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2010年03月14日

捕鯨反対派の”論理”レベルに堕ちた捕鯨擁護派

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100311-00000100-jij-int
>>> 鯨肉を違法提供、高級すし店訴追=「コーヴ」スタッフが検察と連携−米加州
3月11日15時46分配信 時事通信

 【ロサンゼルス時事】米ロサンゼルスの連邦検察当局は10日、違法食材の鯨肉を客に提供したとしてロス近郊サンタモニカの高級すし店「ザ・ハンプ」の運営会社と調理人の日系人男性(45)を海洋哺乳(ほにゅう)類保護法違反容疑で訴追した。有罪の場合、調理人に禁固1年と罰金10万ドル(約900万円)、運営会社に同20万ドルがそれぞれ科される可能性がある。

 検察当局は5日に同店を捜索し、証拠書類などを押収。発表によると、絶滅危惧(きぐ)種に指定されているイワシクジラを昨年10月から提供していたという。米国ではクジラやイルカなどの海洋哺乳類の所持、売買が禁じられている。

 発覚の発端は和歌山県太地町のイルカ漁を批判し、先にアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得した映画「ザ・コーヴ」の制作スタッフの調査。情報を基に客を装い食材を持ち帰るなどし、当局と連携して専門家のDNA鑑定を行い、クジラと裏付けられた。
<<<
 久々に捕鯨論争。

 以前にも書きましたが、捕鯨反対派は決して一枚岩の思想で動いているわけではありません。たとえば、観光産業への悪影響を懸念するがゆえに日本の南海調査捕鯨に反対する人もいれば、自己の信念に基づきあらゆる捕鯨活動に反対している人もいます。

 しかしながら、昨今の日本では、おなじみの「敵味方単純二分法」にもとづくキャラクター設定と、これまたおなじみの「インパクト偏重」思考ならびに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」思考があいまって、何かと話題になる「シー・シェパード」型の抗議論理が捕鯨反対派の総意であるかのように認識されています。

 このような認識に基づく日本国内の捕鯨擁護派曰く、「捕鯨・鯨肉食は日本の文化である!」「『捕鯨規制』は文化抑圧である!」「文化の多様性は保障されるべきだ!」「日本は自国の文化を防衛しなければならない!」と。これが何よりも先立って目立つと言ってよいと思います。

 確かに、捕鯨と鯨肉食は古くから日本に伝わっています。もっとも、日本の「伝統」的な捕鯨は「沿岸捕鯨」であり、現行の捕鯨、すなわち、南海に遠征してとっ捕まえてくるのとは違うような気もするんですが、まあ「伝統」なんて、その人が「これは伝統!」といえば伝統になってしまうというのは以前にも書いたとおりなので余り深く突っ込まないことにします。

 また、文化というものは、当地の人間の感覚に基づくところも大きく、「文化の多様性」は当然に保障されなくてはなりません。その点において、ある文化について部外者の感覚のみを以って断じようとすることは、感情屋的「オレ基準」とかなり通じるところがあると言わざるを得ず、かなり乱暴な、「文化抑圧」といわれても仕方ないレベルだと思います。よって私は、「シー・シェパード」型の論理を以ってあらゆる捕鯨活動に反対することを強制せんとする立場に対しては、批判的であります。

 しかし、「捕鯨・鯨肉食は日本の文化である!」というのならば、当然に「クジラを殺さない・食用としない文化」の理解もしなくてはなりません。日本が「捕鯨文化」を盾に全世界に乗り出すのならば、それは同時に非捕鯨国にとっては「文化抑圧」にほかなりません。

 本件は、「クジラを食用としないアメリカ文化」において、鯨肉を食用として供していた寿司店と調理師が、その文化を体現している「海洋哺乳類保護法」によって訴追されたという話、「クジラを食用としないアメリカ文化」が「『鯨肉食』という文化抑圧」に対して、「自己の文化を防衛する」ために動いたという話です。アメリカ側は、日本国内の捕鯨擁護派たちが「捕鯨文化防衛」のために持ち出した論理と全く同様の構造の論理を持ち出したのです。

