私も光市事件関係資料の一つとして今読んでいるところなんですが、弁護活動の問題点について、世論(笑)とは別の角度、すなわち、更生という点に関して、弁護団内部の視点から指摘しており、大変面白い内容であると思います。今枝氏の回し者ではありませんが、皆様も是非お買い求めいただきたい。
ところで、この本の帯は宮崎哲弥が書いています。その内容が以下。
「本当は、人が人を弁護することなんかできない。それをわかっている弁護士こそが、真の『人権派』だ。この男、わかっている。」 ですって。
ふむ、確かに面白い視点ですが、それをいうなら「人が人を裁くこと」も「人が人を処罰すること」もできないんじゃないですかね?
まあ、こんなこと言うと裁判なんて成り立たなくなるので、その辺は割り切って考えなきゃいかんのでしょうが、それにしても宮崎の言葉の軽さにはいつもいつも、ある意味「感心」しますねぇ。
それはさておき、「人が人を処罰すること」ができないのではないか、という論点は、死刑制度についての討論においても良く出てくるように思います。すなわち、国家が人の死にまで関与することができるのか、というような感じです。
当方が、死刑制度についての明確な意見を未だ確立していないというのは、以前から書いている通りですが、こんだけ裁判関係の記事を書いてきている以上、そろそろ固めの作業に入り始める時期ではないかとも思っています。もちろん、そう簡単にはいかない難しい作業ではありますが、「被害者遺族の感情」だけではなく、様々な角度から、時には被害者遺族におかれてましては、「冷たい」と思われるようなことも覚悟で、考えてゆきたいと思う次第です。
なお、先に書いておきますが、昨今は「心情的に理解できるから正しい」という、妙な、論理にもならないような論理が幅を利かせています。また、感情屋の皆様の言説を分析してきた経験上、「常識的に考えて」という言葉も、数え切れないほど見てきました。その点、死刑制度について考えようとすると、「常識的に考えて死刑存置だろう」というようなご意見を戴くものと存じますが、私としては、所謂『常識』を「常識だから」として検証しないでいる限りは、死刑制度に限らず、あらゆる問題について進歩は無いと考えます。そして、死刑制度というのは国家の刑罰システムである以上、色々な視点で語られてしかるべきではないでしょうか。
そういう観点から、今、私は死刑制度の是非以前に、「なぜ最愛の人を殺した人間を殺したいと思うのか」という点について考えています。
もちろん、心理的・感情的には「殺したい」気持ちは分かりますよ。しかし、なぜ、数多ある方策の中から、あえて「殺したい」と思うのか。現実に死刑制度と「被害者遺族感情」が切っても切れない関係にある以上、「心情的に理解できるから正しい」などという思考停止にも近いものではなく、真に論理的に考えなくてはならないと思います。
ちなみに私としては、加害者を本当に苦しませたいのならば、一瞬で終わる絞首刑ではなく、手足の指を一本ずつ切り落として切り口に丁寧に塩を塗りこむといった、古代の拷問みたいなことの方が苦しむと思います。しかし、それだっていつかは体力の限界が来て死ぬし、刑務官も発狂しかねませんので、死刑判決によって死の恐怖を感じさせながら、実際は絶対に処刑はせず、発狂しない程度に狭い部屋に隔離して、日中は本当に何もさせずにただ正座させ、独り言を禁止し、病気になれば全力で治療して回復させ、寿命が来るまで生き延びさせるほうが「苦しむ」のではないかと思います(少なくとも私は死刑よりこっちのほうが怖いです)が、やはり世間では「殺したい」という意見の方が根強いようです。
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http://www.geocities.jp/s19171107/DIARY/BLOGINDEX/saiban.html
奴は変遷もさることながら
CMにでるというアホ行為してます。
小林よしのりが、ちょうしのってるって
自分の雑誌に書いてありましたが
そのとおりですよ。
あいつは評論家のタブーを破ってますね。
もし薬害がおきても彼は弁護しなくてはならない。
評論家は孤独にひっそりと活動するもんですよ。
なんで広告塔になっとんねん。
そうそう。私もこの点が非常に気になったんですよ。おっしゃるとおり「裁くことができない」というのなら、まだ理屈として通ってるんですが。
宮崎は光市母子殺人事件公判で本村氏側のサポーターとしてふるまってましたしね。一種の「勝利宣言」として読むとまた違ったものが見えるかと。ま、そういう人物に帯を書かせる今枝弁護士も少々問題かと思いますが…。
>「天性の庇護者」さん
宮崎はもう芸人なんじゃねえかとすら最近は思うようになってきましたwww
>「mash」さん
そういえば、「裁くことができない」といえばハンムラビ法典は興味深いですよね。たしか、有罪無罪の区別がつかない事案については、被告人を川に飛び込ませて、溺れたら有罪、生還したら無罪みたいな風にしていましたから。恐らく、チグリス・ユーフラテス両河に挟まれたメソポタミア文明においては、川に超自然的なもの、つまり「神」が宿っていると考えたんでしょうね。
非科学的・古代的な発想ではありますが、この条文を、結局人間のできることというのは限られている以上、「人が人を裁くこと」や「人が人を処罰すること」の限界をきちんと認識して、自分たちの力量ではどうしようもない部分については、キッパリとあきらめている、という視点で分析すると、ハンムラビ法典というのは、当時にしては進歩的な内容だったんだなあ、と思います。
古代の法律って結構面白いですよね。パッと見、キチガイじみているけど、よくよく考えると結構深い意義をもっているものが少なくありません。本当にキチガイなのもありますけど。
今枝弁護士については、私もちょっと「あれれ」と思うことが少なくないんですよね。「いい人」であり且つ「型破り」なんだと思うんですが、ちょっと無防備すぎるというか。。。