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2008年03月29日

綿井健陽の『逆視逆考』トーク 第1回「光市母子殺害事件〜裁判で何が争われてきたのか」参加記録(4)

 第4回は所謂「不謹慎な手紙」について報告します。

 手紙の背景として、文通相手について説明がありました。曰く、相手は先に出所していた元同房者であり、度々被告を煽り立てる内容の手紙を送っていたそうです。被告は犯行当時18歳で、以降ずっと拘置所に収監されており、友人がおらず、唯一自分の相手をしてくれる、この元同房者に相手にされたいが為に、被告もその煽りに乗ったものであると考えているそうです。

 しかし、この手紙が不謹慎であり、酷い内容であることは確かであると言明しました。河井氏自身は、あの手紙が書かれた時点ではまだ弁護団にはいっていなかったので、あくまで推測に過ぎないが、という断りの上で、当時被告は所謂「反省」というものはしていなかったと思われるとし、その理由として、被告はあの段階では事実と向き合う機会を与えられていなかったからであるとしました。

 あたりまえですが、ある出来事に対して「反省」するということは、その出来事に対して真摯に向き合う必要があります。しかし、被告は当時18歳、精神年齢に至っては12歳以下程度と鑑定されていました。筆者自身が12歳だった時節のことを思い出すと、私も当時いろいろ「悪いこと」をやっていましたが、所謂「良心の呵責」による自主的な生活総括・自己批判よりは、親類や教師など、外部からの圧力による生活総括・自己批判の方が圧倒的に多かった記憶があります。少年事件における被告人については、弁護団も更新意見陳述書において、「少年はその能力の未発達から、自分の行為を正確に認識し理解することはもとより、これを表現し説明することも困難である」としているように、外的要因によって「事実と向きあわせる」ことが必要であります。

 その点、1審における被告人質問は20分余りと極めて短く、特に犯行についての質問は5分あったかないか程度であり、これでは「反省」の前提たる「事実と向きあわせる」としては、全く不十分であると言わざるを得ません。

 では、あの「不謹慎な手紙」からかなり時間のたった現時点では、被告はどの程度まで「反省」できているのでしょうか。

 その点について河井氏は、まず今回の最高裁審理・差し戻し審を通じて被告は初めて、自分の言葉で話すことによって、事実と向き合うことができ、更生の大前提には至っているとしました。今まで決して語らなかった、昔日に実父から受けたDVについて語り、あれが自分の人格形成に大きな悪影響をもたらし、今回の事件もあのDVの経験が影響していることを認識したが、しかし、いかなる理由があろうとも、人ふたりを殺めたことは許されないことであるということも認識したといいます。

 では、被告は現時点で既に真人間になったかといえば、そうではないく、被告は18歳の犯行当時からずっと拘置所におり、更生プログラムは一切受けていない。また、安田弁護士らが当裁判に弁護人として名乗り上げるまでは、裁判関連の資料を殆ど所持しておらず、全く裁判から疎外され、また「疎外された」裁判においても、「反省」の前提たる「事実」と異なるストーリーを軸として長いこと進んできたのだから、そう簡単に「反省」できるものではなく、今回の差し戻し審で初めて、反省のキッカケを得、償いの仕方を今まさに考え始めた段階にあるとしました。

 被告は死ではなく、生きることを望んでいます。その生きる目的については、まだ発見には至っていないようですが、今の段階においては、何故このような事件がおきたのかを示す生き証人となりたいそうです。そして、生きる目的を探し・贖罪の仕方を見つけるために、名古屋のアベック殺人事件の実行犯と文通をしているとのことです。

 ここで綿井氏も、自身が被告と接見した経験から、話をされました。
 曰く、被告は自身についての報道は、ラジオや新聞を通じて良く知っているとのこと。流石にテレビは無いそうですが。そして、そういうメディア報道を目に・耳にすることによって、自分の考えを如何伝えるべきか、何をやっても正しく伝わらないのではないか、またメディアの方で改変されてしまうのではないか、と悩んでいるそうな。

 最高裁弁論直前に安田弁護士らと接見し、その場において殺意の否定など、それまでの裁判の前提となっていた検察調書における「自白」と根本的に矛盾する発言を行ったことによって、当裁判は新しい局面に入ったことは皆さんご存知でしょうが、その前にまず教誨師に対して自分の行為を告白していたらしいことを明らかにしました。

 また、綿井氏は被告の内面について、小難しい用語を使う「大人の部分」と自分の言動に対する無防備さなどの「子供の部分」があると指摘。前者については拘置所房内における読書の賜物であろうとし、後者については、18歳の犯行当時からずっと拘置所にいることによって社会経験が無いことによるものであると推測しました。

 被告は自殺については何度も試みています。母の自殺後より自殺願望があり、事件直後も父親にバレるのが怖くて自殺を図ろうとしています。このように、自身の「生」についての意識が希薄であったのですが、取調べ官や検察官などから、生きて償うことの重要性を説かれたそうで(その検察官から今死刑を求刑されているのは、なんともまあ)、また判決が近いからか、「死」とは何かというようなことについて考えてるようです。

 これ以降、質疑応答に入りました。質疑応答の模様については別記事で。

本トークショー関連の記事一覧
http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/97.2.2.talkshow.html

司法関係関連記事一覧
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posted by s19171107 at 07:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 突撃取材 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
・質問
事件当時の被告の住所と、母親が自殺した当時の被告の住所は同じですか?
Posted by 無名Y at 2008年04月10日 20:43
コメント有難うございます。

>>無名Yさん
 直接的には書かれていないので良く分かりませんが、控訴審弁護団資料74ページから始まる「犯罪心理鑑定書」には被告の生育環境について記述があり、その中に断片的にではありますが、書かれていますので、ご紹介します。

 まず、被告の父母は1980年5月に結婚し、当初は光市内の社宅で2人で生活していたそうです。被告は1981年3月に生まれました。(同75ページ)

 1989年5月、被告が小学3年生当時、それまで住んでいた社宅から、新築の自宅に引越し、父方祖母との同居が始まったそうです。(同75ページ)

 実母は1993年9月、自宅ガレージで自殺しました。(同76ページ)

 1998年1月、一家全員でアパートに引っ越した、とあります。(同78ページ)

 事件は1999年4月14日ですね。

 ゆえに、結論から言うと、被告の事件当時の住所と実母自殺当時の住所は違うということになると思います。
Posted by s19171107@管理人 at 2008年04月10日 23:10
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