>>> ふに落ちぬ悲劇の「早さ」この記事で取り上げられている「ふにおちな」さは、今回の一件を通して私も強く感じました。もっとも、私の場合は、フランスの対応に違和感を感じている西日本新聞記者とは真逆ですけど。
2009年06月12日 10:54
大西洋で1日墜落したエールフランス機の乗客とみられる遺体が相次いで収容されているが、今回の惨事に対するフランス社会の反応に、ふに落ちないことがある。
同機の燃料残量や一切の通信が途絶えたことから考えれば、フランス時間の1日午後に絶望的状況を迎えたことは客観的に推定された。だが、機体の残骸(ざんがい)も何も見つからない同日夕、サルコジ大統領が「生存者救出の可能性はほぼない」と言い切ったのにまず驚いた。近親者の感情への配慮を欠いた失言とさえ思ったが、そんな反発は一切出なかった。
翌日にはエールフランスが合同追悼ミサの予定を発表。国民議会(下院)や開催中だった全仏オープンテニスなどでは黙とうがささげられた。本格的捜索が始まったばかりの段階で、不明の228人は既に「犠牲者」として扱われていた。
事態の流れについて行けず、こちらの知人に「死生観や社会習慣の違いか」と質問を繰り返したが、「早くないよ」「いつまで(死亡確認を)待つの?」と言われ、納得いく説明は聞かれなかった。フランスの社会から遅れること1週間超。今、ようやく亡くなった方々の冥福を祈っている。
=2009/06/12付 西日本新聞朝刊= <<<
まあ、いくら客観的に分かっていることといえど、あまり声を大にして言わないほうが良いという感覚は分からないでもありません。しかし日本人の場合、「いくらなんでもそろそろ認めろよ」というような段階にいたってもなお、限りなくゼロに近い「可能性」にすがり、いつまでも「自粛」をしている姿が目立つように思います。
そして、何よりも不気味で恐ろしいのが、もはや誰の目にも結果は明らかであっても、「自粛」の空気ゆえに、誰もそのことについて切り出すことができないことにあると思います。また、「いいかげんに認めろよ」と敢えて切り出した人物に対する、異常なまでのバッシングについても指摘しなくてはなりません。誰もが分かっているのに、みんなそろってその人を(徹底的に無視するのなら理解できますが)積極的にボッコボコに袋叩きにしている様は、はっきりいって異常であると言わざるを得ません。そして、この異常なまでのバッシングは、真っ当な言説を口にすることをはばからせるには十分すぎるほどの力を持っています。
ちなみに、記事中において、エールフランス機墜落事故に対するサルコジ仏大統領の、早期からの墜落断定発言について、西日本新聞記者が「近親者の感情への配慮を欠いた失言」ではないかと書いているのをはじめとして、「自粛」の空気を破る人物に対する異常なバッシングは、多くの場合、「近親者の感情」をダシにして発言者をボコボコにします。しかしながら、「近親者の感情への配慮」というのならば、むしろいつまでも、限りなくゼロに近い「可能性」にすがって、妙な「自粛」の空気を漂わせていることは果たして「近親者の感情への配慮」にあたるのだろうかと疑問に思わざるを得ません。すなわち、人間というのは、都合の良い情報を聞きたがり、都合の悪い情報は聞きたがらない生き物です。この特徴は、精神的に追い詰められれば追い詰められるほど顕著に現れます。つまり、近親者が搭乗していた飛行機が消息を絶つというような、極度に精神を追い詰めるような情勢においては、こういう「自粛」の空気、すなわち、「可能性」を残す空気がいつまでも漂っていると、場合によっては「もしかしたら大丈夫なんじゃないか」というような大いなる思い違いをもたらしめることになりかねません。しかし、もちろん現実はそう都合よくできているわけではなく、いつかかならず現実を受けられなければならない日がやってくる。つまり、こういう妙な「自粛」の空気は、近親者の精神的ダメージを軽減させたりするものなどでは決してなく、単に時間的に先延ばしにし、不安な日々を無意味に長引かせ、近親者に無用な心的負担を強いているに過ぎないのではないでしょうか。
もちろん、だからといって面と向かって「もうあきらめろ」という必要はありませんし、それはそれで問題です。私としましては、単なる時間的先延ばしに終始するのではなく、人間心理の専門家の指導の下、遺族となった近親者の精神的ダメージを軽減させるケア活動に、もっと力を入れるべきではないかと考える次第です。
妙な「自粛」の空気は、「当事者感情」を「守る」ことにはなんら寄与しない一方で、共同体内部に異常な空気をはびこらせ、人々に「自粛」の空気の支配に対する「恐れ」を抱かせるだけです。そして、こういう「自粛」の空気に対する「恐れ」が真っ当な言説を口にすることをはばからせることになるのではないでしょうか。