 完全にブーメランを食らった日本側であり、「確かにアメリカで鯨肉を食用に供するのはダメだよね、アメリカはクジラを食べない国だもんね。」と返すのが筋です。この際、「でも日本の鯨肉食文化に文句つけるなよ」くらい付け加えても良いでしょう。「相手に言い負けたくない」という、先日も書いた「論破を目的とした議論」という姿勢がミエミエですが、あまり最初からハイレベルなことを要求するのは酷ですからね。

 にもかかわらず、実際には以下のようなコメントが出てきています。
>>> 2010年3月11日 15時49分hid*****さん
私もそう思う1,842点 私はそう思わない41点

盗撮映画 人種差別

イルカは頭がいい、牛や豚はそうじゃない、だからイルカやクジラを殺すのは駄目だという理屈、誰が理解できようか。

生きとし生けるものに命の価値の差はないだろ。イルカを食べるのもクジラを食べるのも、そして豚や牛を食べるのも食文化だ。命に差はない。

まぁ命の価値に差をつけるから、日本の文化を見下し揶揄する人種差別を平気で出来るんだろうな。
<<<
>>> 2010年3月11日 15時52分hid*****さん
私もそう思う1,401点 私はそう思わない84点

フランス料理のウサギや、豪州のカンガルーを食べる文化、こっちの方が気持ち悪い。可愛い動物だろ?

人種差別も甚だしい。 追訴された日系人というのも気の毒だ。 日本食、日系人に対する差別だろこれも。
<<<
 前者ならば、「誰が理解できようか」、後者ならば「こっちの方が気持ち悪い」。そう思っている主体はあくまで日本人のあなたであり、当地の文化では、それは容易に理解できるし、気持ち悪くも何ともない当たり前の感覚であるはずです。

 「シー・シェパード」型(=オレ基準のみでの思考、その結果の押し付け・異質なものへの抑圧)の捕鯨反対派に「多様性」を盾に対抗してきた捕鯨擁護派だったのに、いつの間にか自分たちも「シー・シェパード」型の主張をするレベルに堕ちていた。いや、彼らの言っていた「多様性」だって「オレ基準を認めろ」という意味であり、徹頭徹尾「オレ基準」だったのかもしれません。
posted by s19171107 at 23:28| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>日本が「捕鯨文化」を盾に全世界に乗り出すのならば、それは同時に非捕鯨国にとっては「文化抑圧」にほかなりません。

論理になってませんね。
日本が他国に「捕鯨をしろ」と命令しましたか?
日本が食べたくない人に鯨肉を食べろと批判しましたか?
反捕鯨国の捕鯨禁止の強要というのはそういうことですよ。

>前者ならば、「誰が理解できようか」、後者ならば「こっちの方が気持ち悪い」。そう思っている主体はあくまで日本人のあなたであり、当地の文化では、それは容易に理解できるし、気持ち悪くも何ともない当たり前の感覚であるはずです。

他者を禁止させようとするから矛盾を突っ込まれるのですよ。
ヒンズー教徒は牛を神聖視しているが他人に強要しないからこんなに矛盾を突っ込まれません。

鯨を食べないのは単なる好き嫌いのレベルだが、他人を禁止させようとするのは差別です。
なぜ鯨だけ禁止させようとするのか。
Posted by アリア at 2010年07月28日 00:36
アリアさん

コメントありがとうございます。だいぶ長いことお返事しておりませんでしたので、恐らくもうご覧になっておられないとは思いますが、一応、お答えしたいと思います。

私の言わんとすることは、「棲み分けせよ」です。

「捕鯨が日本の文化だ」と言うのであれば、まさに伝統に従って沿岸捕鯨のみを行うべきであって、わざわざ遠洋にまで、それも非捕鯨文化圏にまで出るべきではないでしょう。

逆に、非捕鯨文化圏の人々は、わざわざ捕鯨文化圏の中での出来事にまでとやかく言うべきではありません。

本文中では、以下の部分がそれに該当します。
「しかし、「捕鯨・鯨肉食は日本の文化である!」というのならば、当然に「クジラを殺さない・食用としない文化」の理解もしなくてはなりません。日本が「捕鯨文化」を盾に全世界に乗り出すのならば、それは同時に非捕鯨国にとっては「文化抑圧」にほかなりません。」

