しかし、私としては署名人数の多寡によって犯人への判決が左右されることには反対します。
別の視点から考えて見ましょう。たとえば、家族がいない孤独な人が、この事件と同じような事件に巻き込まれた場合、そもそも署名を取りまとめる人すらいません。
また、昨今世を騒がせたリンチやいじめなどの加害者側が、そのリンチ・いじめとは全く関係なく今回と同様に殺された場合、「奴らに罰が当たった」とか訳の分らないことを言って署名に応じない人も少なくないでしょう。
あるいは、メディア報道の時間の制約の問題もあります。多くの人は殺人事件の存在そのものをメディア報道から得ています。しかし、メディア報道は厳しい時間の制約の中で、公共性と時事性の高いモノから順に報道しなくてはなりません。たとえば、9・11のような大事件が再び起きたり、台湾海峡や朝鮮半島などで大きな政治的軍事的変動が起きた場合、メディアとしては殺人事件報道どころじゃありません。当たり前ですが、事件そのものを知らなきゃ署名なんて出来ないし、事件は知っていても署名活動があるか知らなきゃ署名もできません。
署名運動など、外野の騒ぎ具合によって量刑が左右されてしまう裁判では、今あげたような場合において全く同じ案件であるにもかかわらず量刑が異なってしまう可能性があります。これは司法の公平性に欠きます。
このような視点から、私は署名運動など外野の騒ぎ具合によって量刑を左右することに反対します。
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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
桶川ストーカー事件に於いては、事件直後の警察の会見で、意図的に被害者女性のイメージを貶めるような発表がなされたように、被害者の印象もまた、権力を持った側の意向で操作、利用され得ますからね。やはり、管理人様が既に何度も指摘されているように、世論や「庶民感覚」を過信し過ぎるのは危険だと思います。
>被害者女性に数百万の貯蓄があったこと、所持していた財布や時計がブランド品だったこと
この件は、今回の公判報道に際して一切明らかにされてなかったので、正直驚きました。もちろん被害者の中傷は許されざることですが、この件が加味された場合、この事件の性格が全く変わってしまう可能性もあるわけで、その意味でおっしゃるとおり被害者像というのが警察・検察側の恣意的な裁量で変化することに無自覚である「世論」の過信は危険ですね。
なお、この件に関して被告が「交際相手」に書いた手紙が波紋を呼んでます。
http://mainichi.jp/chubu/newsarchive/news/20081220ddq041040012000c.html
「世論」の数を極刑適用の根拠にしている点で、本件は光氏母子連続殺人事件公判に類似した性格を持ってましたが、どのような文脈で書かれたかはっきりしてない「手紙」を被告のネガティブなイメージの造成に恣意的に用いてる点でいよいよ酷似してくるようになった気がします。いったいこの世論扇情→極刑適用の流れがわが国の司法制度にどれだけダメージを与えているのか、「世論」の側が気づくのはいったいいつのことになるのでしょう・・・。
>amanoiwatoさん
本件の場合は、実行者とされている3名は、被害者の資産状況や素行などを予め調査してから行動に移したわけではないので、被害者の貯蓄や素行を云々するのは余り意味のあることでは無いと思いますが、事件によっては、被害者の素行などから形成される「イメージ」が裁判審理に影響を与える場合もありえるので、対象に対するイメージが大部分である「庶民感覚」なるものを裁判に持ち込むことは、確かに危険ですね。
>mashさん
なんか、すっかり味をしめたって感じですね。
手紙なんて、前後の文脈・やりとりを無視すればどんな風にも読めますからねえ。たとえば「事件当時の心境をありのままに、今の心境を挟まずに書いてください」といわれて、その通りに書いたら「こいつは反省していない!」とか言われそうです。いよいよ、被告人が自己保身のために何も語らなくなるのではないでしょうか。
かくして事件の真相は何も分からぬまま刑場の露と消えるのであった。