24日あたり発売の、『週刊朝日』に「日本共産党宣言 志位和夫共産党委員長 資本主義を叱る」という記事が掲載されました。
現代日本の情勢と、その根本原因である資本主義の病理について批判し、そこから目指すべき社会の輪郭みたいなのが書いてあり、全部で5ページの記事ですが、日本共産党の立場を簡単に知るには丁度良い内容と分量だと思います。
発売中の雑誌の記事をスキャンするのは流石にどうかと思うので、今回は、要点をまとめ、それに対する私のコメントを書きます。
まず記事は、
当ブログでもちょっと取り上げた2月8日の志位質問への反響や、「R25」へのマルクス紹介記事など、日本国内でも共産主義再評価の動きがあるのではないか、という編集部の質問に対する志位氏の返答から始まりました。
志位氏曰く、米英のメディア調査などでも、マルクスを3大哲学者するなど、マルクスの人気は世界的に急上昇していると指摘しました。
つづいて、「資本主義の本家本元」である米英で、どうしてこのような動きが見られるのか、という編集部の質問に対して、志位氏は、貧富の格差の世界的広がり、投機マネーの国民経済破壊、不況・恐慌の制御不可など、資本主義の矛盾が深化しており、これらの解決が資本主義の枠内においては難しいという認識が広まりつつあるのではないかと指摘し、これが資本主義の本質を明らかにしたマルクスを再評価する動きに繋がっていると推測しました。
そして日本については、労働基準法に残業上限時間がないなど、更に特殊な「ルール無き資本主義」であり、また、非正規雇用が全体の3分の1まで増え、その7割強が仕事のあるときだけ雇用される登録型派遣という不安定な状態(欧州においての派遣労働は本当に一時的なものであり、正社員と同じ労働内容の場合は均等待遇のルールが定められている)におかれており、特にここ十年、人間使い捨て型の19世紀的な野蛮でむきだしの資本主義が新たな残酷さをもって復活していると批判しました。
つづいて、これらの問題は「資本主義の本質」に根ざしたものなのか、という編集部の質問に対して、志位氏は、資本主義の本性は利潤第一主義であり、この立場が労働者絞り上げと、それに伴う貧困化をもたらす。昨今の結婚・出産もできない若者の増加などは、この資本主義の本性に根ざした現象であり、これを放置すれば今後の日本社会は成り立たないと主張しました。
さて、そもそも労働って何なんでしょう。この質問に対して、志位氏は以下のように答えました。
曰く、「人間らしい労働」とは、労働を通じて自己実現をし、自分の能力を豊かにする要素が必要と。しかし実際は労働者の給与は減り続け、ついに年収200万円以下の労働者が1000万人を越えた。昨今の「格差問題」の本質は「貧困」であると指摘し、この情勢を変え、「人間らしい労働」を実現するには、まず資本主義の枠内で、たとえば、正社員化など、向きの直接雇用を進め、使い捨ての最悪形態である派遣労働のような間接雇用をなくしてゆくなど、「人間らしい労働・経済」のルールをつくることが必要だと訴えました。
ところで、昨今は正社員の地位もあやうい情勢です。この点に関して志位氏は、現状は「板子一枚下は地獄」という正社員のあやうい立場が、正社員の際限の無い長時間労働に駆り立てており、それが過労死・過労自殺の元凶になっている。これを解決するには企業に雇用を維持する社会的責任があるとしました。また、大企業の多くは目先の利益追求に熱中しており、中長期的な社会・経済への責任を負わなくなり、結果、技術・知識の蓄積が停滞している。企業活動を無制限に自由化すれば、社会全体が不自由になり、持続可能な社会ではなくなることを自覚しなくてはならないと指摘しました。国民の暮らし自由の保障が社会の発展に寄与し、長い目で見れば企業にとっても利益であると指摘しました。
つづいて、ライブドアや村上ファンド(M&Aコンサルティングなど)の隆盛から、社会に「競争で活力が生まれ、勝ち組が全体を引っ張る」とか「自己責任だから自由にやらせろ」などという考えが蔓延った件について、志位氏は投機荒稼ぎの原資は「人間としてのまともな生存条件さえ保障されていない人たちから搾り取ったカネ」であり、そういう人たちの痛みが分からないのは経営者として失格であると断じました。
ライブドアや村上ファンドなどの投機・M&Aは日本だけの問題ではありません。今や世界中で投機マネーが飛び交っています。編集部は、国際的投機マネーの時代はマルクスの時代とは異なるが、昨今の投機マネーの問題についてはどうかと話題を振りました。
志位氏は、マルクスの「資本主義は株式会社を発展させるが、それは巨大なギャンブル制度を作り出す」という『資本論』の一節(そんなくだりあったか良く覚えていないんだが)を引用し、短期の利益を最も極端な形で追い求めるのが投機マネーであり、これらは実体経済とかけ離れたところで利益を上げようとする、「商売の邪道」で「資本主義にとっても先の無い末期的症状」であり、カネもうけこそが目的の全てである資本主義の行き着く先であると断じました。
つづいて、ちょっと哲学的な話から社会主義の展望へ。