その点、アリアさんが仰る「反捕鯨国の捕鯨禁止の強要というのはそういうことですよ。」というのは、私もそのとおりだと思います。「鯨を食べないのは単なる好き嫌いのレベルだが、他人を禁止させようとするのは差別です。なぜ鯨だけ禁止させようとするのか。」というのも、そのとおりだと思います。他方で、日本の捕鯨船がわざわざオーストラリア近海にまで出るべきではないと思います。お互いにお互いの文化圏に入り込むべきではありません。
Posted by s19171107@管理人 at 2014年02月26日 23:21
>「捕鯨が日本の文化だ」と言うのであれば、まさに伝統に従って沿岸捕鯨のみを行うべきであって、わざわざ遠洋にまで、それも非捕鯨文化圏にまで出るべきではないでしょう。

私は「文化だから」を理由にはしてません。
他人を禁止する強制を批判してるので。

例えば管理人さんは
「現在の稲作はコンバインを駆使してるしコシヒカリ等は近代に生み出された銘柄だから日本の米食は伝統食文化ではない」
という馬鹿げた暴論をどう思いますか?

まあこれはたとえであって、伝統か否かを論点にしようとは思いませんが。

一つ伺いたいのですが、管理人さんは公海での漁業を悪いことだと思ってるのですか?
多くの国が公海で遠洋漁業してるのに、それが遠洋捕鯨だとなぜ悪いことになるのですか?

>他方で、日本の捕鯨船がわざわざオーストラリア近海にまで出るべきではないと思います。お互いにお互いの文化圏に入り込むべきではありません。

近海って・・・
国際法的には領海と経済水域と公海の三区分しか存在しません。
日本が行ってるのは公海です。
公海では漁業の自由と調査の自由が国際法で定められています。

現に多くの国が南極海においてオキアミ漁とアイナメ漁を行ってます。
なぜ魚には文句は言わず鯨だと文句付けるのか?
これは捕鯨業への職業差別でしょうに。
Posted by アリア at 2016年03月18日 20:12
アリアさん

再度のコメントありがとうございます。
半年くらいでしょうか、またも放置してしまって申し訳ありません。
管理が十分に行き届いておりませんでした。年単位の文通?になってしまっていますね。


■公海での漁業について――法的には問題ありません
順序が前後しますが、まずこの点から。

法的な観点で言えば、なんら問題はないと考えています。
ただ、ここではあくまで文化の問題という切り口で考察しており、法的に正当か如何かという切り口では検討しておりません。

つきましては、「管理人さんは公海での漁業を悪いことだと思ってるのですか?」というご質問に対しては、
・公海での漁業行為は、法的には問題はないと考えています。
・そもそも、法的な論点は設定しておりません。
とご回答させていただきます。

「お互いにお互いの文化圏に入り込むべきではありません。」という一文から、法的視点ではなく文化的視点から述べていることをご認識いただければと思います。

■「私は「文化だから」を理由にはしてません。」に対して――伝統論は割愛しましょう
左様ですか。

私の「「捕鯨が日本の文化だ」と言うのであれば、まさに伝統に従って沿岸捕鯨のみを行うべきであって、わざわざ遠洋にまで、それも非捕鯨文化圏にまで出るべきではないでしょう。」という一文は、この記事本文の補足説明であり、アリアさんのお考えへの再反論ではございません。誤解を与える表現で申し訳ありません。

伝統か否かを論点にするつもりはないとのお言葉なので、こちらへの回答は割愛させていただきますね。

■「他人を禁止する強制を批判してるので。」に対して――場も棲み分けるべき
記事本文中でも「ある文化について部外者の感覚のみを以って断じようとすることは、(中略)、「文化抑圧」といわれても仕方ないレベルだと思います。」とか「私は、「シー・シェパード」型の論理を以ってあらゆる捕鯨活動に反対することを強制せんとする立場に対しては、批判的であります」と述べております。

