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2007年10月03日

司法:刑事裁判における弁護活動に対する誤解を解くには裁判をディベートの一種と捉えると良いかもしれない

 当ブログを始めとして、各地の、刑事裁判に対する必須の視点をお持ちの方によるブログやサイトでは、光市事件への世論を始めとする様々な殺人事件や死亡事故に対する世論の分析から、それらの刑事裁判に対する必須の視点の欠如が指摘されています。(当ブログでは、そういう必須の視点が欠如している方々を『感情屋』と称しています)

しかし、感情屋も伊達に感情屋をやっていないようで、法学知識などを織り交ぜた指摘はピンとこないらしく、あまり効果があるようには見えません。鳥取弁護士会の副委員長が毎日新聞に語った『弁護人の立場・役割』という記事(http://s19171107.seesaa.net/article/53103573.html)は、私としては実に端的で分りやすい説明だったと思いますが、やはり感情屋さんたちにはピンと来ないようです。

 そこで今回、裁判制度をもう少し身近な『ディベート』の一種と捉えて、特に弁護士の役割について考えてみたいと思います。


 ディベートを知らない人は流石にいないと思いますが、念のため。

ある論題に対するディベートは、肯定派と否定派、そして判定員の三者で構成します。このとき、肯定派・否定派ともにかなり極端な立場をとらされることが多いです。私が小学5年のとき初めて授業でディベートをやらされたときの論題は『インスタント食品は良いか』で、肯定派は『インスタント食品は素晴らしい 人々は3食インスタント食品を食べるべきだ』、対して否定派は『インスタント食品は悪魔のようなものだ 人々は何があっても食べるべきでない』でした。

 ディベートの進め方は大体、肯定派の立論→否定派による反対尋問→否定派の立論→肯定派の反対尋問→反対尋問を受けて、双方による反駁(反論)→判定の流れだったと思います。

 ここで何よりも大切なのは、ディベートにおける中心は判定員であることです。議題に対する肯定派・否定派なんてものは、判定員の意見形成=審判の決定のためにいるだけで決して中心ではないのです。だからこそ、私が経験として例示したインスタント食品のディベートみたいに極端な論を張らなくてはならず、判定員は両極端な意見に触れることで妥当な結論を見つけ出すことができるのです。

 刑事裁判も、論題を『被告人に罪はあるか』、肯定派を検察、否定派を弁護人、判定員を裁判官と置き換えてみると、ディベートの一種であると言えるのではないでしょうか。「ディベートの進め方」というのも、まさに刑事裁判の原則的な流れと一致しています。

 そして、先ほども述べたように論題(罪状)に対する肯定派(検察)と否定派(弁護人)は、判定員(裁判官)の審判(判決)形成のために互いに極端な主張をすることが求められます。検察なら判決が法解釈的に可能な範囲内で最大になるように、弁護人ならできるだけ軽い罰になるように。こうすることによって両極端な要求に接した裁判官には法解釈的に妥当な線というものが見えてくるのです。前掲の『弁護人の立場・役割』という記事には以下のようなくだりがありますが要するにこういうことなんです。
 ――検察、弁護人、裁判官の役割とはみんなが「正義の味方」と思われているかもしれないが、犯罪の立証は検察の役割で、弁護人の役割は被告人を守ること。裁判官は、何が証拠としてふさわしいか、法で定められた犯罪に当てはまるか、有罪ならどれくらいの刑が適当か、などを判断する。「正義」と「悪」の対立ではなく、各々の役割を果たすことで「正義」が実現できる。
ですから、弁護人が被告の利益のために、たとえ感情的・直感的には受け入れられないものであったとしても法廷で主張することは、妥当な判決を得るためには必須の行動であるのです。

 たしかに被害者や被害者家族・遺族からすれば、憎いであろう被告人の言い分なんて聞きたくないでしょう。しかし公正な裁判・妥当な判決のためには、弁護人による徹底した被告人有利の弁護活動が必要不可欠です。『犯罪者なんだから多少重くてもいいじゃないか』という意見もありましょうが、そうはいきません。刑罰というのは国家権力による人権の制限であります。本来人権の制限というのはいかなる場合でも許されるべきものではありませんが、受刑者に限って言えば、制限されるに見合う罪を犯したからこそ『国家権力による正当な人権制限』と認識されるのです。逆に言えば、罰しすぎは『国家権力による不当な人権制限』となります。また、自分の罪に対する妥当な刑罰ならば真摯に受ける必要があることは言うまでもありませんが、罰しすぎの部分について異議を申し立てることは非難されるべきではありません。

 9月27日づけで、私は『裁判:「社会正義に対する意識」の高いドイツ第三帝国の弁護士』(http://s19171107.seesaa.net/article/57567301.html)という、おふざけの過ぎたネーミングの記事で、検察官と一緒になって被告を論難するナチス・ドイツやスターリン体制下のソ連の弁護人について、こういう弁護士はどうして、第三帝国やスターリン主義ソ連みたいな、ろくでもない国にばかりいるのかと書きましたが、正確には逆で、ああいう弁護士がいるからナチス・ドイツやソ連はろくでもない国だったんです。(もちろん他にも原因はたくさんある)

もし、裁判に対して「社会正義」という言葉をあえて使うならば、「社会正義」とは判決によって初めてもたらされるものであって、検察官と弁護人が闘う法廷はその判決をつくるための散らかった作業場にすぎないのです。

 このほかにも、『無罪の推定』など刑事裁判を見る上で必要な視点(『無罪の推定』はむしろ論理学が源流だけど)はまだまだありますが、なによりも、この点に関する誤解が多すぎると思われますので、取り急ぎ指摘しておきます。

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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
posted by s19171107 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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