イージス艦と漁船の衝突事故についての報道は、事件以来本日まで、沢山の報道がなされてきましたが、ここ数日は調査が打ち切られたりしており、ようやく減りつつあります。それと連動して、世論も沈静化しつつあります。
この事件に対しては、実に様々な意見が飛び交いましたが、私としては、ウヨな方々の苦し紛れの発言がことのほか目立ったように思います。
そんなウヨさんたちの言説のうち、スタンダードなものがコンパクトにまとめられているのが西尾幹二氏の名で産経新聞から発信されたので、ちょっと見ておきましょう。
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080229/plc0802290317000-n1.htm ■国防軽視のマスコミに大きな責任
≪軍艦の航行の自由は≫
海上自衛隊のイージス艦が衝突して漁船を大破沈没せしめた海難事故は、被害者がいまだに行方不明で、二度とあってはならない不幸な事件である。しかし事柄の不幸の深刻さと、それに対するマスコミの取り扱いがはたして妥当か否かはまた別の問題である。
イージス艦は国防に欠かせない軍艦であり、一旦緩急があるとき国土の防衛に敢然と出動してもらわなければ困る船だ。機密保持のままの出動もあるだろう。民間の船が多数海上にあるとき、軍艦の航行の自由をどう守るかの観点がマスコミの論調に皆無である。
航行の自由を得るための努力への義務は軍民双方にある。大きな軍艦が小さな漁船を壊した人命事故はたしかに遺憾だが、多数走り回る小さな漁船や商船の群れから大きな軍艦をどう守るかという観点もマスコミの論議の中になければ、公正を欠くことにならないか。
今回の事故は目下海上保安庁にいっさい捜査が委ねられていて、28日段階では、防衛省側にも捜査の情報は伝えられていないと聞く。イージス艦は港内にあって缶詰め状態のままである。捜査が終了するのに2、3カ月を要し、それまでは艦側にミスがあったのか、ひょっとして漁船側に責任があったのか、厳密には分からない。捜査の結果いかんで関係者は検察に送検され、刑事責任が問われる。その段階で海上保安庁が事故内容の状況説明を公開するはずだ。しかもその後、海難審判が1、2年はつづいて、事故原因究明がおこなわれるのを常とする。
≪非難の矛先は組織に≫
気が遠くなるような綿密な手続きである。だからマスコミは大騒ぎせず、冷静に見守るべきだ。軍艦側の横暴だときめつけ、非難のことばを浴びせかけるのは、悪いのは何ごともすべて軍だという戦後マスコミの体質がまたまた露呈しただけのことで、沖縄集団自決問題とそっくり同じパターンである。
単なる海上の交通事故をマスコミはねじ曲げて自衛隊の隠蔽(いんぺい)体質だと言い立て、矛先を組織論にしきりに向けて、それを野党政治家が政争の具にしているが、情けないレベルである。今のところ自衛隊の側の黒白もはっきりしていないのである。防衛省側はまだ最終判断材料を与えられていない。組織の隠蔽かどうかも分からないのだ。
ということは、この問題にも憲法9条の壁があることを示している。自衛隊には「軍法」がなく、「軍事裁判所」もない。だから軍艦が一般の船舶と同じに扱われている。単なる交通事故扱いで、軍らしい扱いを受けていないのに責任だけ軍並みだというのはどこか異様である。
日本以外の世界各国において、民間の船舶は軍艦に対し、外国の軍艦に対しても、進路を譲るなど表敬の態度を示す。日本だけは民間の船が平生さして気を使わない。誇らしい自国の軍隊ではなくどうせガードマンだという自衛隊軽視の戦後特有の感情が今も災いしているからである。防衛大臣と海上幕僚長が謝罪に訪れた際、漁業組合長がとった高飛車な態度に、ひごろ日本国民がいかに自衛隊に敬意を払っていないかが表れていた。それは国防軽視のマスコミの体質の反映でもある。
≪安保の本質論抜け落ち≫