それゆえ私は、「クジラを絶対に捕るな、絶対に食うな」などというのは、少しの理もない不当な介入だと考えています。これは「文化侵略」であり、こうした要求は相手にする必要はないでしょう。まさにアリアさんが仰る「他人を禁止する強制」に当たるでしょう。

しかし、「わざわざオーストラリア人の文化圏まで来て、我々にとっては『友人』であるクジラを捕っていかないでくれ」というレベルであれば、文化の問題として一理あると思います。あるいは、「捕鯨絶対禁止には応対できないが、オーストラリア文化圏まで遠征はしない」という手の打ち方もあると思います。その意味で私は「棲み分けせよ」と述べているのです。

たしかに、日本人がオーストラリア人に「捕鯨をしろ」とは命令していません。しかし、「場」自体が文化です。オーストラリア文化圏が「クジラを『友人』として、ともに暮らす」というのであれば、捕鯨の主体が日本人であっても当地では捕鯨は控えるのが、オーストラリア文化への配慮だと思うのです。

アリアさんは靖国神社を参拝したことはありますか? 私は何度も参拝しておりますが、中門鳥居をくぐった先の本殿の真ん前では、写真撮影は誰であっても警備員に止められます。日本人であれば本殿の真ん前の聖域で敢えて写真撮影をしようなどとは思いませんが、文化的バックグラウンドが異なる外国人がこのことを知らないのは無理はないと思います。しかし、靖国神社という場は、日本文化・神道文化の重要拠点です。ここでは外国人と言えども、我々の文化を尊重して欲しい。それが「外国人でも中門鳥居をくぐった先、本殿正面での写真撮影はお断り」になるのだと思います(敷地の管理権の問題は脇において)。

法的義務では、もちろんありません。実際、無視して写真撮影する外国人(日本人も!)もいますから。靖国神社は写真撮影を強行する輩をツマミ出すことまではしませんが、どーーしても何から何まで好き勝手に写真記録しないと気が済まない人物は、靖国神社を訪問して欲しくありません。靖国神社と捕鯨を並べるのは如何かとも思いますが、近いものがあるのかなと思います。

また、たとえば東南アジアなどにはゴキブリ食文化があります。社会通念的に言って日本では理解しがたい食文化です。たとえ当地人による調理だとしても、日本国内という場ではちょっと控えていただきたい、すくなくとも、エスニックタウンの中だけにしていただきたいと思います(自分で言うのもアレですが、私は寛容な方です)。もちろん、本国だったら幾らでもお召し上がりいただいて結構です。ゴキブリを毎日商店街を歩きながら食べなければ気が済まないというような人がいるとすれば、「ここではやめてくれ」の一言くらいは言いたいです。

繰り返しになりますが、「文化的に棲み分けせよ」というのがこの記事の主張です。わざわざ日本人がオーストラリアにまで出掛けることはないでしょうし、逆にオーストラリア人が和歌山県の海まで出張して来ないで欲しいと思うのです。互いに相容れない文化について干渉し合わない、そのためには、物理的・空間的にも接触を控えるのが必要だと考えております。

これは「義務」ではありません。日本側は今までどおりオーストラリア近海の公海まで遠洋捕鯨しても法的に問題ないのは当然、あくまで文化の問題;判断の問題ですから、絶対的な不正義とは言い切れません。「棲み分けたほうがいいよ」という意味で「棲み分けせよ」と重ねて申し上げたいと思います。

■棲み分け論を思想文化的にも物理・空間的にも徹底すべきというのが私の立場
「自分たちがクジラを愛護する限りはオーストラリア人の勝手だが、捕鯨は日本の文化;日本の勝手である」という切り口を中核に据えている日本の捕鯨擁護派の主張は、「文化棲み分け論」に他ならないと私は分析しています。これは正しいと思いますが、その立場に立ち、徹底するためにこそ、日本人は物理的・空間的にも「棲み分け」すべきだと考えております。
Posted by s19171107@管理人 at 2016年09月14日 19:52
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