「人にとって幸せな生き方とはどのようなものか」という問いに対し志位氏は、本来、様々な形の発展の可能性があるはずの人間は、資本主義社会においては一部の人以外は長時間労働や雇用不安定によって発展が自由にできないでいる。社会主義社会では生産手段の社会化によって搾取を廃絶し、労働時間を抜本的に短縮することによって社会全ての人の人間的発展を保障できるようになり、それが人類全体の財産であり、社会全体を豊かにする原資となると主張しました。
対して編集部は、「多くの人の心には、怠けたいとか、自分だけ得をしたいといった利己的な部分もあります。仮に生産を社会化しても、みんなが「誰かがやってくれる」と、あぐらをかいてしまったら仕組みは壊れませんか?」という、妙な質問をぶつけました。
対して志位氏は「社会の発展に即して、人間の意識も変わってくるでしょう」とし、モーツァルトが作曲し、ピカソが絵を描くのは苦役ではなく喜びだったと指摘。もともと人間は、労働を通じてサルから進化してきたのだから、真の自発的労働は喜びになるはずだと反論しました。
さて、社会主義者・共産主義者に対する風当たりは尚、強いものがあります。その原因として、ソ連や東欧など、「20世紀社会主義」が派手にぶっこわれ、それら全てが資本主義に転向したことが、人々の間に社会主義に対する悪い印象の原因になっていることは無視できません。この点について編集部は問いました。
志位氏は、ソ連は生産手段の国有化はあったが、実際の生産者は生産の管理・運営から排除され、抑圧されており、これでは本来的な意味での「生産の社会化」とは言えず、ゆえにソ連社会は社会主義・共産主義とは無縁の社会であったと厳しく批判しました。
20世紀社会主義については、ソ連・東欧のほかに中国もあります。編集部は、社会主義市場経済の建前を持ちながらも、それこそ「むき出しの資本主義」といっても過言では無い中国について、「貧富の差の拡大や公害など資本主義的な問題が深刻化している」と指摘しました。
対して志位氏は、中国の「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みは、普遍性と合理性があり、市場機構は経済の弾力的・効率的運営を可能にし、うまく使えば経済発展のテコになると認めた上で、現状においては様々な矛盾も生じているが、それらを無視することなく、調和の取れた発展を図ろうとしているのではないかと分析し、政治上・社会上の未解決問題を残しながらも、全体的には社会主義の方向に向かいつつあるものと捉えているとしました。また、日本共産党も「市場経済を通じて社会主義へ」という路線を綱領で定めていると紹介しました。
昨今の世界情勢について。
経済については、冷戦崩壊後の国際情勢は米一極化でしたが、近年はEUやBRICsの重要性が増していることについて、IMFの『世界経済見通し』の統計数値を見る限り、先進国は投機マネーにのめりこんで躓く一方で、内需実物経済中心の新興国が発展しており、今や世界経済の推進力となっていると指摘。世界経済の力関係は大きく変化しているとしました。
政治についても、ASEAN諸国が1970年代に締結した、戦争放棄と紛争の平和的解決を明記した東南アジア友好協力条約がイラク戦争を契機に参加国を増やし、EUも加盟申請しており、ユーラシア大陸全体の平和共同体になりつつある。また、他の地域でも平和共同体づくりが進んでおり、北米でもカナダは戦争反対であるから、最後はアメリカが残る形になる。このように、政治的にもアメリカは孤立化している。日本はどうするべきか、いつまで付き合うのか、と指摘しました。
今後の運動について。
「万国のプロレタリアートよ団結せよ!」という『共産党宣言』のスローガンは今尚有効か、という問いに対し志位氏は、国際連帯の旗印としては、「反資本主義」「反帝国主義」よりも更に広範に人々を結集できるものが必要だと指摘。「新自由主義を押し付ける経済的覇権主義は許さない、国連憲章を踏みにじる軍事的覇権主義は許さない」という旗印なら、更に広範に人々を結集できるものとなるだろうとしました。
ブルジョアとプロレタリアの階級対立とは異なるあたらな軸が生まれたのかという編集部の問いに対し、志位氏は、根底には資本と労働の対立があるが、同時にもっと広範に人々を結集できる旗印が見つかったのだから、そのなかから資本主義から社会主義・共産主義に向かう前進が必ず生まれてくるのが21世紀という時代だと考えていると訴えました。
志位氏自身が生きている間に資本主義から社会主義・共産主義に向かう前進が生まれてくるかという問いに対しては、「わからない」と正直に返答しました。
先進国ではどこも共産党は振るわないことについて、日本共産党に未来はあるかという問いに対しては、社会主義・共産主義の原点は資本主義批判である以上、世界的に行き詰った資本主義には共産主義の未来があると訴えました。
党名変更について。
「これだけ共産主義の理想を語ったじゃないですか(笑い)。そんな間違った道は取りませんよ。」
内容は以上です。
私としては、この記事について、社会主義論・共産主義論に関するやりとりと、近年の中国に関する認識の2点について気になりました。
社会主義論・共産主義論に関するやりとりに関して、志位氏の発言ではなく、編集部の、「多くの人の心には、怠けたいとか、自分だけ得をしたいといった利己的な部分もあります。仮に生産を社会化しても、みんなが「誰かがやってくれる」と、あぐらをかいてしまったら仕組みは壊れませんか?」という質問について。