そうなるには理由もある。自衛隊が日本人の愛国心の中核になり得ず、米軍の一翼を担う補完部隊にすぎないことを国民は見抜き、根本的な不安を抱いているからである。イージス艦といえばつい先日、弾道ミサイルを空中で迎撃破壊する実験を行った。飛来するミサイルに水も漏らさぬ防衛網を敷くにはほど遠く、単なる気休めで、核防衛にはわが国の核武装のほかには有効な手のないことはつとに知られている。
米軍需産業に奉仕するだけの受け身のミサイル防衛でいいのかなど、マスコミは日本の安全保障をめぐる本質論を展開してほしい。当然専守防衛からの転換が必要だ。それを逃げて、今のように軍を乱暴な悪者と見る情緒的反応に終始するのは余りに「鎖国」的である。
沖縄で過日14歳の少女が夜、米兵の誘いに乗って家まで連れていかれた、という事件があった。これにもマスコミは情緒的な反応をした。沖縄県知事は怒りの声明を繰り返した。再発防止のために米軍に隊員教育の格別の施策を求めるのは当然である。ただ県知事は他にもやるべきことがあった。女子中学生が夜、未知の男の誘いに乗らないよう沖縄の教育界と父母会に忠告し、指導すべきであった。
衝突事故も少女連れ去りも、再発防止への努力は軍民双方に平等に義務がある。
さて、一般論と個別論を上手く使い分けているので、パッと見、同意してしまいそうですが、西尾幹二氏といえば、太平洋戦争について評価に際して「今の価値観ではなく、当時の価値観で判断しなければならない」と、何年か前の終戦記念日に靖国で力説していたし、法律的にも、こういう事故の場合、事故当時の法制度に従って判断すべきことなので、あくまで個別論で考えたいと思います。
さて、西尾センセーはこの事件の報道に関して、「イージス艦は軍艦であり、機密保持のままの緊急出動もあるから、そういう場合の「軍艦の航行の自由」を如何に守るかという論点が欠如している」と指摘されています。
しかし、これは一般論であります。先ほど宣言したように、本件をあくまで個別論で考えると、今回の場合、ハワイでの軍事演習の
帰りであり、緊急性というものはありません。
次に、西尾センセーは「航行の自由を守る義務は軍民双方にある」と指摘しています。これは正しい。だからこそ、海上衝突予防法では、船同士の衝突を避けるため、船舶の大小・所属の軍民を問わずに、「右側通行の原則」を規定しているのです。また、今回の事件に関して言えば、夜明け前の真っ暗な海であり、船の大小を判別することはできません。漁船のレーダーは対象を点でしか表示しません。果たして、どうやって識別しろというのでしょうか。
一般論で見ても、個別論で見ても、賛同できない主張です。
続いて、西尾センセーは、「
単なる海上の交通事故をマスコミはねじ曲げて自衛隊の隠蔽体質だと言い立て」ているとしています。しかし、「
単なる海上の交通事故」にすぎない本件であるからこそ、防衛省の二転三転する説明には問題があるのです。また、西尾センセーの仰るとおり、今のところ自衛隊の側の黒白もはっきりしていません。しかし、分かっている範囲内の情報を明らかにせず、代わりに別の情報を流したり、あるいは説明そのものが二転三転することは、やはり重大な問題であると言わざるを得ません。
このようにして考えると、「
軍らしい扱いを受けていないのに責任だけ軍並み」とするセンセーの主張は、一体何を指しているのか、いまいち判然としません。
さらに、こう続けます。
日本以外の世界各国において、民間の船舶は軍艦に対し、外国の軍艦に対しても、進路を譲るなど表敬の態度を示す。日本だけは民間の船が平生さして気を使わない。誇らしい自国の軍隊ではなくどうせガードマンだという自衛隊軽視の戦後特有の感情が今も災いしているからである。防衛大臣と海上幕僚長が謝罪に訪れた際、漁業組合長がとった高飛車な態度に、ひごろ日本国民がいかに自衛隊に敬意を払っていないかが表れていた。それは国防軽視のマスコミの体質の反映でもある。
ハッキリ言って、西尾センセーは個別論を重視する立場の割には、報道見ていないようです。
