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2008年01月20日

実利優先主義的理論のすすめ

近頃、本来的な私の専門分野ではないものの、法律関係、とくに刑法と刑罰に関しての記事を頻繁に書いていることは、ご覧の通りだと思います。

私の刑法関連記事をご覧になればお分かりいただけるかと思いますが、殆どが、刑事被告人が本来認められるべき権利すらも否定する、ちょうど所謂「人権屋」と対照をなす、私の造語で言うところの「感情屋」の方々の言説を採集し、その論理を洗い出し、反論する記事であります(「感情屋」にとっては、私は「人権屋」にしか見えないでしょう)。

私はこれらの記事における「感情屋への反論」、つまり「刑事被告人の権利擁護」の言説は、基本的に実利優先主義、特に「被告の法的権利を擁護することは結果として被害者や社会(「第三者」)の利益にもなる」という立場で書いています。チュチェ97(2008)年1月13日づけ刑法:安易な厳罰化についてや、チュチェ96年10月8日づけ裁判:署名で罪が決まるときも、この立場で書いているつもりですし、そもそも裁判というものも「被告に裁判を受ける権利を保障し、裁判の場において持論を言わせる権利を保障することによって、なぜこういう事件がおきたのかを本人の言い分を含めて分析し、後の社会構築に役立てる」ために行うという、実利優先主義的な捉え方をしています(ときどき、近代刑事裁判における被告人の権利保障を「被告に情をかけている」と批判する感情屋が居ますが、私にしてみれば、頓珍漢な批判もいいところです)。また、今現在、意見形成中の「死刑制度」についても、この実利優先主義の立場から考えております(死刑制度についての持論については、またの機会に書きたいと思っています)。

更に言えば、司法関係のシリーズ記事についで頻繁に更新している改憲派論理研究を始めとする憲法9条関係の記事においても、「9条は自衛隊に対する歯止めであり最高の文民統制」論や「対米追従が酷い現状での改憲は自衛隊を専守防衛の戦力と法的に定義づけることにとどまらず、対米追従を深化させる。改憲するにしても対米自立してから。」という実利優先主義というか、それなりに現実路線の護憲論を軸に展開しています。


ではなぜ、私がこのように実利優先主義的な言動を取るのかと申しますと、刑法論議における「被告の権利のあり方」や、憲法論議における「9条の扱い」というのは、往々にして感情的・観念的・理想主義的な話になってしまい、結果として「キレイゴト」という一言で膠着状態になってしまうからです。


感情的・観念的・理想主義的な話というのは、突き詰めると価値観です。価値観と価値観をぶつけても何の解決にもなりません。価値観の説教というのは、その説教の根底にある思想に価値を感じない人にとっては煩いお経・念仏に過ぎません。

改憲派のなかには、「9条の理想」の価値を高く評価し、自身の護憲論の中心に据えている、所謂「社民党系の護憲派」を「念仏平和主義」と揶揄する者が居ます。曰く、「『平和は大切』と繰り返し言っていても『平和』にはならない。非現実的だ。」とのことです。私は護憲派ながら、この改憲派の方の言説には異論は無く、ある程度の軍事力は必要であるという認識は以前から憲法関係の記事で繰り返し主張してきていますが、この手の主張を繰り広げる広義の「護憲派同志」の方々に対して「あんたの言っていることは念仏平和主義だ」と罵倒したことはありません。なぜなら、私も「9条の理想」の価値は高く評価しているものの、現実的にそれで通用するかというと、ぶっちゃけ現状では無理だろ、という認識から仕方なく、ある程度の軍事力を認めているためです。

つまり、現実への認識は同じにもかかわらず、このように私と改憲派の方々の実際の言動は異なるというのは、結局、所謂「社民党系護憲派」が「9条の理想」ばかりを語るがゆえに、「9条の理想」などに価値観を感じない改憲派から、こういう揶揄がされているわけです。

「被告人の権利」に関してもそうです。「人権屋」という言葉を使う人にとって、被告人はただの処罰の対象であり、場合によっては抹殺の対象です。「被告人の権利」を保障することに価値を感じていません。だからこそ、「被告人の権利」を保障しながら進める近代裁判制度に対しての、あそこまでの無理解、中学校社会科と高校公民科、法律関係の入門書籍を数冊しか読んでいない、それこそ、生粋の「庶民」でしかない私ですら、その論理に対して反論できてしまう程度の認識がまかり通っているのです。

こういう人たちに対して、いくら「被告人の権利保障」の重要性を説いたところで、彼らにとっては価値と感じない価値観に基づく言説であるがために、「キレイゴト」にしか聞こえないわけです。


だからこそ、私は実利優先主義的立場から主張しています。特に第三者の利益や現実的な問題と利益に立脚して主張することによって、価値観vs価値観の闘争から脱却しようと画策しています。

私は、理論と観念的価値観(感情含む)は、理論のほうが強いと思ってまいます。たしかに感情は理論と違って論破されませんが、「理論」(特に実利優先主義的理論)と「対案の要求」を組み合わせて迫れば、消去法的ではありますが、結局、理論的なものを選択せざるを得ないと思っています。


とまあ、チュチェ97年1月13日づけ刑法:安易な厳罰化についてへお寄せいただいたコメントへの返信を考えたついでに、私のスタンスについてまとめてみました。今後も、この立場から考えたいと思っています。今後とも、当ブログをよろしくお願いいたします。


司法関係記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html

改憲派論理研究記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/kaikenha-ronri.html
posted by s19171107 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記じゃない雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【感情理論】についての検索結果をリンク集にして…
Excerpt: 感情理論 に関する検索結果をマッシュアップして1ページにまとめておきます…
Weblog: あらかじめサーチ!
Tracked: 2008-01-28 15:31
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