志位氏も言っているように、社会主義社会は生産手段の社会化・生産者自身による自主管理・自主運営により搾取が廃絶されるとしています。逆に言うと、生産手段が私有化されている資本主義社会では搾取が存在するわけであります。あたりまえだけど。
で、搾取というのは、要するにピンハネと同じようなもの。つまり、搾取のある資本主義社会というのは、労働者は自分のために働いているつもりでも、実は搾取者のためにも働いているということになります。
その点、さっきも書いたとおり、搾取の廃絶された社会主義社会というのは、労働の成果が横取りされることはないので、労働の果実が全て自分のものになる。つまり、社会主義社会における労働というのは、資本主義社会のそれとは異なり、完全に自分のための労働ということになります。
論理的には。
ところで、社会主義配分原則というのは、
大辞泉によると、「各人は能力に応じて働き、働きに応じて分配を受けるとされる」とあります。簡単に言うと労働比例配分ですね。そして、先ほど書いたように、社会主義社会における労働は完全に自分のための労働である以上、配分についても自分のための配分ということになります。
したがって、自分のため労働・自分のための配分を社会制度として定式化した社会主義社会においては、「誰かがやってくれる」という期待をもつことは無いとおもうんですがね。たしかに「誰か」やるでしょうけど、それは「誰か」自身のための労働であるんですから。
もっとも、「誰かがやってくれる」ことに期待して、結局誰も働かないという危険性は、
共産主義においては考えられます。共産主義の配分原則は、またも
大辞泉によると、「生産力が高度に発達」するという留保つきですが、「各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受ける」とありますから。
そして、この危険性についての回避を「社会の発展に即して、人間の意識も変わってくるでしょう」というふうに、人間意識の変化に期待してしまっているところは、確かに時代と共に人間意識は大きく変化してきていますが、旧時代的意識だって潜在化しつつも健在である以上、何かの拍子で旧時代的意識が表面化した場合、人間の善意性に期待する経済システムは、ちょっと「危ういなぁ」と思う次第です。
私自身は以前より、自身に社会主義的傾向があることを表明しておりますが、共産主義的傾向はありません。これは、今申し上げたように、人間の善意性に期待する経済システムには今ひとつ、信頼が置けないからです。
近年の中国に関する認識について。
志位氏の「市場経済を通じて社会主義へ」という取り組みは、普遍性と合理性があり、市場機構は経済の弾力的・効率的運営を可能にし、うまく使えば経済発展のテコになるという認識については、私もユーゴ型社会主義の教訓を踏まえた上で、独立採算制の労働者自主管理企業が市場機構を通じて経済活動を行う体制の現実性について、暇なときに考えている人間であるからして、異論はありません。
しかし、果たして中国はそういう国でしょうか。そういう意思があるでしょうか。そういう環境にあるでしょうか。
下記は、今年2月28日の東京新聞朝刊記事です。クリックで拡大します。

「社会主義」中国における農村地域の土地私有宣言。背景は開発業者と結託した中国共産党地方幹部による集団所有地の不法占用にあります。
私としては、農村の土地は集団所有だからこそ、公的機関、たとえば比較的真面目な党中央の介入が受けられるのであって、これを私有化してしまったら、今度こそ開発業者の地上げに対して公権力が介入できなくなるため、土地の私有宣言は土地防衛の手段としては逆効果なんじゃないかとも思いますが、それだけ農民も追い詰められているということでしょう。
まあ、それはさておき、この現象において重要なのは、中国共産党地方幹部が開発業者と結託しているところにあります。そして、さらにこれが全国化しそうな情勢です。
果たして、こんな国が全体的には社会主義の方向に向かいつつあるといえるでしょうか。もちろん、法的には農村の土地は集団所有であると明記されていますが、形式的な社会主義では意味がありません。
また、昨今のチベット情勢について考えてみても、
3月23日の記事の最後のほうにも書いたように、中国の言い分はもはや覇権主義者の言い分と瓜二つであります。この記事において志位氏は「新自由主義を押し付ける経済的覇権主義は許さない、国連憲章を踏みにじる軍事的覇権主義は許さない」という立場を新時代の旗印とすべきだとしていますが、それならば、まさに今、我々の立ち向かうべき相手は中国に他ならないのではないでしょうか。それとも、中国は「新自由主義を押し付」けないから「経済的覇権主義」にはあたらないとか?それは流石に詭弁ですねー
また、関連して中国の民族政策について考えてみても、レーニン主義的な民族平等政策というよりは、辛亥革命以降、国民党が主に主張してきた「中華民族化」の路線に沿っているように見え、やはり中国は社会主義とは相容れない国であるといわざるを得ません。
以上2点について疑問を感じたので、メモしておきます。