今回の衝突事故は、先ほども書いたように、日の出前の出来事であり、漁船のレーダーでは軍艦か如何かなんて分かるわけありません。また、漁船団の「清徳丸」以外の船舶は全て回避行動を取っていることが判明しています。当時、「清徳丸」船内では何が起きていたのかは、誰にも分かりませんが、少なくとも、西尾センセーのこの言説は、全く頓珍漢な「一般論」を、この事件という「個別論」に無理やりに当てはめようとしています。
また、「
高飛車な態度」というのは、一体何を指しているのでしょうか。「うちの漁船が軍艦の前をウロチョロして申し訳ありません」と、逆に謝ることでしょうか。
自衛隊の任務は国民を守ることであり、国民を殺すことではありません。「当たり前のこと」をして褒められ、「してはいけないこと」をしても「いいんだよ、君のせいではない」で許されるのは、小学校低学年までです。
まだまだ続きます。むしろ暴走し始めました。
そうなるには理由もある。自衛隊が日本人の愛国心の中核になり得ず、米軍の一翼を担う補完部隊にすぎないことを国民は見抜き、根本的な不安を抱いているからである。イージス艦といえばつい先日、弾道ミサイルを空中で迎撃破壊する実験を行った。飛来するミサイルに水も漏らさぬ防衛網を敷くにはほど遠く、単なる気休めで、核防衛にはわが国の核武装のほかには有効な手のないことはつとに知られている。
米軍需産業に奉仕するだけの受け身のミサイル防衛でいいのかなど、マスコミは日本の安全保障をめぐる本質論を展開してほしい。当然専守防衛からの転換が必要だ。それを逃げて、今のように軍を乱暴な悪者と見る情緒的反応に終始するのは余りに「鎖国」的である。
さて、核抑止力を持つための核武装だそうです。ここでもあくまで「日本の場合」という個別論で考えますが、果たして核武装は「核抑止」になりえるでしょうか。
日本を核兵器によって狙ってくると思われる国は、とりあえずは朝中露が考えられます。しかし、これらの国はそろいもそろって「ダメ国家」であり、核報復によって自国民が幾ら死んでも如何でもいいと思っている人たちが政権についています。もちろん、自分たちは核シェルターで攻撃が終わるのをじっと待っていることは言うまでもありません。
また、中国に対する核攻撃は、その放射性降下物が、今まさに日本に来襲している黄砂の如く舞い戻ってくる可能性もあります。
さらに、このご時世に、ミサイル等による核攻撃という、誰の仕業なのか一目瞭然である派手な攻撃をする国がどこにありますか。
このように考えると、果たしてこれらの国々に対する「核抑止」は、本当に「核抑止」となりえるのか、疑問が残ります。
最後に、西尾センセーは以下のように〆ています。
沖縄で過日14歳の少女が夜、米兵の誘いに乗って家まで連れていかれた、という事件があった。これにもマスコミは情緒的な反応をした。沖縄県知事は怒りの声明を繰り返した。再発防止のために米軍に隊員教育の格別の施策を求めるのは当然である。ただ県知事は他にもやるべきことがあった。女子中学生が夜、未知の男の誘いに乗らないよう沖縄の教育界と父母会に忠告し、指導すべきであった。
衝突事故も少女連れ去りも、再発防止への努力は軍民双方に平等に義務がある。
再発防止への努力は軍民双方に義務があるのは当然ですが、「平等」ではありません。あくまで能動的行為者に責任があり、受動的行為者には、限定的にしか責任はありません。(責任皆無のことも、もちろんある)
また、沖縄の強姦事件に関しては、
以前にも書きましたが、米兵以外の者の責任を強いてあげるとするならば、適切で十分な性教育を怠った教育現場と家庭の落ち度を責めるべきかと思いますが、
純潔教育論者の西尾センセーとしては、どうお考えなんでしょうか。
posted by s19171107 at 21:24|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
ウヨがウヨウヨ
|

|