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2008年01月13日

刑法:安易な厳罰化について

朝日新聞(東京)チュチェ97年1月12日付け投書
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(クリックで拡大)

さて、飲酒運転による死亡事故を殺人事件として立件したいそうです。
つまり、罰則を現行の「5年以下の懲役もしくは禁錮又は100万円以下の罰金」(刑法211条 業務上過失致死)あるいは「1年以上(20年以下)の有期懲役」(刑法208条の2 危険運転致死)から、「死刑又は無期もしくは5年以上(20年以下)の懲役」(刑法199条 殺人)にせよ、罰則に無期懲役と死刑を追加せよ、ということです。

法律的には「未必の故意」だって「故意」のうちですから、主観的構成要件要素の問題はクリアできますが、果たして飲酒運転事故に対して死刑を科せるというのはどうでしょう。

ここで、死刑という罰則の狙いから考えてみましょう。
私は、以前から再三申し上げているように、死刑制度についての明確な意見は形成していませんが、参考として今まで見てきた死刑存置論者の言説には、「犯罪抑止力」というのがありました。これの意味は読んで字の如くですが、死刑制度の存在による、殺人事件などについての「犯罪抑止力」というのは今のところ証明されていません。まして、飲酒運転において「もし事故起こしても懲役ならいいけど、死刑じゃ割りにあわないから止めておこう」なんて考える人が果たしてどれだけいるでしょうか。懲役だって十分キツイ刑罰であり、できれば逃れたい。だから「ひき逃げ」が起こるんじゃないですか? もし飲酒運転事故に死刑なんか導入した日には、いままで「自分の起こした事故だから、処罰はちゃんと受けよう」と思っていた人だって、「流石に死刑は、、、」ということで逃亡を図りかねません。

私としては、飲酒運転事故に対する安易な厳罰化よりも、もし事故を起こしてしまったとしても、逃げずに救助活動をし、その結果、被害者が一命を取り留めた場合などは、目に見える減刑処置などをするほうが「すぐ病院に運べば助かったのに」という悲劇を予防できるのではないかと考えます。

飲酒運転事故に限らず、一度、刑法抵触行為を犯してしまっても、事後の行動次第の「救いの道」を残しておいてやることが、安易な厳罰化よりも必要にされていることではないでしょうか。

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posted by s19171107 at 14:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お久しぶりです。
今回の管理人さんの主張は今までになかった見方で、非常にうなずけるのですが、重罰主義と人間性悪説に骨の髄まで染まっている今の多数の日本人には、こういう考えすらも「そんなのキレイゴトだ」という感じで受け入れられないのかも知れませんね。
「現代日本社会では『善=偽善=悪』という奇妙な3段論法がまかり通っている」と言った作家がいましたが、私も同意で、90年代のオウムや酒鬼薔薇の事件以降、どうも日本社会全体が性悪説の1人勝ちになっている気がします。
これも戦後の日本が(我々のような「左」の者も含めて)人間の「本音」を重視するあまり、「キレイゴト」をさんざん蔑ろにしてきたツケが回ってきているのかなぁ・・・などと考えたりするのですが。
Posted by ニュースコープ at 2008年01月13日 23:12
コメント有難うございます。
返信遅れて申し訳ないです。

>非常にうなずける

 有難うございます。

>こういう考えすらも「そんなのキレイゴトだ」という感じで受け入れられないのかも知れませんね。

 「キレイゴト」というのは、「理論」ではなく「感情」を基盤とした言葉です。理論に対して「キレイゴト」と言い放つ行為は、自分が理論的に考えることを放棄したことを宣言するものでありますので、本来的には、そんな言葉でしか「反論」できないことを恥じるべきだと思うのですが、感情的なものというのは、あらゆる論の飛躍を上手く取り繕ってしまうので、言っている本人にしてみれば恥ずかしくもなんともないんでしょうな。

 一応、「キレイゴト」という言葉すら使えないように、私が感情屋の方々に対して指摘する場合、常に実利優先主義、特に「被告の法的権利を擁護することは結果として被害者や社会の利益にもなる」という視点と、「文句あるなら理論的対案を出せ」の立場から主張しており、今回の記事もそのスタンスで書きました。理論と感情の衝突は往々にして不毛な論争になりますが、やはり私は実利優先の理論と対案要求の原則の方が強いと信じています。

>人間の「本音」を重視するあまり、「キレイゴト」をさんざん蔑ろにしてきたツケが回ってきているのかなぁ・・・

 うーん、そういう文学部管轄のことは、文系の癖に良く分からないのですが、様々な方向に伸びる数多の「本音=直の欲望」というベクトルが戦後日本を推し進めてきたのは確かです。その歪みがここ最近になって様々な問題を引き起こし、テレビをつければ不愉快な話題ばかりが映るがために、人々の心に性悪説が蔓延っているというのは、確かにあるかもしれません。

 所謂「道徳」ってやつは「キレイゴト」の最たるものですが、性悪説の1人勝ちを是正するには「キレイゴト」の再構築、すなわち「道徳」の再構築というのも必要かもしれません。

 ただ、この場合注意すべきは、安易な「復権」ではないことですかね。「昔から続いてきたから」なんて訳の分からない理由ではなく、理論的な検証をもとに、新たな「道徳」に収録するか否かを精査した上の「道徳再構築」でありたいです。

 とまあ、なんか、ウヨさんの言説みたいな結論になってしまったwww
Posted by s19171107@管理人 at 2008年01月19日 21:35
>私としては、飲酒運転事故に対する安易な厳罰化よりも、もし事故を起こしてしまったとしても、逃げずに救助活動をし、その結果、被害者が一命を取り留めた場合などは、目に見える減刑処置などをするほうが「すぐ病院に運べば助かったのに」という悲劇を予防できるのではないかと考えます。

これは私も同意します。厳罰化による隠蔽工作の方が恐ろしく感じます。事故は仕方ないことですが、後処置が悪いために人が死ぬのはこれこそ法の不備と言えると思います。

悲しいですが悲劇を防ぐためにはエサが必要かと思われます。
Posted by akikan at 2008年01月20日 02:02
コメント有難うございます。

>「akikan」さん
>厳罰化による隠蔽工作の方が恐ろしく感じます

 そういえば、以前に自動車の対人事故で、被害者を車で連れ去って山中に放棄したってのがありませんでしたっけ? 自動車事故に死刑なんて科したら、こんなことが続発する気がします。

>悲しいですが悲劇を防ぐためにはエサが必要かと思われます。

 これはトレードオフの関係ですね。
ある程度の刑罰にしないと抑止力にはならないけど、厳罰すぎると罪の回避のために隠蔽工作をしかねない。
 この辺の量刑加減は、まさに「庶民の感覚」が求められる分野ですが、当ブログで今まで分析してきた限り、「庶民の感覚」は実に沸騰しやすい危険物らしいので、「安定した刑罰適応」と「庶民の感覚の導入」も、また別のトレードオフの関係にありそうです。
Posted by s19171107@管理人 at 2008年01月20日 19:00
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