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2009年08月30日

「政権交代」は「画期」になり得るか―日本人の単純勧善懲悪の視点から

 ついに衆院選投票日がやってきました。ご存知のとおり、「政権選択選挙」とのことなので、あるいは画期的出来事を呼び起こすものになるかのように見る向きが大勢を占めています。しかしながらそれは本当なのか。そこを考えるために以下、2つの記事を読んでみたいと思います。
http://news.goo.ne.jp/article/jiji_elex/politics/jiji-090824X912.html
>>> ずるい企業罰する政党を=面接合間にマニフェスト比較−非正規雇用者ら【09衆院選】
2009年8月24日(月)14:15

 衆院選の最大の争点の一つ、雇用問題。各党は求職者支援などを強調、「雇用安定」をうたうが、非正規雇用者は厳しい目で各党のマニフェスト(政権公約)を見詰め、訴えに耳を傾けている。

 「これで内定取り消しになることはありませんから、安心してください」。神奈川県の無職男性(23)は、入社式の社長の言葉が忘れられない。卒業した専門学校の推薦で、4月に県内のソフトウエア開発会社に入社した。しかし社長の言葉の2週間後、突然解雇を言い渡された。「やっと親孝行できると思ったのに」。悔しさのあまり、何も言い返せなかった。

 今は週2、3回ハローワークに。正社員募集の求人票を見ても、面接に行く交通費が工面できずあきらめることもある。

 やっと面接にこぎつけても、採用する気がないのに求人票を出す「カラ求人」だったり、「正社員募集」としているのに「契約社員のみ募集」と告げられることも。巧妙に労働者を使い捨てにしようとする企業に何度となく失望してきた。

 投票には行く予定だが、まだどの党に投票するか決めていない。「弱者につけ込むずるい企業を厳しく罰してくれるような政党を選びたい」と、面接の合間を縫って各党のマニフェストを比較している。(続)
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009081902000053.html
>>> 怠けている連中に税金払う気なし 厚労相、『派遣村』で言及
2009年8月19日 朝刊

 舛添要一厚生労働相は十八日午後、横浜市内の街頭演説で、昨年末から今年一月にかけて東京・日比谷公園に設けられた「年越し派遣村」に関し、「(当時)四千人分の求人票を持っていったが誰も応募しない。自民党が他の無責任な野党と違うのは、大事な税金を、働く能力があるのに怠けている連中に払う気はないところだ」と述べた。

 これに対し、派遣村実行委員だった関根秀一郎・派遣ユニオン書記長は本紙の取材に「求人として紹介されたのは確かだが、誰も応募しなかったというのは全くのでたらめ。たくさんの人が応募したが、断られたのがほとんどだ。舛添氏の発言は現場の実態が全く分かっておらず、あきれてものが言えない」と批判した。
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 ずるい企業を「罰する」ことを求める有権者と、怠けている連中には「支援しない」ことを約束する政治家(舛添氏本人は参議院議員なので正確には候補者ではありませんが、「自民党が他の無責任な野党と違うのは」と言っているので)。槍玉に挙げられているのはそのとき、その人によって異なりますが、基本的に共通しているのは、「自分自身は常に『善』であり、そんな『善』なる自分が気に入らない人物・集団・事柄は絶対的に『悪』であり、制裁を加えなければならない」と断ずる、(時に身勝手な)単純勧善懲悪です。

 日本人の単純勧善懲悪については、これは、今に始まったことではありません。悪いのはかつては文明の開化に遅れている「清朝・朝鮮」であり、「支那」(暴支膺懲に端的に表されいます)であり、そして今は「ずるい企業」であり、「派遣村村民」であり、「官僚」であり、「北朝鮮」です。昔からずっとこの調子です。ですから、有権者が「ずるい企業を罰する政治を!」と言ったところで、そんなのはいつものことです。

 単純勧善懲悪の立場を取る政治家についてはどうなのか。日本の政治家は昔からずっとこの調子だったのか。これについては、勧善懲悪の要素が全くなかったといえば、それは嘘になりますが、しかしながら、近年の単純勧善懲悪基準で行けば罰されてしかるべきような人物・集団も含めて、国民全ての利益をそれなりに誘導することが長い間の日本政治の基本的な性格であったと言えるのではないでしょうか。

 その基本的な性格が決定的に転換したのはいつか。それは小泉政権以降です。では、なぜ小泉政権は利益誘導型政治という日本政治の基本的な性格を決定的に転換をしたのか。それは、そうでもしない限りもう自民党は有権者から支持されにくくなったからであると言われています。その背景には、もちろん色々あることは言うまでもありませんが、そのひとつとして、有権者の単純勧善懲悪欲求、具体的には、うまいこと立ち回って労少なくして利多きポジションを取っている人物・集団に対する「労働教」的思考(労少なくして利多き楽な仕事は卑しい仕事とする思考。過去ログ参照)に基づく反感・是正の欲求(労働教的単純勧善懲悪の欲求)が、長引く不況で増幅されたというのがあると思われます。

