(一部引用)
しかし、被告が法廷内で書いている自分のメモにまで検察から介入されることに対して怒ることは、この事件の「反省」「謝罪」と関係があることなのだろうか?メモは自分が後から確認したりするために使うものであるから、ほかの人に見せたり、だれかに提出して読んでもらうために書くものではない。誰だってそうだ。それにケチをつけてくれる人に対して、少しぐらい怒りたくなる気持ちをもってはダメなのか。ほかの人は別によくて、被告の元少年がそれをやることはダメなのか。それが「許せない」のか、「反省していない証拠」だとでも言うのか。自分に向けられるすべてにおとなしく従うことが「反省」なのか。しかも、被告は遺族に対してそれをしたのではなく、あくまでも検察側にしたことだ。(太字はs19171107による)
太字にした部分の疑問提起に同意。
自分は中学生とき、ちょっとした校内備品損壊を起こして職員会議に出頭させられた。
まあ職員会議といっても実質、裁判みたいな内容で、「犯行事実」の尋問をされたりしたんだけど、その中で「検察」が、やっていないことについて「やったんだろう」とか言い出した。私は「いや、それはやっていませんよ」というと、「検察」が「反省できていない」とか喚きだした。
「事実確認のために開かれた職員会議のはずなのに、何言ってんだこいつ。」と心中思ったけど、備品損壊は事実な上に「弁護人」もいないから下手に争うのはやめようと考えて、「ああ、そういえばやりました。思い出しました。」って言ったっけ。
あの時、「検察」が言った意味での「反省」という言葉は今でも良く分からない。あの職員会議のあとしばらくは、一般的な意味での「反省」という言葉も良く分からなかったなぁ。まあ、おかげで高校では、また"裁判"にかけられるのは嫌だから、直接指示があるまで絶対に動かない、凄くおとなしい生徒になったけどねw
この事件の裁判との関係性は薄いけど、苦い記憶がよみがえりました。
ちなみに、教師に関するこの手の話をすると、日教組認定をして日教組叩きの材料に使いたがる人が出てきますが、あの職員会議に出てきた教員陣の中に日教組いなかったと思います。
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「みんな」が一旦、「こいつが悪い」と判断したならば、そう見なされた人間は一切弁解をしてはならない、どんな扱いをされても黙って耐えなければならない…という発想は、正直、いじめやリンチ殺人の加害者と同じ心性だと思うんですが。
今日の判決を巡る意見をみていても、「素直に反省の弁だけ述べていれば死刑は免れたかもしれないのに。あの弁護団が余計な事を被告に焚きつけたせいで心証が悪くなった」というのがかなり多かったです。
>「amanoiwato」さん
批判・糾弾も、いきすぎるとただの「リンチ」になるという点においては、仰るとおり、「リンチ」と同じ構造があると思います。
>直に反省の弁だけ述べていれば死刑は免れたかもしれないのに。あの弁護団が余計な事を被告に焚きつけたせいで心証が悪くなった
本差し戻し控訴審は、最高裁が差し戻した時点で、「従前の弁護内容なら死刑にせよ」という前提つきだったのですから、弁護団としては、あらたな主張を展開しなければなかったんですけどねぇ。。。
なんちゅうか、場外乱闘ばかりが目立って、肝心の裁判の内容が余り省みられていないのが良く分かりますね。
>「mash」さん
本判決に限らず、日本における「反省」は、「誰に対して」「どういう」「反省」を求めているのか、いまいちハッキリしないところがあると思うんですよね。
「漏れ聞いた」話によりますと、どうも本判決で「反省が見られない」とした理由も、差し戻し控訴審段階になってから弁明を始めたことにあるとしているそうですが、裁判というのは、ある事件によって得られた教訓を明日の社会制度構築に生かすチャンスである以上は、ウソつかれたまま処刑台に送られるよりも、たとえ差し戻し控訴審段階になってからでも弁明を始めたほうがいいと思います。