った針が死亡推定時刻の午後10時57分を指している。
正恵さんは生きていれば32歳。61歳の父と59歳の母は毎朝、毎晩、仏壇にご飯を供え、話しかける。「結婚して子供がいたかもしれないね。孫と一緒に旅行もしたかった」
事件のことばかり考えてはいけないと思いつつ、心から笑うことができなくなった。自分たちだけ楽しんでいいのかという思いが、いつも先に立つ。旅行にも行けない。「犯人を憎むことが生きがいになってしまった」と父は言う。
◆
2000年6月11日午後11時すぎ、帰りの遅い正恵さんを心配した父は、勤務先だった宇都宮市の宝石店「ジュエリーツツミ宇都宮店」へ車を走らせた。近くまで行くと、消防車やパトカーが何台も見えた。真っ黒になった店から炎が噴き出していた。
司法解剖を終えた正恵さんの遺体は、頭からつま先まで白い布でくるまれ、ビニール袋で覆われていた。損傷がひどく、歯の治療痕で本人確認したと聞かされた。
就職して約2年。接客が大好きで、「自分が勧めた指輪をお客さんが買ってくれた」とうれしそうに話してくれた。「絶対にブルガリがいいんだ」と、給料をためて買ったお気に入りの腕時計をして出勤していた。
「熱かったね、苦しかったね」。父はそう声をかけるのが精いっぱいだった。死に顔を見ることも、抱きしめてやることもできなかった。
◆
4か月後に始まった裁判はとても苦しかった。事件後、怖くて新聞を読むことができず、検察側の冒頭陳述を聞いて初めて、どのように娘が殺されたのかを知った。1億4000万円相当の貴金属を奪った篠沢一男死刑囚(57)は、正恵さんら女性従業員6人の手足を縛り、生きたままガソリンをまいて火をつけ、逃げた−−。「正恵はどんなに怖かっただろう」。想像して、父は手が震えた。
娘に代わり、すべてを聞こうと、父は仕事を休んで公判をすべて傍聴した。「火をつけるつもりはなかった」と殺意を否認した篠沢死刑囚から真摯(しんし)な謝罪はなく、法廷で遺族と目を合わせることもなかった。
「極刑を望みます」。父は証言台ではっきりと言った。その気持ちは今も変わらない。「悔しさと怒りで、相手の死を願うことへの抵抗感は全くなかった」
◆
昨年3月、最高裁で死刑が確定した篠沢死刑囚は、東京拘置所の独房で暮らす。今夏、市民団体のアンケートに対し、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と書いた。
正恵さんの両親の前に姿を見せたのは、03年4月の東京高裁判決の時が最後になった。父は最近、篠沢死刑囚が何を考え、事件を反省しているのか、知りたいと思うようになった。そして、この世で一番大切な娘を奪った人間に、親のつらい気持ちを直接伝えたいと願う。
だが、死刑囚に面会が許されるのは、親族や弁護士のほかは数人の知人らだけ。拘置所が特に必要があると認めた人に限られるため、死刑囚本人が希望しない限り、被害者の遺族が面会できる可能性は極めて低い。
それでも父は強く思う。「自らの犯した罪の重さを知り、心から反省してから、刑を執行されてほしい。私が篠沢死刑囚に会うのは、無理なのでしょうか」
(連載「死刑」第2部「かえらぬ命」第2回)
最終更新:12月12日7時59分 <<<
にもかかわらず、本件に対する某所における「世論」は、その辺を全く踏まえず、以下のような内容のものが溢れかえっています。
>>> 自分の子供を持った時点から、こういう事件に対して自分でも止めようのない激しい怒りと、遺族の気持ちに共感した悲しみがこみ上げてきます。
もし自分が遺族なら・・・と考えるだけで震えます。
おそらく、想像ですが、私も犯人をこの手で殺したいと思うでしょう。
やめてくれ、殺さないでくれと泣き叫ぶ犯人を、じっくり苦しめながら、この手で死に至らせる事を願い続けるでしょう。
死刑反対を唱える方たちは、きっとお釈迦様のように、悟りの郷地に達しているのでしょうね。
私には無理です。
犯人の死・・・そこから初めて、遺族として第2の人生に向けての一歩が踏み出せるのでしょう・・・。
犯人への終身刑の言い渡しは、遺族にとっても終身刑を言い渡されているようなものです。 <<<
>>> 知らない人の話とは言え悲しくなる。
死刑囚の言葉、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というが、「女性従業員6人の手足を縛り、生きたままガソリンをまいて火をつけ」この行為は、被害者にとっては死刑以上の物ではないのだろうか。
死刑よりも思い刑、あるならば与たい。。。 <<<
>>> 死刑制度云々というより…シンプルに考えてみてだな…
このケースを例に挙げるなら犯人にガソリンかけて火を付けて、
しばらくして生きていればもうそれで許してあげてもいいんじゃないかな。
別に殺す気はないよ?
ただ世の中の事象やらそういう流れに任せるだけ。
呼吸する度に気管を焼かれ様と頑張れば生き残れるさ、たぶん。
「殺す気はなかった…」ってセリフ、彼等がよく吐くセリフなんだし、
裁く側や遺族も同じ事をするだけである。
こんな状況を味わえば、殺人者も反省のひとつやふたつぐらいはするでしょう。
え、絶対死ぬ? 死んでしまう?