 そんな小泉内閣はチュチェ95(2006)年に終わりをつげました。しかし、自民党はこの「労働教的単純勧善懲悪」路線を続けています。その理由として、やはりそりゃ色々と事情が複雑に絡み合っていることは言うまでもありませんが、ひとつに、野党側もまた、この有権者の労働教的単純勧善懲悪欲求に目をつけたからではないかと考えます。もちろんここで言う「野党」は民主党です。

 そう、自民党が小泉が去った後も労働教的単純勧善懲悪政策・主張を続ける理由のひとつには、次第に存在感が大きくなってきている野党の側も労働教的単純勧善懲悪政策・主張を掲げているからではないのでしょうか。このように考えると、昨今の、自民・民主両党が互いに「脱官僚」「官僚特権の剥奪」という(下手するとむしろ国民生活が悪化するような危険な)テーマで競い合っているのにも納得が行くと思います。ちなみに、「労働教的単純勧善懲悪」を否定した人物・集団の末路、あるいはこの土俵から敢えて撤退する人物・集団の末路は、よっぽど強固な支持基盤が無い限り、惨敗以外にはありません。

 つまり、有権者が労働教的単純勧善懲悪欲求を持つ限り、自派の勝利のためには与野党ともに、もはやこの土俵から降りるわけには行かず、よって自ずから両者ともに似たような主張を展開せざるを得なくなるのです。

 このように考えると私としましては、おそらく起きるであろう政権交代は「画期」にはなりえず、もし本当に「画期」が訪れるならば、そのときは日本人が労働教的単純勧善懲悪を含む単純勧善懲悪の思考回路を放棄したときであると考えます。しかし、それには途方も無い時間と「文化大革命」が必要です。果たしていつになるのやら。

【関連記事】
098/09/01なぜ労働教的単純勧善懲悪ではいけないのか
※この記事では「労働教的単純勧善懲悪」は問題ある事柄との前提で話を進めましたが、なぜ「労働教的単純勧善懲悪」が問題であるのかという論点については、上記の記事を参照ください。
099/01/30オレ基準の労働教



posted by s19171107 at 01:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
社会的な不平不満に端を発する鬱積を癒すべく「あいつを叩け」「あいつを吊せ」と要求する破壊的な発想は、確かにある意味わかりやすくて「スカッとする」ものなのかも知れません。
通り魔の心理とちょっと似たところがあると言いますか、鬱積したストレスをとにかく発散させたい、ムシャクシャしてやった、痛みに耐えて良く頑張った(今後のキャリアは棒に振っても構わない)、みたいな感じで。

そういう鬱積が、例えば「儲けている正社員はけしからん」といったような皮相な八つ当たりではなく「派遣の俺にも儲けさせろ」という前向きな方向になかなか昇華されないのは、そのために客観的に事実を観察して分析するという理性を伴った手順をどうしても一度は挟む必要があり、また手っ取り早く「あいつ」を吊すことこそが「正義」そのものだという都合の良いウソからも逃れる必要があるからかも知れません。

昔に比べて情報の検索は容易になったはずですが、極端な話ちょっとググればわかるような事実にも背を向けてしょうもないヘイトスピーチやレイシズムに耽溺する困った人も少なくない。
それほどまでに余裕がなく"禁断症状"は深刻で「文化大革命」への道は遠い、そう思わざるを得ません。
Posted by ポール at 2009年08月31日 05:58
コメントありがとうございます。

同感です。付け加えさせていただくならば、9月28日の記事にも書きましたが、では実際どのように変革してゆくかの展望がいまひとつ見えてこないというのもあるかも知れません(仰る「事実を観察して分析するという理性を伴った手順」の一種ともいえますけど、私としては、特に強調したい部分です)。

情報の検索がかつてに比べてはるかに容易になったにもかかわらず、昔と大差ない、それどころか昔ですらそんなもんには引っかからなかったんじゃないかというようなレベルのヨタを本気にしている人が少なくないという現実から透けて見える昨今の「余裕」の程度は、確かに深刻なものをあらわしていると思います。

そこまでして自己を正当化しないとやっていけない「焦り」。「貧すれば鈍する」とか余り私が言えたことではないのですが、どうしても頭をよぎります。

そしてこの「焦り」が、「変革の展望」の欠如から「閉塞感」をもたらし、いくらあがいてもどうにもならないと言う現実から「無力感」を感じせしめる。そこに強力なニューリーダーを予感させる人物が現れると、たとえその人物がどっかの誰かさんのようにアレな人であっても、皆が希望を託して飛びつく。あれ、どっかで見たことがあるような展開。。。
Posted by s19171107☆管理人 at 2010年01月24日 00:12
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