またまたご冗談を… 別に殺す気はないんですってば…w <<<
>>> 死刑にしたところで、被害者が生き返るでもなく。
遺族の方々としても憎しみのやり場を失うだけで、後に何も残らない気がする
それよりは終身刑という形で、死ぬまで罪悪感と向き合わせ続ける方がいいのでは
という意見はよく耳にしますが。
個人的には、大切な者を奪われたなら奪った相手の目の前で、手の出しようが無い状況にしておいて、そいつの大切な物を粉々にしてやりたいと思います
そうやって遺される側の痛みを味わわせたあとで、今度は命を奪われる痛みを与えます
トドメに、死ぬ間際に「お前の人生に意味はなかった」と耳元で囁・・・
そんな妄想をしてしまうくらい、犯人に憤りを感じますね <<<
>>>生きたままガソリンをかけて火をつけ、殺すつもりはなかったと。また、篠沢死刑囚の「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というセリフに対して短絡的に噛み付いているのもいます。
裁判は復讐の場ではないと言いますが、加害者が罪から逃れるための茶番劇の場でもありません。
一刻も早く極刑のうえ被害者のご遺族に平穏が訪れますよう。 <<<
>>> >昨年3月、最高裁で死刑が確定した篠沢死刑囚は、東京拘置所の独房で暮らす。今夏、市民団体のアンケートに対し、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と書いた。
何が「死刑は残酷」だよ!
あんた一体自分が何したかわかってんの!
こういう事件がある度、死刑はやっぱり必要なんだなって思う。
死刑は罪に対する罰。
人を殺して自分が死ぬのは嫌だ、なんて信じられない。
激怒、です。 <<<
>>> ニュースより引用
===========================================================================
死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」
=============================================================================
この発言に心底腹が立った。
こいつが犯した罪状は逃げられない状態にして6人を焼殺。
同じ状態で焼き殺してやれよ。
何が『ざんこくなものです』だ。虫のようにくびり殺される恐怖におびえることこそ『死刑』という罪状の本質だ。怯えて生きろ、泣き叫んで『死にたくない!!』と叫び続けろ。<<<
>>> あと、勝手だよなぁと思ったのがまあ、元の記事に書かれている言葉自体が、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と短すぎるせいなのかもしれませんが、しかし、あるいは、「死刑とはざんこくなものです。しかし、これも私が罪を犯した報いなのですから、しかたないのでしょう。」という風に続いているかもしれない、つまり、「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」というのは、後に続くセリフ次第でどっちにも転びうる判断しにくいセリフなのであります。
>死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこく
という死刑囚のコメント。
何をいまさら同情を買おうとするのか。手前自身がまず最初にあの6人に対して
「刑を執行」したんだ。殺意があろうが無かろうが。
その責任から逃げるのは卑怯でしかない。 <<<
にもかかわらず、本記事が最も報じたかった「犯罪被害者が加害者との面会を希望している」ということについては全くといって良いほど触れずに、こういうところに真っ先に、短絡的に噛み付いて勝手にファビョっている人が何と多いことか。もう溜息しか出ません。
以前より当ブログでは、たとえば8月6日づけ「河野澄子さんを政治利用する死刑推進派」などにおいて、河野義行氏や原田正治氏のような殺人事件の被害者遺族が、加害者に対して死刑を求めていないにもかかわらず、全く無関係の第三者が「遺族のために死刑を!」と加熱している姿を取り上げ、「被害者のために」と言っている連中は本当に「被害者のため」の言論活動をしているのか、という疑問を呈して参りました。しかしながら、河野氏や原田氏といった「加害者に死刑を求めない被害者遺族」というものは、やはりどうしても絶対数が少なく、そもそも世に知られていなかったりするので、ある意味、仕方ないところもありました。
しかしながら、本件被害者遺族は加害者に強い憎悪の気持ちを抱いており、いうならば「多数派遺族」です。にもかかわらず、本件の「世論」は、「多数派遺族」の主張すらも殆ど検討せずに「死刑!」と繰り返したり、勝手に死刑廃止論者とのシャドウボクシングを始めています。
このような現実をみると、結局のところ、「被害者のために死刑を!」とか言っている連中は、心底「被害者のため」に言っているのではなく、偶然被害者も加害者に対して死刑を求めているだけで本当は単に自分が気に入らないから加害者を死刑にして欲しいだけなのではないかと考えざるを得ません。
関連記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
被害者に肩入れしているようでいて、己のサディズムを満足させるためのツールとしての被害者しか欲していないと言う。
これってウヨもどきが「愛国心」やら「非国民」やら「公」を叫ぶ時に己の私情を発散させるツールとしてそれを用いてるのと図式的には同じですよね。
いったいこのずれた蜜月関係?はいつまで続くのでしょうか・・・。
>mashさん
本記事コメント欄でamanoiwatoさんが指摘されているケース、すなわち、「自分から見て共感、理解、同情に値する被害者のために」というケースもありうるので、「己のサディズムの満足のために」というだけではないでしょうが、これだけ薄情な世の中の割には、何故か刑事事件被害者・被害者遺族に対してだけは、不気味に「温かい」のを見ると、それなりの数の人が、己のサディズムを満足させるためにあーだこーだと言っているというのは、十分に言えると思います。
>amanoiwatoさん
資料がどこかに行ってしまったのですが、すでに一部言説では、被害者・被害者遺族の「格付け」みたいなのが始まっています。
また、先日始まった「被害者参加制度」も、「世論」の動向によっては、被害者・被害者遺族を一定の「型」に押し込めることを強制する暴力となりえます。たとえば、「被害者参加制度を利用しない遺族/制度で厳罰を求めない遺族は、身内である被害者本人が死んで内心喜んでいるんじゃないか」とか。
私も心配です。